――誰よりも
ただ、君がしあわせであるように
木陰に佇み、木漏れ日の恩恵を受ける日があるなど、かつては考えもしなかった。そも、そういった暇さえもなかった。
――だからだろうか、彼はなんとなく、柄でもないなと苦笑する。
この街は、ゼラムは明るい。
雪雲に覆われたデグレアでは、月に一度でもあればよかった晴天が、ここでは当たり前のように繰り返されている。
ああ、本当に柄ではないなと思いながら。
それでもふと、立ち止まって見上げた。
庭園で遊ぶ子供たちの声を聞きながら、頭上からの木漏れ日に身をゆだねた。
――ほんの少しのつもりで、実際、それほどの時間も経たなかったはずだ。
「あ! ルヴァイド様!」
まんじりと。明けぬ夜のように過ぎかけた時間が、さっ、と、普段どおりのリズムで刻みだされる。
弾んだ声が、彼の耳へと飛び込んでいた。
そして、走ってくる軽い足音。
普段のそれと違って、少しあぶなっかしいそれに気づいて振り返る。
「」
買出しの帰りなのだろう、大きな袋をいくつか抱えた養い子の姿があった。
濃い目の茶色、むしろ黒に近い髪のふちが、今は金色に近い。
駆けるたびに跳ね上がる髪は、乱暴に日の光を弾いて、華やかな印象。
見慣れた夜色の双眸も、心なしか色を淡くしているように思えた。
「買出しか?」
見て判ることを問えば、
「はい!」
元気よく、彼女はうなずく。
最後の一歩で両足を揃えたは、そうして彼の前に立ち止まる。
その拍子に、抱えた袋がぐらりと揺れた。
「――ほら」
「わ、すいません」
落ちかけたそれは、彼の片手で易々と止められるものだった。
頭を下げるから、そのまま袋を取り上げる。だが、彼女はそれを見て大慌て。
「ああっ、いいですいいです、自分で持てますから!」
「気にするな。もう戻るのか?」
「はい。…………あ、いえ」
「?」
一笑して問うとすぐに答えは返ったが、どこか要領を得ない。彼は少し眉をひそめた。
とはいえ、そこには怒気も苛つきもない。
他の人間相手ならそうもいくまい。
――自覚はあるのだが、どうしても、ことこれに関しては永劫変わることがなさそうだ。
自嘲もいっそ心地よい。
知らず口元を弛めた彼を見て、は、空いたほうの手で軽くその袖を引っ張った。
「少し、お散歩しませんか?」
こんなにいいお天気だから――
視線が示す周囲の光景は、まさに、彼女の表情どおり。
そうしてその表情は次に、ゆっくりうなずく彼を見て、周囲以上に晴れやかになっていた。
肩を並べて庭園を歩く。
本来はこの外周を回るように道路が整備されているけれど、こうして突き抜ければ反対側にも出口がある。
地理を考えれば道に出たほうが早いのだが、別に、急ぐ理由もなかった。
こぼれる陽光、駆け回る子供たち。見守る大人たち。
そこには、一切の翳りもない。
「1年前が嘘のようだな」
「そうですね……」
つぶやけば、ちょっとトーンを落とした声では応じる。
「ゼルフィルド――か」
彼ばかりではない。あの日喪われた同胞は幾多と数多と。だが、もっとも身近にいた故か。その名は本人を表しながら、象徴のようでさえある。
この感覚は、傍らの娘も、そして今は傍にいない部下の青年も、同じはずだった。
そうして口にした名で、さらに、隣の気配が落ち込んだ。
判り易すぎる変化に、こぼれるのは苦笑。
「……ゼルフィルドの気持ちを、俺がどうこうは云えんが」、
ぽん、と、あたたまった頭に軽く手をおいて。
「おまえの手にそれを残したことが、奴の答えだろう?」
「――」
応えてが取り出したのは、ゼルフィルドであったもの。
小さな小さな機械の欠片――思考ユニットの中枢を担う、コアと呼ばれる部品。
記憶と経験が詰まったそれには、ただ、ゼルフィルドであった心だけがない。
魂とも呼ばれるそれは、ロレイラルに還ったのか。
それとも輪廻の輪を潜り抜け、どこかで新しい生命として生まれているのか。
判らない。
それは、誰にも判らない。
けれど。
寂寥感だけをいや増させかねないそれを、はいつも持ち歩いている。肌身離さず。
それはけっして、過去を悔いつづけるためではないはずだ。
「……はい」
忘れないために。
失った哀しみを忘れないためではなくて、ゼルフィルドがたしかにこの世界に在った事実を、忘れないために。
遠い輪廻の果てで幸せに暮らしているように願う。
いつか遠い時間の果てで、互いが気づかなくても、また出逢えるように祈る。
そうしてこの養い子が、時を経て、喪った哀しみを静かに見つめることが出来るようになればとも。
――神と呼ばれるものなどいないリィンバウムで、それはどこに届くわけでもないだろうけど。
やわらかく微笑むを見て、ルヴァイドも、ゆっくりと口の端を持ち上げた。
そして、ふと。
「そういえば……おまえは、父上と母上に逢えたのか?」
最後の戦いから1年間、は姿を消していた。
彼女の時間では3ヶ月の間だったが、ともあれその期間は、元の世界に帰っていたのだと聞いていた。
が戻って、まだ数日だ。
そのことをこれまで深く問いはしなかったが、戻っていたということは、そうなのではなかろうか。
「あ、はいっ!」
コアを懐にしまいなおして、は、ぱっと笑う。
「――そうか」
「ルヴァイド様の話、しましたよ。イオスも、ゼルフィルドも――それから、みんなのことも」
さすがに、こういう戦争とかの話は、あっちの世界に縁はないから、ぼかしましたけど。
「よく、また送り出してくれたものだな?」
「うーん、実はやっぱり反対されたんですけどね。せっかく帰ってきたんだから、って」
「そうだろうな……」
それは、親として当然の感情だろう。
5年以上、杳として行方の知れなかった娘が、ひょっこりと戻ってきたのだ。もう手放したくないと思うのは、当たり前ではなかろうか。
――その気持ちは、もきっと、同じだったろう。
それこそ、5年ぶりに逢えた実の親だったろう。
「でもですね」
ルヴァイドの思考を断ち切ったの声は、でも、という否定だった。
「あたしはまだ子供だけど、いつか親離れはしたと思うんです。結局のとこ、それが早いか遅いかだけって違いだと思うようにしてます」
「親離れか……」
「それにあたしは、ここに帰りたかったんです」
「――――」
息を呑む。
つぶやいたルヴァイドの声が空気に溶けるかどうかのうちから。そう云って前へ向き直ったは、りん、と揺るぎない何かを見つめていた。
「あの世界でもしあわせでした。でも、いろんなことを知ったのは、リィンバウムなんです」
苦しいことも辛いことも、どうしようもないことがあるって事実も。
それでも誰もが、歩いていける強さを持ってるってことも。
「――あたしは、ここに帰ってきたかったんです」
こればっかりは、どちらかを選ばなきゃいけなかった。
選んだのは、こっちだった。
それでも最後には、笑って送り出してくれた父と母のことも、あたしは忘れない。
「あ。ほら、それにですね、これ」
一度懐に入れたコアを、はまた取り出した。
むき出しで持ち歩いているわけではない。
かわいらしい小さな袋――口は紐で絞るようになっている――に入っている。
「お母さんがつくってくれたんですよ。大事な形見だって云ったら、これに入れておきなさいって」
「よい母上なのだな」
「はい! お父さんもお母さんも、あたしの自慢です!」
褒められたのが嬉しいのだろう、満面の笑顔では云う。
「ご両親も、きっと同じ気持ちだろうな」
「そうですか?」
そうだったら嬉しいな。
「でも、ルヴァイド様のこともイオスのこともゼルフィルドのことも、逆に自慢しちゃいましたよ」
こっちであたしを育ててくれた、大好きな家族ですって。
えへへと笑う彼女の頭を、彼は、また、ぽんと叩いた。
同じだろう。
自分も、そう思うのだから。
「それにね」、
とりとめのない会話が嬉しいのか、の笑顔は消えない。
「妹が生まれるんだそうです。――まだお母さんのおなかのなかだったけど」
「そうか……それならば、ご両親だけで寂しくはならずにすむかもしれんな」
「はい!」
――奪い去ったようなものなのだ。
元々の出発は、この子の魂が選んでいたとはいえ、それが何の理由になろう
結果として、この世界は、この自分たちは、本来の両親から、本来の故郷から、この子をこちらに奪い去った。
時折、本当に時折。
うっすらと。罪悪感を、感じたりもしたけれど。
こうして明るく話すを見て、思う。それも徐々に薄らぐだろうと。
陽の光こぼれる庭園を抜けて、彼らは道路に出た。
きれいに敷き詰められた石畳を歩きながら、やはり、あれこれと思いつくままの会話が続く。
そうしてふと、そんなことを考えたのは。何故だろうかと、後に自問してみて、辿り着く答えはひとつだけ。やはり彼も、甘かったということなのだろう。
ともあれそのときのルヴァイドは、考えたそれを、そのまま少女へと投げかけた。
「」
「はい?」
呼びかけには笑顔。
「戦いは終わったのだ。おまえももう、剣を握る必要はないと思うが――?」
そのとたん、笑みは崩れる。
むっ、と眉をしかめて、はぴたりと足を止めた。
「それってどういう意味ですっ!?」
予想外の剣幕に、さすがのルヴァイドも少したじろいだ。
そこへたたみかけるように、ずずいと少女は詰め寄る。
「まーさーかー、あたしが女だから、いつまでも戦ってばかりじゃ嫁の貰い手がない、とか思ってませんよね?」
「――――」
「思ってるんですか?」
「……すまん」
「もー!」
呆れたような声で、非難ごうごう。
片手を腰に当てて、は、ぐいっと胸を張る。
「いつ何があるか判らないんだから、身体鍛えてて損はないはずでしょう? それに」、
「それに?」
悪かった、と、苦笑すれば。
「あたし、嫁とか結婚とかなんて、ルヴァイド様が身を固めたあとじゃないと考えませんよ」
……実に、まあ、とんでもない発言がわいて出た。
ことばも出ずに絶句する彼に気づいているのかいないのか。
彼女はくるりと身を翻し、すたすたと数歩進んで。
振り返って。
「ルヴァイド様に、先に幸せになってもらわなきゃ。――今まで、本当に苦労しっぱなしだったんだから」
そうでなきゃ、あたし、安心できません。
「…………」
何を云えばいいのだろう。
道の少し先、佇んで、笑いながらこちらを見る少女に。
――どんなことばを紡げば、この、今の自分の気持ちを伝えられるだろう。
ことばに不器用な自分の性分が、このときばかりは恨めしかった。
だが。だから。
「わっ!?」
無言で歩みを進め、荷物を一旦道に置く。
急なそれに首を傾げる少女を、抱き上げた。
荷物を落とさないようにあわてふためくに笑いながら、肩のあたりに持ち上げる。
片腕に身体をおさめて、置いていた荷物を再び持つ。
「ル、ルヴァイド様!? あたしいい加減重いですよ!?」
「おまえ一人抱えられんほど、腕をなまらせたつもりはないぞ」
「でーもーっ!」
いい年して抱っこされるのはちょっと恥ずかしいです!!
必死なの訴えは、けれど全面却下。
じたばたはしばらく続いたけれど、最終的には諦めて、は身体を預けてきた。――少し頬を赤らめて。
「うう、子供みたい……」
「子供だろうが」
意地悪だー! と、すねた声が返るけれど、それが本心でないことも知っている。
喉を鳴らして小さく笑い、ルヴァイドは、前を見たままに告げた。
「おまえは俺の養い子で、俺はおまえの養い親だ。子供が親の心配なぞ、するものではないだろう?」
絶句する気配。
戸惑う気配。
間近からの動揺がおかしくて、また、ルヴァイドは笑う。
「俺がこういうことを云うのはおかしいか?」
まあ、父親になれるような性格ではないがな。
「ううん! そんなことないです!」
即座に返される否定は、やけに力がこもっていた。そして、続いた「でも」もまた。
「――だから、あたし、ルヴァイド様には幸せになって欲しいんです」
「そうか」
だがな。
「俺はおまえが幸せなら、それで充分だ」
またしてもは絶句した。
それがからかいでもなんでもなく、彼の本心なのだと悟ったのだろう。
さて。養い親に似たのか、肝心の部分でことばに疎い少女が、そのあとどうしたかというと、
……何も云わずにただ、彼に身をすりよせたのだった。
――そう。
誰よりもただ、君がしあわせであるように
「は……入り込める隙がない……」
「これで判っただろう。最大の難関はあの人だということが」
でなくば、とっくに僕が攫ってたさ。
しみじみつぶやく元特務隊長のことばに、周囲の人間は真顔でうなずいた。
彼らの名誉のために付け加えておくが、別にどこぞの銀髪悪魔よろしくストーカーをしていたわけではない。
とおりすがりに発見した父娘オーラに当てられて、出るに出られなかったというだけだったのである。
……ある意味、哀れ。