天も。
地も。
人も。
――なにもかも。
なにもかもが、紅く、紅く、染まっていた。
天が。
地が。
人が。
――すべて。
すべてが、紅く、紅く、燃えていた。
どうして久しぶりの休暇でこんな目に遭わなきゃいけないのかと、は麻痺した頭でそれだけを考える。
思考が麻痺しても生存本能のもと動く身体が、そこらから襲いかかるモンスターを倒しつづけながら。
剣の刃が紅いのは、炎のせいか、それとも切り捨てた生き物の血のせいか。
手が赤いのは、炎のせいか、それとも切り捨てた生き物の返り血か。
視界すべてが紅いのは、自分が血に溺れたせいか、それとも、炎がすべてを覆い尽くしているからか――
自分は、いつから剣を揮っている?
自分は、どれだけの魔獣を倒した?
もう、それさえも判らない。
燃える大地に触発されてか、高揚したモンスターは次から次へと湧いて出た。
港を目指すべく走る間に、いったいどれだけのモンスターを倒したか。
いったい、どれだけの、共に走っていた人たちが殺されたか。
悲鳴を背に。
断末魔を後に。
は、ひたすら走る。
「早く! 海まで出れば火はこない!」
「で、でも、そのあとはどうするんだよ!?」
振り返って急かすと、かなり息を荒げた男が、泣き出しそうな顔でそう云った。
――ずるい。
はそう思う。
――わたしだって泣きたいのに。
いい年こいて、自分の半分くらいしか生きてないガキに、生死の選択任せるなよ。
だけど。
泣き言なんて云う暇も、聞いてやる暇もない。
「船があるかもしれない! それに港あたりには森が多いし、一時身を潜めるには役に立つ!」
それだけ叫んで。
横手からの気配に、もう視線も向けず剣を揮った。
断末魔もあげず、飛びかかってきたモンスターは、自身の勢いで剣を身体に深々と突き立てる。
串刺しになったそれを一瞥して、ブンッと振り捨てた。
それはすぐに炎に飲まれる。
大地を飲み込む炎に、溶ける。
「キャアアアァァァッ!!」
「エレインさん!」
そのモンスターにかかずらっている間に、別のモンスターが女性を狙っていた。
あがった絶叫。
反応して振り返る。
剣を返す、その空気抵抗で生じる間さえ、無駄に出来なかった。
だから。
剣を捨てる。
同時に、地を蹴った。
走り行く人々に、
「行って!!」
それだけ叫んで、エレインと呼んだ女性の肩に手をおいた。
つかんだ肩を支点に、反動を利用して、女性を自分が走ってきた方向に突き飛ばす。
ザアァァ、と、地を削りながら飛ばされた女性を、伴侶らしい男性が駆けつけて抱き上げた。
「君は――!?」
「戦えないなら逃げろ!」
それだけ叫んで、モンスターと向かい合う。
剣は取りにいけない。
行けばそれだけ、モンスターが追ってくる。
そうしたらそれだけ、逃げた人々に近づかせることになる。
身を翻したあのふたりが、安全な距離に行くまでには、まだ時間がかかるだう。
ヒュ、と身をかがめる。
視界から消えた自分の姿をモンスターが見つける前に、顎に掌底を叩きつけた。
苦悶に吼えて、モンスターは数歩後ずさる。
「……やっぱ、素手じゃ倒すの無理か」
判っていたことだが、それでも悔しい。
剣がないと何も出来ない、そう思い知らされたようで。
再び向かってくるモンスターに、今度は足払い。
見事に転んだモンスターを飛び越えて背後にまわり、こぶしを連続して叩き込む。
「こ……っ、のぉ!」
両手を組んで大きく頭上に振りかぶり――また一撃。
些細ながらダメージが積み重なったか、これ以上は無理と距離をとったの目の前で、モンスターはふらふらと身を起こした。
を見るその目には、明らかな敵意。
獲物ではなく、敵を見る眼光。
さあ。
もう容赦はあるまい。
剣は、先ほど位置を入れ替わったせいで、モンスターの背後になっていた。
いかにうまくまわりこんでそれを奪取するかが、今のの課題である。
出来るだろうか?
いや。
やらなくてはならない。
出来なければ、たぶん、自分はここで死ぬ。
「……そうはいかないんだよ」
ラクールで待っている、カワイイ従弟と優しい叔父叔母の顔を思い浮かべて、は、立つ足に力を入れた。
エルリアまで観光旅行に行ってくる、と休暇をとった自分に、
『早く帰ってこないと、ボク、の存在忘れるからね』
とか、生意気なコトをほざいた、耳と尻尾つきの従弟。
『お土産期待しているわ』
『気をつけていっておいで』
そんな優しいことばをかけてくれた、叔父と叔母。
あのひとたちに、ただいまって云うんだから。
こんな地獄抜け出して、ラクールに帰るんだから。
「――いく!」
気合い、限界まで身体中にみなぎらせて。
はモンスターへ向かう。
モンスターは、をもはや獲物とは見ていなかった。
殺さなければ殺される。
のそれが伝わったのか、それとも、が自分の命を脅かすと自身で悟ったのか。
攻撃は熾烈を極めた。
爪や牙はかろうじて避けても、その勢いで服が破られ皮膚が裂ける。
鮮血が飛び散って視界を遮った隙に、肉を一部食いちぎられた。
けれど、それはモンスターも同じ。
攻撃を加えようとに近づくたびに、重い一撃が必ず入って、動きを鈍らせていったのだから。
ただしモンスターに比べると、素手のには決定打をつくることが出来ない。
それを判っているから、意識のいくらかは剣へ向く。
が、その空白を狙いすましたように、モンスターが攻撃をしかける。
硬直戦は続いた。
どれだけ戦ったのか。
どれだけ血を流したのか。
どれだけ痛めつけたのか。
もう、何も判らなくなるほどの時間、とモンスターは戦いつづけた。
――地面を蹴る。
モンスターが追ってくる。
――さらに飛ぶ。
追ってくる。
そこで前方へ飛び出す。
意表をつかれて止まる。
――一撃!
「!」
何度目か判らない打撃を、モンスターの腹に叩き込んだとき。
視界の端で、きらりと何かが輝いた。
すっかり意識から除外していた、それはの剣。
炎を受けて、紅く輝く刃。
――届く?
瞬時に距離を目測し、はいけると判断した。
追撃をかけようとしていた足を止め、そのまま方向転換。
の認識は正しかった。
素手で倒せない以上、剣でしか倒せない、それは紛れもない現実だった。
だが。
無防備な背中をモンスターにさらけだすことの危険を、はそのとき忘れていたのだ。
手を伸ばす。
指先に、馴染んだそれが触れる感触。
いや、それを感じようとした刹那。
「――――――――っぐ、……!」
ごっそりと背中をえぐる、異物。
燃えるような熱が、瞬時にそこに生まれる。
削がれた肉と断ち切られた血管が、瞬く間に脳へ痛みを伝播させる。
けれど。
発狂しそうな痛みを、は堪えた。
剣の柄を、その手でしっかりと掴みとる。
「――ッ……!」
腕を動かした瞬間、背中の筋肉も同時に動き、痛みが加速度的に増した。
でも。
それも抑えこむ。
考えることは痛みじゃない。
考えることはひとつだけ。
振り返る。
もはや抵抗できないとでも思ったのか、の血に染まった爪をふりかざして、追撃をかけようと迫るモンスター。
考えることは、ひとつだけ。
わたしは、こいつを、この手で殺す――!
揮った剣が輝いた。
炎を反射して、紅く輝いた。
血を吸って、鈍く凝った。
視界すべてが、そのとき、紅一色で覆われていた――
※
「……っ、は、はぁ……」
地に伏したモンスターは、もう、ぴくりとも動かない。
喉元を貫いてやったのだから、当然か。
地面に広がる、紅く黒い泉。
の寄りかかった木にも、それはべったりとこびりついている。
「……は……ぁ」
荒い呼吸を繰り返し、は天を仰いだ。
この身と同じほど、紅く染まったままの天を。
燃えつづける、エルリアの空。
たったひとつの空からの落下物が、それまでの青空を一瞬にして奪い去ってしまった。
発生した高密度の熱量は、周囲を炎の海に変えた。
かろうじて生き残った人々は――ああ、どうしているんだろう。
あのひとたちは、ちゃんと、安全な場所に逃げられただろうか……
「――は――あ――」
空は紅く。
どこまでも紅く。
のこぼした吐息さえ、紅に染めて。
「……レオン……」
あんたの従姉は、どうやらここでおしまいみたいですよ。
怒るだろうなぁ。
周りに八つ当たりするだろうなぁ。
あの子、かわいい顔して、すんごい我侭だもんなぁ。
約束破ったって知ったら、絶対、絶対、怒るだろうなぁ――
――それで、最後に、たぶん、泣いて……くれるかな?
ああ。
真っ赤な顔して、泣きじゃくるだろうな――
この、紅い、紅い空みたいに――
空に、風が吹いた。
「?」
もはや霞み始めた目で、は、風を見る。
紅い空に、紅い風。
さっきまでそうだった光景は、いまや、姿を変えていた。
紅い空に、黒い風。
――燃え上がる空を、支配する、漆黒の風が、そこにいた。
黒い、風。
紅い空を、まるで、従えるように。
黒い、風が吹いた。
「この惑星の原住民か?」
風が、口をきくなんて。
まるで、おとぎ話みたいだ。
夢を、見ているのかな。
もうすぐ、身体から離れる自分が、最後の夢を、見ているのかな。
「ウソばっかり」
「なんだ?」
「死ぬときは――走馬灯を見るって、誰か、云ってたのにさ」
はあ。
息とともに、熱を吐き出した。
傷口に集まりつづける、細胞の再生のための熱量。
だけどもこぼれる熱のほうが大きくて、集まれば集まっただけ、零れ落ちる。
命は、こぼれつづける。
黙って死ぬのが、癪だった。
だから。
目の前の風に、八つ当たりした。
「ウソばっかりだ。今見えてるの、真っ黒い風だもん」
「……風?」
「うん。風」
「おまえは、死ぬのか」
「そうだよ」
血は流れ続ける。
熱は落ち続ける。
命は零れ続ける。
「わたし――死ぬんだよ」
「何故、笑っている?」
笑ってる?
冗談でしょ。
痛いよ。傷。
木に当たってる部分なんか、もう痛いどころじゃなくて吐きそう。
血はどろどろで気持ち悪いし、指先なんか、もう、感覚ないよ。
痛いよ。
辛いよ。
怖いよ。
「こんなんで、笑えてるわけない……」
「いいや」
おまえは、笑っている。
風がやってくる。
漆黒の風が、に近づいてくる。
淀みの予感に一瞬怯えたけれど――その風が、頬に触れたとき。
「あ……」
ひどく。
冷たくて。優しくて。
こぼれる熱に塗れた身体に、とても、心地よくて。
――ああ。
黒い、風。
気持ちいい――
「救ってやろうか」
「……?」
「どうせこの星は、間もなく滅びる。今死ぬ必要はないだろう」
それは、勝手な云い分だ。
自分はそこから離れた場所にいるという、自分はそれに関係ないところに立つという。
そんな位置に在るからこその、台詞。
だから。
「要らない」
風が、目を丸くする気配。
「救うなら、全員を、救え」
黒い、癒しの風。
それをはねのけて、は云った。
ぼやけた目で、懸命に、風を睨みつける。
「救う力があるのなら、手の届く限りのすべてを救え……!」
死んだ。
たくさんのひとが、あのとき、死んだ。
落下物に巻き込まれて死んだ。
巻き起こった炎に巻かれて死んだ。
出現したモンスターに襲われて死んだ。
この、紅い空の下。
数え切れないほどの、人々が、死んでいった。
紅い空を、従える、黒い風。
救う力を持つのなら、この紅い空の下、倒れたすべてを救ってみせろ。
そうでなければ。
「そうでなければ、おまえの救いなど要らない」
風は何も云わなかった。
ただ、一歩、またに近づいた。
黒い風が、頬をなでる。
「要らな……」
要らないと云っているのに。
風は、有無を云わせずを包み込んだ。
※
「どうした、ルシフェル」
「いえ、少々。この地の様子を見ておこうと思ったのですが」
おかしな拾い物をしまして――
振り返ったガブリエルの視線の先、ルシフェルの腕に抱かれた少女。
「また妙な物を……原住民など拾ってどうするのだ」
「この娘、私を風と呼びました」
「ほう?」
そのことばに、ガブリエルも興味をひかれたようだった。
ルシフェルに近寄り、眠り続ける少女を見下ろす。
「ただの人間のようだが……?」
「ええ。ですが、私の力を見抜いたようです。放っておけば、いずれ脅威となるやも――」
云いかけて。
ルシフェルは口を閉ざす。
「どうした?」
怪訝なガブリエルのことばに、いえ、と首を振った。
「本来なら始末すべきですが、捨て難い戦闘能力を保持しています。この地における、我々の目とし、手足として放つのはいかがかと」
「そうだな。おまえがそう云うのなら、相当なのだろう」
提案に、ガブリエルはうなずいた。
それから、
「しかし、よくそんなモノを見つけたな。外はおそらく、混乱のきわみだろうに」
「――――」
特に含みなどない、純粋な疑問だと判ってはいても。
ルシフェルは、己の身体が薄く強張るのを自覚せざるを得なかった。
救いなど要らない。
少女のことばを思い出しながら、ルシフェルはガブリエルの面前を辞した。
救うならすべてを救え。
――あいにくだな。
私たちは、破壊するためにここを訪れた。
告げたことばは、呼気以上の意味を持たずにいたけれど。
――救いなど――
頭上を仰ぐルシフェルの手には、まだ、少女の血がこびりついていた。
※
夢を見た。
紅い空、燃える空。
紅く熱く燃える世界。
あふれる熱。
こぼれる熱。
――砕け散る、命。
「……」
夢を見た。
紅い空を支配する、黒い風。
夢だった。そのはず、だったのに。
「……幻じゃなかったのか……」
両手を天に向けつきあげて、握って開いてを繰り返す。
自分の身体だ。
体内を駆け巡る血液、脈動する心臓。些細な感覚さえ、逐一漏らさず伝える神経。
「生きてる……」
ひどく申し訳ない気がした。
あの紅い空の下、死んだ、たくさんの人たちに。
黒い風に出逢っただけで、こうして救われた自分が、ひどく、狡い気がした。
――それでも。
「生きてる」
こうして、まだ、この世に留まっていられるのなら。
せめてそのことには、感謝しないといけないのだろう。
上体を起こすと、かけられていた布がずり落ちる。
「……」
その拍子に自分の身体を見下ろして、は、ちょっと顔をしかめた。
「風邪ひいたらどうしてくれるんだ……」
ぼやいて、布にくるまりこむ。
いくらなんでも、すっぽんぽんで寝かせるというのは、体力低下しまくりの怪我人に対してどうかと思うのだが。
それ以前に、女性への配慮が欠けているとも思うのだが。
でも。
髪に触れると、こびりついていたはずのモンスターの返り血や、汚れはない。
皮膚もそう。
すっきり、さっぱり、普段の自分。――服がないこと以外は。
そうして違和感に気づく。
「剣……」
いつも傍においていた、愛用の剣。
寝るときだって、常に横に置いて寝た。
無意識に傍を探っていたけれど、何の手応えもないことに気がついて。
視線をめぐらせれば、少なくとも、寝かされていた周囲には、包まっている布以外なにもなかった。
「……剣、どこだろ?」
何はなくても。
あれだけは、傍にないと落ち着かない。
無銘の剣だけれど、あれは、のためだけに鍛えてもらっただけの剣だったから。
なにもなかったあの頃の自分が手に入れた、ただひとつのものだったから。
「剣……」
子供のようにつぶやいて、は立ち上がる。
左手に見える通路へ歩き出そうとしたとき、そちらから足音が響いてきた。
カツカツ、と、高い足音が近づいてくる。
は踏み出しかけた足を止めて、通路の薄暗がりを凝視した。
やってくるのは、人影ひとつ。
「あ」
その輪郭がぼんやりと見えたとき、は思わず、そうつぶやいていた。
「黒い風のひと?」
「――ああ」
あのときどうしてそう思ったのか、実ははよく覚えていない。
なんとなく感じただけで、理由など訊かれても困りまくること必至だ。
だけどその感覚は、かなり薄らいだとはいえ、まだのなかに残っていた。
だから、そのままを口にして。
やってきた人物は、そのとおり、頷いてみせたのだ。
銀色の髪に黒い服、紅い眼。まるであのときの空の色。
この人物を黒い風と感じたのは、その色合いもあったのかもしれない。
が、それよりなにより。
の目を奪ったのは、その手に携えられた彼女の剣。
「返して」
「起き抜けにそれか。挨拶だな」
「いいから返して!」
裸足のまま、はその男に駆け寄った。
男は特にそれ以上何も云わず、剣は、の手に乗せられる。
「……良かった」
ほう、と。
剥き出しの刃を見て、安堵の息をつく。
それから、まるで新品のようなその輝きに、首をかしげた。
「あなたが?」
「いや。ザフィケルだ。奴が、剣は手入れを怠るとすぐ駄目になると云うのでな」
「・・・ざふぃける?」
聞き慣れない名前。
剣が戻った安堵。
それらが、に周囲を見渡す余裕を与える。
天井も床も、壁も、すべて機械。
ひんやりとしたこの空間。
エルリアに、こんな場所はなかったはずだ。
ラクールとタメ張る機械技術の発展はしていたけれど、ここまであからさまに機械じみた装飾の建築物はなかった。
じり。
一歩下がる。
男は動かずに、開く距離を見守っている。
じり、じり。
二歩下がる。
そこでは止まった。
普段なら、もう数歩下がっても一撃で懐に飛び込める自信はあるが、今の身体の調子を考えるとこれぐらいが限度のようだった。
男は動かない。
代わりに、無造作に手を突き出し――
「ッ!」
轟、と風が――いや、空気の塊が、を吹き飛ばす。
バアン! と壁に叩きつけられ、背中から走る激痛。
傷が塞がっただけで、まだ内部は脆いままなのだと、は悟った。
「――っ、が……ッ」
衝撃で呼吸さえ止まる。
せりあがってくる嘔吐感を必死にこらえた。
じわり、背中に生暖かいものがにじむ。
ずり落ちた壁を振り返れば、そこには、紅いモノが点々とこびりついていた。
傷口が開いたのだ。
ぱっくり開いたというわけではないだろうけど、血が出ているからには深い部分まで裂けたのだろうか。
――ああ、もう。
同じ場所二回怪我すると、治りが遅くなるんだぞ。
つぶやくのは、心のなか。
腕は、自然に剣を構えた。
叩きつけられた殺意は、目の前の男を敵とみなすに充分だった。
ずるり。
壁によりかかりながら、それでも。
目がくらみながら、それでも。
たぶん、接近戦しか能のない自分では、遠距離攻撃を使う目の前の男に敵わないだろう、それでも。
ただでやられてやるものかと。
――けれど。
次の攻撃は、こなかった。
ふわりと空気が動く。
すぐ傍に、黒い風が移動してきていた。
「素晴らしい胆力だな。見込んだとおりだ」
「……?」
敵意はない。
「おまえならば、我々の目的に役立つだろう」
「は……?」
「傷は治してやる。その代わり――」
「ちょ、ちょっと待っ……」
いったい何をしたのか。
急激に、の意識は遠くなる。
ああ。
こんなことなら。
やっぱりあのとき、全力でこいつの救いとやらを、拒んでおけばよかった――
※
――救いなど。
――要らない。
救わなければ死んでいたくせに、頑なに、それを拒んだ少女。
訪れる滅びを、微笑みさえ浮かべて受け入れていた、この娘。
「……名は?」
「=」
催眠状態になった娘に問うと、実に従順な返答が寄越される。
それに少しだけ物足りなさを覚えながら、ルシフェルは、その名前を鍵にしての意識へ干渉し、いくつかの処置を施した。
最後の仕上げに至ったとき、ふと思いついて、ルシフェルはにもう一度問いかけた。
「私の救いが要らないのなら、おまえは何に救われる?」
「――」
返事はない。
これから目覚めるまでは、外界のどんな刺激も受け付けない状態のはずなのだから、当然か。
詮無いことをした、と、ルシフェルが自嘲の思いにとらわれたとき。
ゆっくりと、の唇が持ち上げられた。
「救いは――」
ここに。
「・・・・・・」
心臓の位置をおさえるの手を、ルシフェルはしばらくの間、表情を消して凝視していた。
※
救いはどこに?
救いはここに。――この、心に。
そんな問いかけを、誰かとした気がする。
※
「!!」
がばっ、と、抱きついてきたレオンを抱き返してやって、はひとり、首をかしげた。
「あれ? わたし……」
「あれ? じゃないよ! まさか何も覚えてないの!?」
「いや、えぇと……そんなことないと思うんだけど」
ラクールの医療室に、は寝かされていた。
なんでも、エルリアの異変を察してすぐに、調査のための船団がラクールから差し向けられたという。
そのうちの一隻が、ぼろぼろの小舟のうえで意識を失っているを発見したんだそうだ。
あと数日発見が遅れていたら、そのまま海に沈んでいた可能性もある、と、を診てくれた医者は云っていた。
それらすべては、人の口から聞いたこと。
なにしろ小舟の上でも、ラクールに担ぎこまれてからも、ずっとは眠りつづけていたのだから。
「ま、それでも剣を抱えてたってのがらしいけどね」
「あはは、云えてる」
「で」
にしがみついたまま、レオンが、じ、と視線を向けてきた。
「エルリアで何があったのさ? ああ、飛来物のことじゃなくて。自身は?」
「あー、うん。それで大騒ぎになって、みんなと一緒に海まで逃げて……あれ?」
「逃げたの? じゃあ他の人たちは?」
「……えーと」
「はいはい、はぐれたんだね。で、そこにあった小舟で逃げた、と。これでいいでしょ」
頭を抱えて本格的に悩みだしたを見かねてか、それとも単に忍耐袋の尾が切れたか。
レオンはさっさと結論を出して、ひとりで頷いている。
それは発見されたときのの状況に当てはまるため、も頷かざるを得なかった。
ただでさえ、この従弟の云うことは、毎度毎度説得力があるし。
「……じゃあそれで」
「まったく、は年上のくせに、いつも面倒かけるんだから」
特に今回なんか、今までで最大級の面倒だよ。
わざとらしく。
ため息ついて、呆れたふりなどしてみせても。
目じりに少し残った涙の跡が、なにより雄弁に物語る。
「うん。心配かけてごめん」
だから、笑ってそう云った。
「心配なんかしてないよっ!」
「うん。ごめんね」
「だからしてないってば!」
ムキになるのが何よりの証拠。
かわいい従弟を抱きしめて、とりあえず、は生還の喜びにひたることにしたのだった。
※
――救いはどこに?
――救いなど、
どこにもないと。
誰かが、紅い空の下、つぶやいた。
そうして、この始まりからもうしばらく時が過ぎたのち。
星々の大海の片隅で、少年と少女が出逢うとき、物語は幕を開ける。