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日常にある幸せ


 たとえば、他の人にとっては、他愛のないコトに思えても。
 それは自分にとっては、ひどく大事なコトで。
 それだけで、とても幸せになれる。
 たぶん、それは、誰でもじゃなくて。大切な、誰かがそうさせてくれるもので。

 ――そういうことって、たまにあるよね。



「えーと、ここらのはずなんだけどな……」

 とある図書館の一角、錬金術に関する蔵書・資料のおさめられた本棚が建ち並ぶ場所。
 天井まで届くほどの高い本棚、本の保護のために窓のない壁。
 明りはたしかに灯されているけれど、見上げればなんとなく圧迫感。
 とか、要らんことを考えて自爆思考に陥りながら、鋼の錬金術師が本棚の合間を縫って歩いていた。
 別件で用事のあったエルリック兄弟の代わりに、めぼしい資料を探すと云ってくれた人を見つけるためだ。

 こんな専門的な場所、一般人はあまり利用しないらしく、周囲に人の姿はない。
 少なくとも見渡す限りは。
 おかげで、エドワードの探す相手もすぐに見つかった。

 向かう先から、ぱたぱたと、ひとりぶんの足音。
 木で出来た床は、音をよく反射する。
 消音したいなら毛足の長い絨毯でも敷けばいいのにね、と、その相手が云って、
 それじゃ埃だらけになっちまうだろ、と、エドワードが反論して、
 ふたりで笑った、そんな他愛のない出来事を思い出す。

「エド君?」

 ひょっこり、本棚の陰から姿を見せたのは、予想どおり。
 黒い髪と燈金色の眼を持つ少女。
 旅装束は宿で洗濯中のため、この街についてから購入した、替えの服を着用中。
 ぱっと見、街に定住してる人そのままだ。

姉」

 まだ少し距離があったから、足を速めて彼女の傍に行った。
 胸に抱えた何冊かの本、それからレポート用紙。
 それを示しながら、が云う。
「一応、本棚見てまわったんだけどね。めぼしいのってこれくらい。あとは適当に抜き出してメモしたんだけど・・・」
「ん。サンキュ、姉」
 本を受け取って、ぱらぱらとめくる。
「ふーん……」
「どう? ちょっとは役に立ちそう?」
「んー……」
 生返事。
 悪いとは思ったけれど、本を目の前にするとそちらに集中してしまう。
 の選定眼は正しくその威力を発揮したらしくて、内容のほうも申し分ない。
 ところどころに挟んである栞は、たぶんがチェックを入れた部分。
 危うく、目の前にがいるのも忘れて本にのめりこもうとしたときだった。

 ふわり、

 何かの香りが鼻孔をくすぐる。
「・・・?」
 本特有の、古くなった紙やインクのにおいではない。
 もっと柔らかくて、女性的な。・・・香水?
 何だろうと顔をあげ――
「って、姉!?」
 いったいいつの間にと云うべきか、気づかなかった自分を呪うべきか。
 エドワードと向かい合ったそのまま、彼の開いた頁を一緒になって覗き込むの姿。
 声に反応して、ちょっと動いた彼女の黒髪が、一房、本の上にこぼれた。
 けれどすぐに顔は持ち上げられて、髪も一緒に本から退く。
 さて、目の前にあった本を覗き込んでいた人が、そのまま顔を上げればどうなるか。

 ――当然、エドワードからすれば、自分のど真ん前にの顔があることになる。

 あ、姉、けっこう睫長い・・・
「ってそうじゃねー!」
「エ・・・エド君?」
 いきなりしゃがみこみ、頭を抱えて苦悩しだしたエドワードを、が驚いた顔で見下ろしてきた。
 かと思いきや、目線を合わせるためか、いっしょにしゃがみこむ。
 それで空気が動いて、また、本たちのにおいに混じって、ふわりとくすぐったい香り。
「どしたの?」
「あ・・・いや・・・」
 たしかに今のエドワードの行動は、第三者からどこでなく、自分で見ても奇怪だ。
 とりあえず、なんでもないと云うべく、頭を抱え込んでいた腕を外して、床に落としていた視線を持ち上げる。
 が、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 再び、視線は重力に従って(普通従わん)自然落下。
 腕を組んで膝に置いて、そこに頭を押しつけるという徹底ぶりに、の戸惑いが色濃く伝わる。
 なにかしたんだろうかと、心配の混じった不安が空気を揺らす。
 これはいけない。
 いけないのだが、今顔をあげたって、間違いなくさっきの二の舞だ。

 頼むから……頼むからっ!
 そんなに肩の開いた服で人の目の前でしゃがみこまないでくれ……ッ!!

 声にならないエドワードの叫びは、に届くはずもない。
 その心の絶叫のとおり、実になんということのない葛藤だ。ただし、他人からすれば、である。
 ・・・云えるわけがない。

 その服はただでさえ襟ぐり広めのデザインなのに、に適応するサイズよりちょっと大きめでよけい肌が出てて、しかも前かがみにしゃがみこんでるからなんつーか正面から見たら見えないようなトコまで見えるなんて。

 云えるわけないだろうが……ッ!!

 しかし健全な少年がそんな葛藤を繰り広げている間にも、でいろいろと考えてしまうわけで。
 もしかして、気づかないうちに何かしちゃったんだろうかとか。
 もしかして、覗き込まれるの嫌いだったかなとか。
 もしかして、嫌われちゃったかな・・・とか。

「エド君・・・?」

 あ、不安が濃くなってる。

「あの……わたし、何かしたかな……?」

 うわ、まずい。

「・・・ね・・・エド君・・・?」

 泣く。これは。

 だんだんと小さく、力のなくなっていくの声。

 まずい。これは。
 姉泣かせたら、絶対立ち直れねぇ・・・
 ・・・俺のせいだし。どう考えても。
 ちゃんと説明すればいいんだし。
 出来ないけど。
 してたまるかって感じだけど!!

 がばっと顔を上げると、やっぱり、捨てられた小動物のようにまなじりをさげたがいて。
 ああ、危機一髪だった。そっと胸をなでおろした。
 ようやく自分の方を向いたエドワードを見て、の表情が安堵に変わる。
 まだ残っている彼女の不安を取り除くべく、エドワードは脳みそをフル回転させた。
姉のせいじゃないって。ほら、今日外が結構あったかいだろ? 冷房効いた図書館入って、ちょっとくらっときただけだから」
 そうして出した答えは、これ。
 我ながらどうだと云う感じだが、なんとか、の目から不安が消えた。
「・・・そっかあ・・・いきなりしゃがみこむから、びっくりしちゃった」
「驚かせてごめんな。もう平気だし。な?」
 そう云って、エドワードはやけに素早く立ち上がる。
 ゴメンナサイしゃがんだままだと目のやり場に困るんです。(心の声)
 続いて、目論見どおりも立ち上がった。
 しゃがんでいるときほどではないものの、常より出ている肌の部分が、どうしても気になる青少年がひとり。
 一度意識してしまうと、どうしても目が向いてしまうのを、さてどうしたもんかと思ったとき。
「……」
 ふる、と、が小さく身震い。
姉、寒いのか?」
「・・・ん、ちょっと。ずっといたから、身体冷えたのかも」

 ちゃーんす。

 着てきて良かったと思いながら、愛用のコートに手をかけた。
 そのまま袖を抜いて、
「これ着てろよ」
 の肩越しに腕をまわして、そっとかける。
「え、でもそしたらエド君が寒くない?」
「あー平気平気。俺、これで姉より厚着だし」
「・・・そうだけど・・・」
 黒いシャツにズボンに、同色の上着。しかもハイネック系。
 肩の開いたシャツ一枚のよりは、たしかに、現時点でも着ている服の枚数は上。
 ほれほれ、と、指差されるそれを、は困ったように見ていたけれど。
 やがて、小さく笑って、コートの前をかきあわせていた手を外した。
 右腕を通し左腕を通し、着衣完了。

「わあ、よかった。ぴったり」
「・・・・・・・・・・・・」

 いや、なんか、それはそれでちょっとばかしアレなんだけど。

 サイズが合ったコトを素直に喜ぶと対照的に、エドワードの表情が苦くなる。
 そりゃあ、もちろん、良かったコトなのかもしれないけれど。複雑。
 いったいいつになったら、が袖まくらなきゃいけないくらいに、なれるんだろう。
 いつになったら、を守ってやれるくらい、【強く】なれるんだろう。
 今はまだ、自分たちの身体のことで両手が埋まりかけてしまうくらいなのに。

 いつになったら――この人を、包み込めるくらいになるんだろう。

「あれ?」
「・・・どした?」
 ふと我に返れば、が袖口をじっと見つめていた。
「ちょっと大きいや。ほら」
 そうして、示されるそれ。
 エドワードが着ているときは、手首あたりでばっちりOKな長さの袖が、今はの手のひらの3分の1くらいまでの面積を隠していた。
「・・・・・・」
「でもこっちのがあったかいし。やっぱり男の子って違うね――・・・って」
 エド君?
 どうしたのー?

 そう、不思議そうに覗き込んでくるに、ほころびまくりな顔を見られたくなくて。
 またしゃがみこんだエドワードが、今度は何の云い訳を使おうか必死で考えたのは、当然といえば当然のお話。

 まだほんの少しだけど。
 の手のひら3分の1だけど。
 それでも。
 うれしいと思ってしまった。
 そんな些細なコトでも、こんなに幸福を感じるのは、きっと、それがだからだ。




 その日の夕方、食事に出かけるために宿の1階でが下りてくるのを待っていたエドワードに、アルフォンスがこっそりささやいた。
「兄さん」
「ん?」
「さっきから、傍通りかかる人が、ちらちらボクたちを見てるんだけど・・・」
 ボクが珍しいのかなあ?
「でも、この宿滞在2日目だぜ。なんで初日じゃなくて2日目にそんなめずらしがられ・・・」
 そう答えかけて。

 ふわり、

 鼻孔をくすぐるやわらかい香り。
 覚えのある香り。
 ・・・の。

「――!!」

 羽織っていたコートの袖口に、エドワードは顔を近づける。
 感じる香りが強くなる。発生源は間違いなく、エドワードのコートだった。

 そりゃあ、少年と鎧のふたりづれから女物の香水(ってほど強いものじゃないけれど)のにおいがしたら、誰だって不思議に思うだろうて。

「……兄さん?」
 ずるずるとその場にしゃがみこんだ兄を見て、弟が慌てだす。
 なんでもないからと手を振って、が下りて来たら教えるように頼んで。
 エドワードは、腕を組んで頭を押し付けた。

 ・・・やられた・・・

 出来れば、顔面の筋肉の力が戻るまで、姉、下りてこないでくれ。


  ひとりの少年の、心からの、切実な願いが聞き届けられたかどうかは、たぶん、この少し後に判明する。


■BACK■



実に年頃の男の子らしい悩みっぷりでした(笑
やっぱりどきどきするものなのかなあ、と、とりあえず実弟にインタビュー→ノーコメント。
ていうか、少年と少女だと、同じくらいの身長でもやっぱり体格とか違いますよね。
故に、ぶかぶか。いやわたしが好きなんですが(ぉぃ
どーにもこーにも青春まっただなかのエルリック兄さんでしたー♪