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lll 父と娘 lll




 ――誰よりも

   ただ、君がしあわせであるように


 木陰に佇み、木漏れ日の恩恵を受ける日があるなど、かつては考えもしなかった。そも、そういった暇さえもなかった。
 ――だからだろうか、彼はなんとなく、柄でもないなと苦笑する。
 この街は、ゼラムは明るい。
 雪雲に覆われたデグレアでは、月に一度でもあればよかった晴天が、ここでは当たり前のように繰り返されている。

 ああ、本当に柄ではないなと思いながら。
 それでもふと、立ち止まって見上げた。
 庭園で遊ぶ子供たちの声を聞きながら、頭上からの木漏れ日に身をゆだねた。

 ――ほんの少しのつもりで、実際、それほどの時間も経たなかったはずだ。

「あ! ルヴァイド様!」

 まんじりと。明けぬ夜のように過ぎかけた時間が、さっ、と、普段どおりのリズムで刻みだされる。
 弾んだ声が、彼の耳へと飛び込んでいた。
 そして、走ってくる軽い足音。
 普段のそれと違って、少しあぶなっかしいそれに気づいて振り返る。

 買出しの帰りなのだろう、大きな袋をいくつか抱えた養い子の姿があった。
 濃い目の茶色、むしろ黒に近い髪のふちが、今は金色に近い。
 駆けるたびに跳ね上がる髪は、乱暴に日の光を弾いて、華やかな印象。
 見慣れた夜色の双眸も、心なしか色を淡くしているように思えた。
「買出しか?」
 見て判ることを問えば、
「はい!」
 元気よく、彼女はうなずく。
 最後の一歩で両足を揃えたは、そうして彼の前に立ち止まる。
 その拍子に、抱えた袋がぐらりと揺れた。
「――ほら」
「わ、すいません」
 落ちかけたそれは、彼の片手で易々と止められるものだった。
 頭を下げるから、そのまま袋を取り上げる。だが、彼女はそれを見て大慌て。
「ああっ、いいですいいです、自分で持てますから!」
「気にするな。もう戻るのか?」
「はい。…………あ、いえ」
「?」
 一笑して問うとすぐに答えは返ったが、どこか要領を得ない。彼は少し眉をひそめた。
 とはいえ、そこには怒気も苛つきもない。
 他の人間相手ならそうもいくまい。
 ――自覚はあるのだが、どうしても、ことこれに関しては永劫変わることがなさそうだ。
 自嘲もいっそ心地よい。
 知らず口元を弛めた彼を見て、は、空いたほうの手で軽くその袖を引っ張った。
「少し、お散歩しませんか?」
 こんなにいいお天気だから――
 視線が示す周囲の光景は、まさに、彼女の表情どおり。
 そうしてその表情は次に、ゆっくりうなずく彼を見て、周囲以上に晴れやかになっていた。


 肩を並べて庭園を歩く。
 本来はこの外周を回るように道路が整備されているけれど、こうして突き抜ければ反対側にも出口がある。
 地理を考えれば道に出たほうが早いのだが、別に、急ぐ理由もなかった。
 こぼれる陽光、駆け回る子供たち。見守る大人たち。
 そこには、一切の翳りもない。
「1年前が嘘のようだな」
「そうですね……」
 つぶやけば、ちょっとトーンを落とした声では応じる。
「ゼルフィルド――か」
 彼ばかりではない。あの日喪われた同胞は幾多と数多と。だが、もっとも身近にいた故か。その名は本人を表しながら、象徴のようでさえある。
 この感覚は、傍らの娘も、そして今は傍にいない部下の青年も、同じはずだった。
 そうして口にした名で、さらに、隣の気配が落ち込んだ。
 判り易すぎる変化に、こぼれるのは苦笑。
「……ゼルフィルドの気持ちを、俺がどうこうは云えんが」、
 ぽん、と、あたたまった頭に軽く手をおいて。
「おまえの手にそれを残したことが、奴の答えだろう?」
「――」
 応えてが取り出したのは、ゼルフィルドであったもの。
 小さな小さな機械の欠片――思考ユニットの中枢を担う、コアと呼ばれる部品。
 記憶と経験が詰まったそれには、ただ、ゼルフィルドであった心だけがない。
 魂とも呼ばれるそれは、ロレイラルに還ったのか。
 それとも輪廻の輪を潜り抜け、どこかで新しい生命として生まれているのか。
 判らない。
 それは、誰にも判らない。
 けれど。
 寂寥感だけをいや増させかねないそれを、はいつも持ち歩いている。肌身離さず。
 それはけっして、過去を悔いつづけるためではないはずだ。
「……はい」
 忘れないために。
 失った哀しみを忘れないためではなくて、ゼルフィルドがたしかにこの世界に在った事実を、忘れないために。
 遠い輪廻の果てで幸せに暮らしているように願う。
 いつか遠い時間の果てで、互いが気づかなくても、また出逢えるように祈る。
 そうしてこの養い子が、時を経て、喪った哀しみを静かに見つめることが出来るようになればとも。

 ――神と呼ばれるものなどいないリィンバウムで、それはどこに届くわけでもないだろうけど。

 やわらかく微笑むを見て、ルヴァイドも、ゆっくりと口の端を持ち上げた。
 そして、ふと。
「そういえば……おまえは、父上と母上に逢えたのか?」
 最後の戦いから1年間、は姿を消していた。
 彼女の時間では3ヶ月の間だったが、ともあれその期間は、元の世界に帰っていたのだと聞いていた。
 が戻って、まだ数日だ。
 そのことをこれまで深く問いはしなかったが、戻っていたということは、そうなのではなかろうか。
「あ、はいっ!」
 コアを懐にしまいなおして、は、ぱっと笑う。
「――そうか」
「ルヴァイド様の話、しましたよ。イオスも、ゼルフィルドも――それから、みんなのことも」
 さすがに、こういう戦争とかの話は、あっちの世界に縁はないから、ぼかしましたけど。
「よく、また送り出してくれたものだな?」
「うーん、実はやっぱり反対されたんですけどね。せっかく帰ってきたんだから、って」
「そうだろうな……」
 それは、親として当然の感情だろう。
 5年以上、杳として行方の知れなかった娘が、ひょっこりと戻ってきたのだ。もう手放したくないと思うのは、当たり前ではなかろうか。
 ――その気持ちは、もきっと、同じだったろう。
 それこそ、5年ぶりに逢えた実の親だったろう。
「でもですね」
 ルヴァイドの思考を断ち切ったの声は、でも、という否定だった。
「あたしはまだ子供だけど、いつか親離れはしたと思うんです。結局のとこ、それが早いか遅いかだけって違いだと思うようにしてます」
「親離れか……」
「それにあたしは、ここに帰りたかったんです」
「――――」
 息を呑む。
 つぶやいたルヴァイドの声が空気に溶けるかどうかのうちから。そう云って前へ向き直ったは、りん、と揺るぎない何かを見つめていた。
「あの世界でもしあわせでした。でも、いろんなことを知ったのは、リィンバウムなんです」
 苦しいことも辛いことも、どうしようもないことがあるって事実も。
 それでも誰もが、歩いていける強さを持ってるってことも。

「――あたしは、ここに帰ってきたかったんです」


 こればっかりは、どちらかを選ばなきゃいけなかった。
 選んだのは、こっちだった。

 それでも最後には、笑って送り出してくれた父と母のことも、あたしは忘れない。


「あ。ほら、それにですね、これ」
 一度懐に入れたコアを、はまた取り出した。
 むき出しで持ち歩いているわけではない。
 かわいらしい小さな袋――口は紐で絞るようになっている――に入っている。
「お母さんがつくってくれたんですよ。大事な形見だって云ったら、これに入れておきなさいって」
「よい母上なのだな」
「はい! お父さんもお母さんも、あたしの自慢です!」
 褒められたのが嬉しいのだろう、満面の笑顔では云う。
「ご両親も、きっと同じ気持ちだろうな」
「そうですか?」
 そうだったら嬉しいな。
「でも、ルヴァイド様のこともイオスのこともゼルフィルドのことも、逆に自慢しちゃいましたよ」
 こっちであたしを育ててくれた、大好きな家族ですって。
 えへへと笑う彼女の頭を、彼は、また、ぽんと叩いた。

 同じだろう。
 自分も、そう思うのだから。

「それにね」、
 とりとめのない会話が嬉しいのか、の笑顔は消えない。
「妹が生まれるんだそうです。――まだお母さんのおなかのなかだったけど」
「そうか……それならば、ご両親だけで寂しくはならずにすむかもしれんな」
「はい!」
 ――奪い去ったようなものなのだ。
 元々の出発は、この子の魂が選んでいたとはいえ、それが何の理由になろう
 結果として、この世界は、この自分たちは、本来の両親から、本来の故郷から、この子をこちらに奪い去った。
 時折、本当に時折。
 うっすらと。罪悪感を、感じたりもしたけれど。
 こうして明るく話すを見て、思う。それも徐々に薄らぐだろうと。


 陽の光こぼれる庭園を抜けて、彼らは道路に出た。
 きれいに敷き詰められた石畳を歩きながら、やはり、あれこれと思いつくままの会話が続く。
 そうしてふと、そんなことを考えたのは。何故だろうかと、後に自問してみて、辿り着く答えはひとつだけ。やはり彼も、甘かったということなのだろう。
 ともあれそのときのルヴァイドは、考えたそれを、そのまま少女へと投げかけた。

「はい?」
 呼びかけには笑顔。
「戦いは終わったのだ。おまえももう、剣を握る必要はないと思うが――?」
 そのとたん、笑みは崩れる。
 むっ、と眉をしかめて、はぴたりと足を止めた。
「それってどういう意味ですっ!?」
 予想外の剣幕に、さすがのルヴァイドも少したじろいだ。
 そこへたたみかけるように、ずずいと少女は詰め寄る。
「まーさーかー、あたしが女だから、いつまでも戦ってばかりじゃ嫁の貰い手がない、とか思ってませんよね?」
「――――」
「思ってるんですか?」
「……すまん」
「もー!」
 呆れたような声で、非難ごうごう。
 片手を腰に当てて、は、ぐいっと胸を張る。
「いつ何があるか判らないんだから、身体鍛えてて損はないはずでしょう? それに」、
「それに?」
 悪かった、と、苦笑すれば。
「あたし、嫁とか結婚とかなんて、ルヴァイド様が身を固めたあとじゃないと考えませんよ」
 ……実に、まあ、とんでもない発言がわいて出た。
 ことばも出ずに絶句する彼に気づいているのかいないのか。
 彼女はくるりと身を翻し、すたすたと数歩進んで。
 振り返って。
「ルヴァイド様に、先に幸せになってもらわなきゃ。――今まで、本当に苦労しっぱなしだったんだから」
 そうでなきゃ、あたし、安心できません。
「…………」
 何を云えばいいのだろう。
 道の少し先、佇んで、笑いながらこちらを見る少女に。
 ――どんなことばを紡げば、この、今の自分の気持ちを伝えられるだろう。
 ことばに不器用な自分の性分が、このときばかりは恨めしかった。
 だが。だから。

「わっ!?」

 無言で歩みを進め、荷物を一旦道に置く。
 急なそれに首を傾げる少女を、抱き上げた。
 荷物を落とさないようにあわてふためくに笑いながら、肩のあたりに持ち上げる。
 片腕に身体をおさめて、置いていた荷物を再び持つ。
「ル、ルヴァイド様!? あたしいい加減重いですよ!?」
「おまえ一人抱えられんほど、腕をなまらせたつもりはないぞ」
「でーもーっ!」
 いい年して抱っこされるのはちょっと恥ずかしいです!!
 必死なの訴えは、けれど全面却下。
 じたばたはしばらく続いたけれど、最終的には諦めて、は身体を預けてきた。――少し頬を赤らめて。
「うう、子供みたい……」
「子供だろうが」
 意地悪だー! と、すねた声が返るけれど、それが本心でないことも知っている。
 喉を鳴らして小さく笑い、ルヴァイドは、前を見たままに告げた。
「おまえは俺の養い子で、俺はおまえの養い親だ。子供が親の心配なぞ、するものではないだろう?」
 絶句する気配。
 戸惑う気配。
 間近からの動揺がおかしくて、また、ルヴァイドは笑う。
「俺がこういうことを云うのはおかしいか?」
 まあ、父親になれるような性格ではないがな。
「ううん! そんなことないです!」
 即座に返される否定は、やけに力がこもっていた。そして、続いた「でも」もまた。

「――だから、あたし、ルヴァイド様には幸せになって欲しいんです」

「そうか」

 だがな。

「俺はおまえが幸せなら、それで充分だ」

 またしてもは絶句した。
 それがからかいでもなんでもなく、彼の本心なのだと悟ったのだろう。
 さて。養い親に似たのか、肝心の部分でことばに疎い少女が、そのあとどうしたかというと、

 ……何も云わずにただ、彼に身をすりよせたのだった。




 ――そう。

   誰よりもただ、君がしあわせであるように







「は……入り込める隙がない……」
「これで判っただろう。最大の難関はあの人だということが」

 でなくば、とっくに僕が攫ってたさ。

 しみじみつぶやく元特務隊長のことばに、周囲の人間は真顔でうなずいた。
 彼らの名誉のために付け加えておくが、別にどこぞの銀髪悪魔よろしくストーカーをしていたわけではない。
 とおりすがりに発見した父娘オーラに当てられて、出るに出られなかったというだけだったのである。
 ……ある意味、哀れ。


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