……その噂は、突然に広まった。
聖王国の山間にある、小さな村――レルムという名のその村に、ひとりの聖女がいるのだと。
どのような病でもたちどころに癒してしまう、奇跡の少女なのだと。
初めは村の内々で囁かれていたそれも、旅人によって一度他の地へ運ばれていけば、あっという間に伝播する。
人から人へ、道から道へ、街から街へ――
そして、国から国へも、その噂は広まっていった。
――――それは、突然だった。
「任務?」
「ああ」
ぴらりと目の前にかざされた命令書、それを見るのは、訓練用に使われる木剣を手にした少女だった。
頑丈な壁に囲まれた訓練場は、各々の鍛錬に取り組む人々の熱気に満ちていた。
彼女もまた、例に漏れず、額どころか服が身体に張り付くほど、べったりと汗をかいている。屈強な男性たちに囲まれた少女の姿は、驚いたことに、見ている者へさしたる違和感を与えない。周囲の者もまた、唯一の異性であり、成人前でもあるだろう少女の存在を、当たり前として受け止めているようだ。
そしてそれは、命令書を携えてきた、赤紫の髪をした男性も例外ではなかった。
目を丸くしている少女に向けて、もう一度、大層な印章の施された紙を、ぺらりと振ってみせる。
「うちの部隊では、おまえが――名目上――唯一の偵察兵だからな。わざわざ名指ししてきたぞ」
「ちょっとルヴァイド様。名目上って何ですか」
あたしは立派な偵察兵です!
ふん、と胸を張る少女を見て、ルヴァイドと呼ばれた男性は苦笑する。
周囲にて、そのやりとりを漏れ聞いた数名も、生ぬるい笑みを浮かべていた。
「打倒指揮官を唱えて日々訓練に励む偵察兵が、どこにいるよ」
そのなかから、赤銅色の髪をした男が、軽く少女を茶化した。
「ここにいるじゃない」
「ここにしかいない、って云うべきだな」
「うー、シルヴァまで……って、あ! こら、ゼスファ、笑うな!!」
さらに横手からかかった声に反応している間に、最初茶化した男性が肩を震わせる。
「ふたりともねー! だいたい打倒ルヴァイド様ってのなら、イオスもいるじゃない! ゼスファだって……って、人の話を聞け――っ!」
少女は肩をいからせて怒鳴るが――汗だくのわりにたいした体力である――、怒鳴られたふたりは、さして堪えた様子もなく、顔を見合わせてまた笑う。
そうしてそれが、徐々に周囲に広がるものだから、
「あー、もう、知らないっ!」
完全に拗ねて、ぷいっ、とそっぽを向く少女。
だが、すぐにそもそもの話を思い出し、闊達な笑い声さざめくなか、ルヴァイドへと向き直った。
「すいません、それでその偵察って――」、
云いかけ、
「……ルヴァイド様」
しごく情けない表情になって、口元を押さえて僅かに視線を泳がせる彼を、睨みあげる。
「ああ、すまん」
「もー」
ふくれてみせるが、さっきのように怒鳴ることはしない。
彼女にとって、ルヴァイドは別格なのだ――その理由を語るのは、また、別の機会だけれど。
ともあれ、気を取り直し、少女と男性は向かい合う。
手渡された命令書に視線を落とす少女へ、ルヴァイドが補足するようにつぶやいた。
「そう難しいものではないな。難と云えば、敵領内のかなり奥まで行かねばならんことと、故に少々距離がある程度か」
ですね、と、少女も頷く。
「行き先はゼラム……この印ついた所ですか? うわ、随分聖王都近くまで行かなきゃなんないや――って、それだけ行かせて、任務が周辺の調査ぁ?」
ことばの半ばを過ぎた頃から、少女の声は、胡散臭いものを見るようなものになっていった。
「なんですかこれ。公費使って観光旅行ですか」
「議会がそこまで洒落者だと思うか?」
「思いません」
即座に返される少女の返答に、ルヴァイドは「うむ」と頷いた。その動作は、どこか重々しい。
「俺たちに明かさぬだけで、何か意図はあるのだろう。正直気に入らんが拒否も出来ん。……いつものやり口といえば、それまでだがな」
「……議会って、ほんっと、嫌な性格してますよね」
5年以上暮らしてるけど、全然慣れないや。
どう見ても十代後半だろう少女は、ため息とともにそうつぶやいた。そうしてすぐに、再度頭を上下させる。
「はーい、判りました。任務は任務です、文句出させないように、ばっちり遂行してきます」
「ああ。期待しているぞ」
「えへへー」
ぽん、と頭に触れるルヴァイドの大きな手を、彼女は、顔ほころばせて受け止める。
それから、
「あれ」
と、怪訝そうに首をかしげた。
「でもここ、調べるったって、何があるんですか?」
「――ああ。おまえが知らないのも無理はないか」
小さな村だからな、と、彼は云った。
「レルムという村が、そこにあるはずだ。山間の小さな所だからな、こちらの地図にはあまり載っていない」
「へえ、レルム村……」
改めて地図に視線を落とし、うんうん、と、頷く少女。
その彼女に、ルヴァイドはもう一度声をかける。
「――」
「はい?」
動作に合わせて揺れる焦げ茶の髪と、夜の色をした双眸を見、彼は表情を緩めた。
「突然ですまんが、頼む。期待しているぞ」
「はい!」
、と。
呼ばれた少女は、めいっぱいの笑顔でもって、彼に応えた。
――――それは、本当に、突然だったのだろうか。
答えられる者は、いない。今は。
今はまだ。
――まだ、ようやく。その足が踏み出された瞬間でしかない故に。