数日したら治りますから、だいじょうぶですよ。
そうは云うけれど、はいそうですかと放っておけるわけがない。
ディルズバルドからの解放に湧くサルファスの一角では、ポーレットがほとんど一晩中つききりでの看病にあたっていた。
現在時刻は、朝の8時前後。
「……お話のなかだけかと思ってたわ。額に乗せたタオルが、瞬間で乾くなんて」
「あはは、火の御方の力を頂きましたから、しょうがないんです」
少しでも熱を冷まそうと、氷水に突っ込んでしぼったはずなのに、額に乗せた瞬間あっという間に乾いてしまったタオルをつかんで、ポーレットがため息をつく。
そんな様子がおかしくて申し訳なくて、も笑いながら謝ってみる。
「でも、本当に気にされなくていいんですよ。身体のなかでバランスがとれなくなっただけですから、何日かすれば治まります」
これまでもそうでしたし――
そう云うと、きっ、とポーレットがを振り返った。
何か気に障ることでも云ってしまったかと思ったら、
「あなた、こんな危険なことをこれまで何度もしてきたの!?」
と、の気楽さに対してお怒りのようで。
「え。えと……」
思わず口篭もったをどうとったのか、ますますポーレットの視線は厳しくなる。
べし! と、かなりの勢いでタオルが額に乗せられた。
ひやりと冷気を感じるのは一瞬。
次の瞬間にはあっさり乾燥したそれを、ポーレットが取り上げて再び氷水につっこむ。
その繰り返し。
「あの、でも、本当に――」
だいじょうぶですから、と、云う前に。
「……あなたにとっては慣れたことかもしれないけど」
「けど……?」
「私たちにしてみれば、いつ死んだっておかしくないだけのことを、あなたはしたのよ」
そんなものを目の前で見せられた、こっちの気持ちにもなってみなさいよ――
泣きそうな声で、そんなことを云われてしまっては、いったいどうしたらいいのだろう。
は思いっきり途方に暮れた。
だからというわけでもないけど、なんとか別の話題を探そうと、熱暴走しそうな脳をフル回転させる。
「でも、ポーレットさん、わたしのこと嫌ってらっしゃるんじゃないですか?」
「どうして?」
意外なことを云われたとばかりに、ポーレットの目が丸くなる。
「だって、魔族が嫌いなんですよね? 魔族と仲良くしてる人は嫌いでしょう?」
「――」
きゅ、と。
口元を引き結んで、ポーレットは黙る。
その状態で待つことしばし、
「だって」、
と、同じことばから彼女は始めた。
「あなたは魔族じゃないし――それに、私たち、あなたに助けられたもの」
冷えたタオルを、また額に。
だけど、今度は即座に水分が蒸発したりしなかった。
「あ」
タオルをとろうとしたポーレットの手が止まる。
は、そのポーレットの表情を見て思考が止まった。
嬉しそうで。
本当に、嬉しそうで。
の体調が快復に向かっていることを、喜んでくれていて。
自分の身体よりも、ただ、そのポーレットの気持ちが、嬉しいと思った。
結局数秒後にタオルは乾いてしまったけど、それでも、それは改善の兆候。
「気分はどう?」
「はい、少し楽です」
これなら、明日には起きられるかもしれません。
「だから、ポーレットさんも少し休んでください。戻ってからずっと、わたしについててくださったんですから」
「だいじょうぶなの?」
「はい。ちゃんと、大人しく寝てます」
「――そう? それじゃ、またあとでくるわ。食事の好き嫌い、ある?」
「いえ、特にこだわりは」
そんな、ごく普通の会話を交わして、ポーレットが部屋から出て行く。
少しずつ遠ざかる足音を耳にしながら、は、天井を見上げて息をついた。
『無茶はしません』
『命令だ、死ぬな』
自分のした約束と、彼からの命令が、同時に浮かんで消える。
「……やっぱり、常態に戻ってから帰ったほうがいいかな……」
ダークに怒られると、本気で身の置き所がないような気分になるから、出来ればあんまり怒られたくない。
それに、今の状態じゃ空間跳躍も出来やしない。空間に溶けたが最後、実体を構成しなおすまでの調整ができずに、そのまま溶けっぱなしということになってしまいそうだ。バランスの崩れた体内の精霊力が、いつ、どう暴走するか判ったものではなかった。
いくら自分が精霊の血をひいてるといっても、純粋な、しかも始原の精霊の力を取り込むなど、無茶以外のなにものでもないのだから。
ふぅ、と。
呼気から逃がせないものかと、ため息をついて。
「……熱いなぁ……」
つぶやいたときだ。
コンコン、と、遠慮がちなノックの音。
「はい?」
顔だけ入り口に向けて応えると、そぉっと扉が開けられた。
そこから覗いたのは、みどりいろした、愉快な顔のおめん。
「へへっ」
「なんだ、マルさんですか」
びっくりしたじゃないですか、もう。
「だーから。マルでいいってば」
違う方向を指摘して、マルはとことこと、の寝ているベッドの傍まで歩いてきた。
彼が手にかかえているのは、いくつかの果物。
「見舞い持ってきたぜ。食える?」
「あ……はい。いただきます」
サイドテーブルに置かれたなかから、ひとつ選ぶ。
りんごに味も形も似ているけれど、りんごよりはオレンジ色がかった、分類上は区別される果物。
名前は忘れた、というより、思い出すのも今は億劫だった。
なにより、瑞々しい果実の誘惑が思考を鈍らせる。
傍に置いていた手ぬぐいで軽く拭いて、それからかぶりついた。
「おおー、豪快」
もぐもぐ。ごっくん。
咀嚼して飲み込んで、それからマルに目を向ける。
「そうですか?」
「ポーレットとかうるさいんだぜ。『ちゃんと皮剥いて食べなさい!』って」
皮のほうにも、ちゃーんと栄養とかあるのにな。
しゃり。もぐもぐ。
「そですね。こういう果物なら、皮あるほうが食べ応えあって好きかな」
「ところでさ、やっぱ今も熱い?」
もぐもぐ。ごくん。
「そりゃーもう、熱いです。でも、ポーレットさんのおかげで随分楽になりました」
ちょっとまなじりを下げたマルに、そういえば、とは問う。
「この果物、ここらの名物ですか?」
「んにゃ。そのへんの森で採ってきた」
「…………」
それっぽい外見だと思ってたけど、ほんとにこの子野生児なんだろーか。
「あ。そういうのまずかった?」
の沈黙を野生植物への抵抗と感じたか、あわててマルが云うけれど。
「いえいえ。わたし、これ好きです」
味も当然好みなんだけど、なんだかちょっぴりなつかしい。
のことばに、マルはにかっと笑った。
つり気味の目が細められると、とたんに愛嬌いっぱいになるから不思議だ。
「パレンス廃墟の近くの森に、いっぱいなってたんだ。元気になったら、案内してやるよ」
「はい、ありがとうござ――」
…………
……………………
礼を。
云いかけて。
音もたてずに思考が凍りついたのを、それこそお話のなかのことのようだと、思った。
「『パレンス』廃墟ッ!?」
「え? あ。う、うん」
それまでの億劫そうな様子をかなぐり捨てて身体を起こしたの勢いに、マルが思わず後ずさる。
が、そちらに頓着する心的余裕は一切ない。
マルの肩をつかんで揺さぶりたくなるのを必死にこらえて、はぐぐっと彼を凝視した。
「パレンス、ですか? パレンシア、じゃなくて? じゃあ、わたしたちがいた山はなんていうんです!?」
「え? えーと、うん。パレンス。あと、ちょっと南にバイオラボ跡とかなんとかってのも――」
ちなみにオイラたちがいたのはクイナ火山だけど。知らなかったのか?
「――!」
間違いない。
絶対、絶対に間違いない。
ここは。
かつて、スメリアと呼ばれた国。
パレンシアと呼ばれた都の――おそらく、傍なのだ。
ドクン、鼓動が大きくなる。
思いもかけない場所で、思い入れのありすぎる場所にめぐりあった衝撃が、そのまま鼓動となって叩きつける。
「……っ」
立ち上がろうとして、疲れきった肉体が悲鳴をあげた。
「おい、!? まだ寝てなきゃだめだろ!」
「触ったら火傷しますよっ!」
「うあ」
床に足をついた瞬間にふらついたを助けようとしたのかマルが手を伸ばしてくれるけれど、それはちょっと彼にとって危ない。
あわててばんざいしている彼に、とりあえずにっこり笑ってみせる。
「……ふ……うふふふふふふ」
……訂正。これでは、『にやり』だ。
「火の御方、感謝します……っ」
「お、おーい……?」
マルが目の前で手をパタパタ振っている。そんなにヤバ気に見えているんだろーか。
ぐ、と拳を握りしめる。
現金だとでもなんとでも云え。
むしょーに、このうえなく、嬉しいんだからしょーがない。
「ありがとうございます、マル。なんだか、疲れとか全部飛びました」
「はぁ!?」
「いわゆるアレです。病は気からと云いますし!」
「違ッ、それ違う!」
ビシィと裏拳ツッコミがくるが、実際、体調だけは元に戻っていた。
自然に馴染んでいくはずの火の精霊力を無理矢理おさえたせいで、魔法を行使するほどには至らないけど。
とにかく、身体だけなら、まともに動くようにはなっている。
ほらほらと飛んだり跳ねたりしてみせると、マルも納得してくれたらしい。
「あのさぁ」
「はい?」
「よく、非常識って云われない?」
「間抜けとは云われましたねー」
「……なるほど。」
こっちで納得されるのは、我ながら情けなかったんだけど。
宿の部屋を出て歩いていると、ばったりポーレットに遭遇。
「! あなた、もうだいじょうぶなの?」
「はい。ポーレットさんとマルのおかげで」
そう云うと、ポーレットは実に微妙な表情になってマルを見る。
「……マル。あなた何か変な薬とか飲ませたりしてないわよね?」
「しねーっつの!」
おまえ、人のこと信用してねーだろ!
ズビッと突きつけられるマルの指を、ポーレットはしれっと流す。つわものだ。
「それで、どうしたの? 病み上がりなんだから、用事があるならコイツに云えばいいのに」
「うん、ありがとうございます。でも、ちょっと行きたい場所があるんです」
「へえ? どこ? サルファスの案内なら、少し出来るけど」
その厚意はとてもありがたいのだけど、は丁重に辞退した。
もちろん、サルファスの観光もしてみたいけれど、何より優先して行きたい場所があったからだ。
そこはどこかというと――まあ、当然、疲れを吹き飛ばす原動力になった、例の場所。
43.アーク