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失格者




 たぶん きっと おそらく

 それも これも すべてが

 ―――― これ こそ が

 傑作




 深夜だった。
 月のない夜だった。
 コンビニへ行くまでの近道は、狭く、街灯もなく、暗く、静かだった。
 ――後で振り返れば、条件は整っていたのだろう。
 だが、あいにく、後悔なんていうことばは、後で悔いると書くものなのだ。

 つまり、後悔先に立たず、というわけだった。


「……」

 別に、それが急いで必要だったわけじゃない。
 ただ、数時間ほど根を詰めてた試験勉強の気分転換として、ふと、そろそろ品切れしそうだと思った文房具を買いに行く、という選択肢を選んだ、ただそれだけのこと。
 だから、シャツにスカートといった、いたって大雑把な恰好のまま、彼女――廿楽は、財布を持って家を出た。

「……」

 すでに住民は就寝しているだろう両隣の部屋、その前を通り抜け、音を立てぬよう階段を降り、敷地を出たところで、深呼吸。
 数分ほど前に日付も変わった夜の空気は、少し粘り気があるものの、しん、と胸を透かせてくれる。
 単語やら数式やらがマイムマイムしてる頭を軽く振って、はコンビニ目指して歩き出した。

「……」

 夜は物騒だ。――なんて、昔から云われてること。
 子供のころは、オバケが出ると脅かされた。
 ある程度分別がつくようになったころには、むしろ、その闇に潜む人間に気をつけろと諭された。

 ちなみに、そうやって脅かしてくれた従兄があまりにもリアリティのある怪談ばかりストックしていたため、はいまだにオバケが怖い。
 だから、コンビニまで路地を一本抜けるばかりの地点まで、大回りだと判っていつつも、広く街灯もある道を選んだ。
 そうして、ひとつ向こうの大通り、深夜でも明々と輝く看板目指して、その路地に足を踏み入れた。

「……」

 そう。たしかに、オバケは怖いが――――

「……」
「なあ」、

 夜気に混じる濃厚なにおい、鉄錆よりもっと、昏くて重い朱のにおい。
 ばらばらになってる何かの物体。においの源。
 その傍ら、雫を滴らせる何かを手にした、よりは小柄な――たぶん、男の子。

「……」

 この光景は――怖いとか、恐ろしいとか、そういう、人間が抱ける限界を越えた位置にある感情を、無理矢理引きずり出されそうな、気がした。

「黙ってねーで、何か云ってくんね?」

 きゃあ、とか。
 わあ、とか。
「でねーとリアクションしづれーわ」

 飄々と。
 淡々と。

 云う、男の子の声さえ――いや、その子の声だから――恐怖する。

「……」
「……えーと」、

 痺れを切らしたのか、ややあって、男の子は切り出した。
「まあ、通りかかったのが運のツキ――って、平凡だが、そういうことで」
 云いつつ、ひたり、彼は一歩を踏み出した。
 ――それが、
「……ッ!!」
 合図。
 ――予感。次は私だ。
 ――確信。次に殺される。
「あ? おい、おまえ――――」
 男の子に向かっていた五感をすべて無理矢理引き剥がし、弥栄は身を翻す。
 少しでも身を軽くしようという本能か、手にしていた財布も放り投げ、たった今自分のやってきた方向へ走り出した。
 数歩。
 ほんの、数歩でいいのだ。
 その先には道がある。わりと広めの、街灯もちゃんとある、深夜でもたまに車とかが通る道。
 背後で舌打ちする音。
 感情はとっくに限界を越えた。
「――!」
 目を見開いて、は、勢い殺さず街灯がもたらす明かりの下へと――――

 ――――明るすぎた。

「え」

 耳をつんざくクラクション。
 頭上からでなく、横手から、全身を照らすヘッドライト。
 クラクションをもかき消さんと響き渡るブレーキ音、そして、アスファルトとタイヤの擦れる軋み音。


 ――――それに隠れるようにして、鈍い音が二度続く。

 衝突と、落下の音だった。


「……」

 爆音立てて走り去ってく、車高激低の装飾ぱらりら暴走車を、は呆然と見送った。
 せめて生きてるかどうかくらい、確認してから逃げてけよ。
 と、ちょっぴり思うが、この場合、にも否があることは否定出来ない。
 暴走してた車も、そこへナイスタイミングで飛び出したも、――車と人という違いを考えなければ、どっちもどっちではあるからだ。
「……」
 道の向こうへ向けてた視線を、そこで戻す。
 足元へ。
「……」
 そしては途方に暮れた。
 口から血ィ吐いて白目むいて妙な方向に身体ねじ曲げて泥に汚れて死んでる己の姿を見下ろす日が来るなんて、想像もしてなかったから。
 ……グロテスク。
 従兄の怪談より、想像していたオバケより、ずっとグロくてずっとエグい。
 当たり前だが。
「……気づけよ、ばか……」
 思わず零れる恨み節。
 誰へって、車へというよりは、むしろ自分へ。
 あんな車が走ってきてたら、音に気づかぬわけがない。実際、逃げてった際の爆音は、問答無用に近隣の住民へ騒音公害をもたらしたろう。
 ――――気づかなかったのは、あの男の子の存在故。気をとられるどころか、五感すべてが彼に向かった。
 そうしなければ、あの暗がりに、すぐにでも飲まれそうで怖かった。
「……それで車に跳ねられてりゃ、結局同じじゃないかー……」
 だが。
 幸い、と、胸を張っては云えないが。
 痛みは、一瞬だった。
 それでさえ、意識が砕け散るほどの痛みだったが――一瞬で済んだことで、は、が壊れずに済んだことを判っている。
 打ち所、悪かったのだろうか。即死だったのかもしれない。
 最初の痛みを境に、は――ここに浮かぶは、身体から抜けていたようだから。
 だが。
 やはり、幸い、なんて云えない。
 今痛みがないから、何だって云うのだ。

 死んだ。

 死んでる。

 ――廿楽は、たった今、死んだ。

「……」

 幸い。何が幸い。
 ふざけるな。
 これ以上の、これ以下の、ことなんて、あるか。
「なん……で……っ」
 まだ。
 まだ。
 まだ。
 まだ――――
 やりかけのことも、やりたいことも、叶えたいことも、ぼんやり描いてた遠い明日の自分も、
 全部、これで、台無しだ。お陀仏だ。チャラだ、水泡だ。
 後はただ、空の向こうへ行くだけだ。
「――――なん、で――――!」
 辛い。
 苦しい。
 寂しい。
 ――――哀しい。

 ……空の向こう。
 その存在を、感じながら、それでもは動けない。
 見上げれば、どこかへ行ける門が見える。それを判ってはいたが、顔を上げられなかった。
 門をくぐれ。
 先へ行け。
 そう、自分のどこかがに告げる。
 死した魂、先へと向かえ。
 生ある者とは違う場所、向かうべき先へと死者よ行け。

 ――――死すために。行け。

「や、だ……」

 肉体は壊れた。死んだ。
 魂も行け。死を終えよ。

「嫌……」

 死の瞬間に留まるな。
 終えよ。死を。
 終えよ。汝を。

 留まり、そして、死につづけるな。

「それでも――」
 それが、どんなに正しいと、優しいと、判っていても。

「……いやだ……っ」

 熱くなる目の奥。
 もう肉体はないのに、何故。
 覚えた身体の反応を仕草を、この意志が覚えているだけか。
 そうして、見下ろしつづける足元で、
「――え」
 幾数の光が閃いていた。
「じょ――……っおだんじゃねーぞ、こらぁ!!」
 そして響く声。
 ついさっき、聞いて覚えたばかりの、名も知らぬ相手の怒鳴り声。
「逃げるか!? 普通逃げるかあそこで人間として!? 助けるだろ救急車呼ぶだろ、せめて車降りて様子見るくらいするだろ――!?」
「……」
 なんか。
 冷静に考えれば、突っ込みどころの多すぎる内容だった。
 呆然とするなど知らん振りで、というか見えてなどないんだろうが、少年は、先に他の誰かの血で濡れていたナイフを振るっている。
 その刃は――倒れ伏す、の肉体を切り裂いていた。
「……」
 って、おい。
「ていうかおまえ! おまえもアホか!? あんだけ爆音してたってのに、そこで道に出て行くかよ!? 聾者ですか!? だからノーリアクションだったってか!? アホ! 障害があるなら夜は大人しく寝とけよ危ねーんだから出歩くな!!」
 いや、聾者違うから。というか、今気遣われても。
「……ッ」
 とは云えず、は思わず、その光景から目を逸らした。
 だって。
 だって、切り刻まれてるのってば自分の身体。廿楽だったもの。
 鏡とか写真とか、自分で触れた記憶とかで、見覚えて。誰より何より馴染んでた、廿楽の身体、肉体。
 喉の奥がえずく。
 嘔吐感。
 だが、吐き出せるようなものなどない。
 形容もしたくない生々しい音と光景から逃げたくて、耳を塞いで目を閉じた。
 なんで。
 なんで、死んでまで、こんなひどいもの見せ付けられなくちゃいけないのか――

「……っ、ふう」

 どれほど、時間が立っただろうか。
 ややあって、が耳と目を解放しかけたと同時、少年が小さく息をついた。
「あー……やりすぎた……――」
 吐息とともに、零れる落胆。
 その沈み方が尋常でない気がして、は思わず、目を背けたはずのそちらを振り返ってしまった。
「――――」
 そして、驚愕する。

 ない。

 いったい全体、どういうことをどれだけやれば、そんなことが可能になるのか。
 しばらく前までそこに在ったはずの、女性の身体まるまるひとつ、それが、欠片も残さず消え失せていた。
 ……いや。
 具体的に云えば、在った痕跡は、ないわけではない。
 道路を真っ赤に染める、もうどす黒く変色しかけてる血だまりが、それだ。
 だが、それ以外。
 それ以外――何もなかった。
 皮膚とか。
 肉とか。
 毛とか骨とか。
 人体を構築するそういったものは、何も。何も――何もない。皆無。絶無。
 塵となったか。
 露と消えたか。
 そんな――錯覚ではない。
 それは――現実だ。
 そして、その現実をつくったのは、間違いもなく、そこに佇むひとりの少年。驚くべきことに、それだけのことをしていながら、彼自身には血の汚れといったものがひとつもない。
 ――いや。
 あえてあげるなら、さっきはなかった紅い染みがひとつ、左の頬、口元付近にあるが、それだけだ。
「……傑作、なんざ云えねーか」
 ぽつり、つぶやく少年の声は、ひどく重苦しく、沈んでいた。
「あーあー……気分悪ぃ」
 その原因は何なのか。
 とんとつかめぬが見守る先で、少年は、「ま、いっか」と素早く気を取り直し、口元についてた血を舐め取った。それから、いつの間にやら手にしていた財布の口を、ぱかり、と開ける。
 ――って、それ、私のお財布なんですが。
 あわあわとうろたえるの前で財布を探ることしばらく、少年は、なにやら目的の物を見つけたらしい。
 「お」と云いつつ取り出されたのは、が使っている電車の定期だった。
 少年は、それを、街灯の明かりでどうにか読み取ろうと試みる。
「えー……何々……――――読み仮名くらいふれよ国鉄」
 読めないのか君。
 がくり、と、は崩れ落ちた。
 なんだかすっかり気が抜けてしまって、だから、つい、聞こえぬと承知していながら、少年に話しかけてしまう。
「つづら、だよ。つーづーら」
「あー、なるほど。楽を綴って廿楽か」
 やっぱ日本人の名前てな、いろいろ凝ってるもんだぁな――そう、つっかえのとれた晴れやかな表情で少年は頷いた。

「……」
「……」

「はい?」「あぁ?」

 そして同時に、

「…………」
「――――」

 互いを見た。

「…………」
「――――」

 沈黙。
 静寂。

 時は凍りついていた。

「…………み」、
 見えてるの?
「――マジモン?」
 ユウレイ?

「…………」
「――――」

 沈黙。
 静寂。

 そしてふたりは頷いた。
 そして互いの動作をも見た。

「……ひ」、

 ひどいじゃない!! ――そう叫ぼうとしたは、だが、一文字目の時点で目を丸くする。
「――かはは、こりゃ傑作だ! よかったじゃねーか健在で! その様子じゃ耳も治ったみてーだな?」
 ぱあ、と。嬉しそうに、少年が、笑顔全開、見せやがったからだ。
 初対面時の闇と違った意味で飲み込まれかけたは、寸前で己を取り戻す。
「どこが健在よっ! ていうか耳は元々健康――じゃなくて! 私、死んじゃってるんだよ!?」
 つーか全部といわずとも何割かは君のせいでは!?
 があ、と、肩いからせて怒鳴るを、だが、少年はうんうんと満足げに眺めた後、
「あー、文句はあとあと。ちょい待て、ここ始末すっから」
 と、しごくお気楽な調子でそう云うと、くるりと身を翻し、
「――別に」
 首だけひねって、を見た。
「逃げやしねーって。ただ、このままじゃちっとやばいのよ」
「……」
 何がどうやばいのか。
 問いたい気持ちをぐっとこらえて、は、不精不精頷いた。
 所在無く浮いて待機するが見ているうちに、少年はまず、彼らの遭遇した路地へ戻った。
 そして、あろうことか、さきほど彼の足元にあったモノを、軽々とこちらへ運んでくる。
「……」
 思わず視線を逸らす
 少年は、そんなの仕草に何を云うでもなく、どさり、と、それを、の足元、血だまりのなかへ落とした。
 その行為の意図が読めず、は、疑問符まぶした視線を少年に向ける。――わだかまるその物体を視界に入れないよう、苦心しながら。
「何、してるの?」
「後始末」
 答えは短い。
「判らないよ、それじゃ」
「しょうがねーだろ」
 重ねた問いに、ちょっとむくれたような声が返る。
「やりすぎちまったんだからよ。血だけあって死体ないの、変じゃん」
 それに、こっちよかあっちのが片付けやすそうな場所だし。
「……」
 それは、たしかに、変ですが。
 そうしたのは、少年だろうに。
「……て、いうかね。なんで、私の――」
「八つ当たり」
「…………はい?」
「ったくよー……俺の目の前で、俺以外に殺されてんなよ。アホだろ、おまえ」
「……」
 はことばを失った。
 ――あの。
 なんで、私、今、非難されてるんでしょう。
 普通、こういう場合って、非難される側とする側、逆じゃないのかな。
 そしてふと、とてもとんでもない結論を、思考が弾き出した。
「……あの」、
「何? まだオハナシする? 長くなんなら片付けやりながらでいっか?」
「あ……うん」
 なぜか、人様の家の塀に飛び乗った少年のことばに、は思わず頷いていた。
 迷彩模様というのか、虎模様というのか。そんな柄のハーフパンツ、その尻ポケットに突っ込まれたままの己の財布ごと、少年を見送る。
 数分も待たずして、彼は再び姿を見せた。
「……」
 なぜか、手に、わりと勢いよく水の出てるホースを持って。ついでに、わりと歯は丈夫な方らしい。モップを一本加えてた。
 少年はそのまま塀から飛び下りると、先ほど運び出したモノのあった場所に、水を盛大にかけ始めた。
「……」
「あ、ちくしょ。やっぱ固まりかけてやがる」
 とか、悪態つきながら、ホースを持ってないほうの手にモップを掴み、ごしごしと路地をこすっている。
 …………
 えー、と。
 は、知らず知らずのうちに、頭を両手で抱えていた。
 たしかにこれ、片付け、だけどさ。
 一応ここって、いわゆる、殺人現場のはずでは……?
 だが少年は、いたって真面目に真剣に、「うー、めんどくせえ」とぼやきつつも、熱心に掃除を続行している。
「……」
 どうしたもんだろ。
 話しかけるのも忘れて、は呆然と、そんな少年の背中を見つめていた。

「――――?」

 ぴくり。
 ふと、少年が動きを止める。
「どうしたの?」
「雨」
「え?」
 くっ、と、少年が顔を持ち上げると同時、空から大きな水滴が、をすり抜けて道路に落ちる。
 それを確認したかどうかのうちに、

 ざあぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁぁ――――!!

 振り出したそれは、まるで、浴槽を引っくり返したかのような豪雨。
「うはあ――!」
 当然、傘もささずにそこにいた少年はなすすべもなく、あっという間にずぶ濡れになる。
 反射的なものなのか、ぶるるっ、と頭を振っているが、そんなのに何の効果があるわけもない。彼は数度でそれをやめ――動作を止めたその表情は、なぜか、嬉しげだった。
「よっしゃ、もうけたッ」
 云うや否や、彼は、ホースを、先ほどかっぱらってきた塀の向こうへ投げる。モップを口にくわえると、再び塀を乗り越えた。
 さっきと同じ時間ほど、待った後。
「お待たせ!」
 手ぶらになった少年が、ひらりと塀を越えて戻ってきた。
 嬉しそうに笑いながら、
「こんだけ降りゃあ、こっちもあっちも流れっだろ。いやあ、いいタイミングだ」
 降りしきる雨のなか、に向かって、そんなことを仰る。
 いったい、同意すればいいのか憤ってみればいいのか、もうわけが判らなくなりつつ、それでも何か返答せねばと頭をひねったは、
「えーっと……」
「ん?」
「風邪、ひくよ?」
 ……まるで友達の心配をするかのようなことを、少年に向かって云っていた。
「……」
 案の定、少年は、目をまん丸にしてを見上げる。
 ……ちなみに、少年の背は低い。
 が宙に浮いていることを合わせて考えても、まだ、より低かった。150、あるかないかってくらいだろうか。
「――かははっ」
 そして少年は破顔する。
「そんなヤワじゃねーけどな――ま、ご心配、どーも」
 云って、彼は、当たり前だが濡れもしないに向かって、手招きひとつ。
「あんたは平気そうだな。そんじゃ、ちっと落ち着ける場所行こーぜ」
「……へ?」
「オハナシ。すんだろ?」
「――あ。……え、ええっと……」
 実は、なんかもう、どうでもよくなってきてるような気がしないでもない、だった。
 さっき、あれだけ拒否してた門をくぐることも、そう抵抗がなくなってきてたりする。
 ……だってさ。
 、心中で自分に云い聞かせる。
 なんか、この人さ。
 全然――負い目とか、そういうの、ないんだもん。
 たしかに、直接を殺したのはあの暴走車だが、その前に飛び出すきっかけは少年だった。おまけに、が来る前に、たった今移動させたモノをあんなふうにしたのも、少年自身だったと思われる。
 だというのに。
 それでいて。それでいて――なお。
 なんなんだろう、この少年の、開けっぴろげっぷりは。
 ひどいじゃない、と、叫ぼうとしてた自分へ、逆に違和感を覚えてしまいそうなほどだ。
 だから。
 うん――だから。

 もう、いいや。

 そう思えた。
 このまま昇ってしまおうか。
 そう考えられる。

 だから――――

「もう」、

「あーもー、じれってー」

 いいよ。と。
 云いかけたのことばを遮って、少年の手が、さらに彼女へと差し出された。
 少し苛立ったことばのとおり、仕草も荒い。
 伸ばされた手は、そのまま真っ直ぐ、の腕を――まるで生きている人間にするかのように――掴もうとして、
「あ、私、幽霊――」
 すり抜け
「あ、そっか。幽霊――」
 ず。

「…………」
「――――」

 は、少年に、掴まれた。

「…………」
「――――」

 沈黙。
 静寂。
 いや、土砂降りの雨というBGMはあるけれど。
 今度のは、ちょっと気まずくちょっと気安い。
「あー……ナンデスカネコレハ」
 どことなく引きつった声で、少年が云った。
「もしかして、これ、なんかのドッキリ? 実はヘリで吊り下げてたりする?」
「しないしないしない」
 あわててかぶりを振る
 それでも胡散臭いものを見るような少年の視線に、「ほら」と、傍らの壁に向けて手を伸ばした。
 すっぽりと、壁はの腕を飲み込んで、その向こうへと素通しする。
「……」
 少年は疑い深く、自分の手を同じ壁に伸ばし―― ぺたり。
「……」
 ごつごつ。
「……」
 どすどす。
「いや、壁、壊れるって」
 だんだん力が加えられていくのを見て、は少年の手を掴んで止めた。
 そして、
「ん?」
 と首を傾げる。
「どした」
「濡れてる、よね?」
「見て判んねーか」
「……だよね」
 すでに濡れ鼠度満点な少年の答えに、は、自分が掴んでいたほうの手を放した。
 それから、そ、と。少年の腕を、撫でてみる。
 くすぐったいのだろう、わずかに目を細める少年。
「……私、触ってるところ、濡れてるけど、濡れた感じ、しないや」
「はん?」
「……」、ちょっと考える。答えはわりと、すぐに出た。「突き抜けてるんだ。雨。たぶん」
「――そりゃ判るが……それでなんで、俺だけ触れんだ」
「私に訊かないでよ。わかんないよそんなの」
「俺だって判らねーよ」
 云いつつ、今度は少年が片手を自由にし、に触れた。
 二の腕付近、服に包まれた場所。
「……この感覚は、布。だぁな」
「うん。服の上から触られてる感じ、する」
「…………」
 少し間をおいて
「……どれどれ……?」
 今度は両手を使って、少年は、の袖口をまくりあげた。片手で布を押さえ、もう片手で直に腕へ触れる。
「あ。くすぐったい」
「んー、皮膚だ。間違いねー。ちと低いが体温もあるわな……じゃあ次は……」
 つぶやきつつ腕を下ろした少年は、次に、どこからともなくナイフを取り出した。
「って、ちょっと!?」
「あー、だいじょうぶだいじょうぶ。なんともなんねーよ。たぶん」
「保証は!?」
「実験にのみよって得られる、ってな」
「ないんじゃないそれ!!」
 わめくの腕を、外見から想像されるよりははるかに強い力で掴み、少年はナイフをきらめかせる。
「……ッ!!」
 目を閉じ、身をちぢこまらせたの腕を襲ったのは、

 どす、

 鈍い、殴打の感覚だった。
「……え」
「だから云ったろーが」
 まるでそうなるのが判っていたかのように、どすどす、刃をの腕に通過させつつ云う少年。
 具体的に云うなら、ナイフはを傷つけず突き抜けて、ナイフを握る手だけが、の腕で行き止まり。
「……、何これ」
 いやマジで。
「俺が知るか」
 これもマジで。
 そして、ふたりは顔を見合わせた。
「…………」
「――――」
 そうして初めて正面から、は、少年の目を覗き込む。
「…………」
 昏い、眼だった。
 灯りが弱いせいかとも思ったけれど、違う。
 日の光の下で見たとしても、同じように見えただろう。
 暗く、深く、よどみなく――澱む。果ての見えない闇が、ただ、そこにある。
 純粋な闇だ。
 純粋に病んだ。
 ただ純粋に――――少年は、混沌と。暗く深く果てもなく、闇だ。
 その眼が。
「怖ぇ?」
 細められる。
 ぱっと見、人懐こい笑顔だ。
 けれど。
 その眼を見た、今となっては。
「……」
 ためらいがちに、は頷いた。
「そか」
 少年は、ますます、笑みを深めた。

「なら――そうだな、あんたは“人間”だ」

 嬉しそうに、そう云った。
「え?」
「俺の兄貴なら、きっと、そう云ってくれんぜ」
 いや、君のお兄さんなぞ知りませんが。
 素直にそう云うべきかどうか、が迷ったその一瞬。
「――っせ、と」
「え!? ちょ、ちょっと!?」
「やっぱ軽いな、論外に軽い。幽霊ってこんなもんか?」
「そりゃもう身体がないし……って、そういう問題じゃなくて!」
「じゃーどういう問題よ?」
 そりゃあ決まってる。
「なんでいきなり抱え上げるの!?」
 そりゃあ決まってる。
「運ぶためだろ」
「――――は?」
「訊きたいことはそんだけだな。じゃ、次は俺からだ」
「え、あの」
 今の疑問符、見えなかったのか、少年。

「――あんた、今の自分。どうよ。生きてる? 死んでる?」

「……」

 そうして。
 のことばを遮って発された問いは、ひどく、回答するに難しいものだった。
「……」
 抵抗するのも忘れて、は考える。
 肉体はない。車に轢かれて壊れた上に、少年がトドメのごとく粉砕した。
 廿楽という、器は消えた。
 ――だが。
 この意志は。この心は。ここにいる、自分というモノは、それならば……?
「……“私”は」、考え考え、は、少年へと答えた。「ここに、いる」
 だな、と、少年は頷く。
「そのこと……だけで、死んでは――死に終えては、いないと思う。生命活動止めて……それでも、“私”は、いるから。まだ、“私”を終えてないから」
 遥か空の遠い門を、くぐってないから。
 少し息を飲んで、
「……でもそれは、死に続けてること、なのかもしれない。それで逆説的に云うなら――それは、“生きて”ることだと、思っていいかもしれない」
 米俵のように担がれた体勢のまま、だらりと下がる腕の先にあった少年の服を、知らず、掴んだ。
「“私”は――」
 そうして云いきる。
「ならそれを、俺が認める」
 少年が。
 たぶん今唯一、見れて触れて話せる、少年が。
 云いきる。

「俺が。認めてやんよ。――――あんたは、“生きて”る」

「……」

 何故。
 彼は、そんなふうに?
 わき腹のあたりに、ふと、やわらかな感触を感じて、は無理矢理首をひねった。
 と、それが見える。
 少年が、首をわずかに傾げて、頬をに押しつけていた。
「そんで」、
 続くことば。
「もうひとつ――俺はあんたを殺すよ」
 殺し続ける。
「……は?」
「痛いこたぁ、しねーよ? しようがねーし。ただ、あんたはそれが終わるまで“生き”つづけるってだけのこと」
 在るだけで死につづけるというのなら、定義は同義になり得るのだと。
 ――なんともはや、の事情を無視した理論展開である。
 だからして、
「終われないの!?」
 が思わずそう叫んだのも、当然のことであった。
「無理だろ。てっか、しばらく終わらせね」
「何ぃ!?」
「俺の目の前であっさり他人に殺されやがって。おまえ、それがどーゆーことか判ってる? ドゥーユーアンダスタン? ノーだろ?」
 自己完結するなよ。
 などというの心の突っ込みには気づくことなく、少年はつづける。
「いやそう云う俺自身、判ってるわけじゃねーけど」
「人のこと云えてないじゃない!」
「だが、間違いなく息の根いっぺん止められたね、俺は」
「死んでないでしょ、君は!」
「あー、そういう問題違くて」
 頬を押しつけられたままのわき腹が、くすぐったい。

「違くて――」、ぽつり。降る雨のなか、降ることば。「――なんてーか……マジ、キたわ。すげえのが」

「……すいません、日本語でお願いします」
 プリーズジャパニーズトーク。

 いったいどこの電波がキたんですか。

 そんなの要請に応えた、というわけではないのだろうが、少年は、ぽつぽつと、ことばを紡いでいく。

「獲物横取りなんて、そういう次元じゃねーわな。そんなんどーでもいいしさ」
 さっきの思いついたとんでもない結論を、彼はあっさり否定した。

 ざあざあざあ。
 降りしきる雨に、かき消されそうな程度の、声。

「――ただ――ただ。なんてーのかな。やっぱうまいとこことばに出来そうなもんじゃねーんだけど……」

 ざあざあざあ。
 まだ、雨はやまない。

「なんであいつ、あんなんに殺されんだよ――っつーか……」
「獲物横取りとどう違うの、それ」
「だから、そのへんがうまいとこことばにならねーんだよなあ」

 半眼になったを、ちらりと横目で振り返り、少年は、にんまりといった感じで目を細めてみせた。
「ちなみに、だ」
「何よ」
「吹っ飛ばされてるあんたを、俺はばっちり見てたわけだが――わりと間抜けだった。ああ、これだけは笑えたな」
 …………
 くるくる、宙を舞う映像が、不意にの脳裏に浮かぶ。
「私実家に帰らせていただきマス」
「どーやって」
「……」
 沈黙による雄弁な返答で、「かははっ」と少年は楽しげに笑う。
 それから、
「吹っ飛ばされて」
 ぽん、と、を抱えてないほうの手をまわして、腰のあたりを一叩き。

「痛かったよな」

 ……

「逃げるからだぞ。ったく」

 ……

「俺にやらせときゃ、痛みもねえうちに殺してやったのによ」

 ……

「……何。その、一見優しそうでその実凶悪なセリフは」
 どうにかつむぎ出したの声は、自分でも判るほどに掠れていた。
「かはは」、
 少年は、逆に楽しそう。
「優しくねー。俺は全ッ然優しくねーぞ、何しろ殺人鬼ですから」
「…………そう」
「あん? 驚かねーの?」
「ふ」
 ちょっとつまらなさそな少年のことばに、は、鼻で笑うという仕草をしてみせた。
「自分がこんなんなった今じゃ、殺人鬼が出たとこでなんだっていう感じ。しかも何、幽霊とか云いつつ君相手だと何か間違ってるし。ああもう幽霊失格。柳の下にも立てないよ」
「立つな立つな、鬱陶しい。てっか、立たせねっつの」
 呆れたようにそう云って、少年は歩き出す。を担いだそのままで。
 どこに連れて行く気だ、そもそも一緒に行くなんて云ってない、いやその前に昇天させてくれという要請はシカトですか。
「……」
 そのあたり、諸々の発言を、だが、はしなかった。
 口を閉ざしたまま、ただ、ふと、未だ降りしきる雨の源、雲に覆われた空を見上げる。
 門の存在は遠く、さきほど感じていたよりも、今はもっと、ずっと遠く。

 ……少年を見る。

 彼の存在は近く、最初に互いを認めたときより、今はもっと、ずっと近く。

 ……ああ、

「捕まった……?」
「おう。捕まえた」

 事故で死んだ人間は、たいてい地縛霊になるとか、誰かが云っていた。ならば地縛霊ならぬのこれは、さて、なんというのだろ。
 そんな胡乱げなの声は、ひどく小さかったけれど。
 ざあざあざあざあ。
 降りしきる雨ごし、それが聞こえたらしい少年は、やっぱり、楽しそうにそう応えた。



 まだ、春浅い日。
 月のない夜、日の変わる境、くらい闇。
 ……その片隅の出来事だった。


 ――
 ――――――――
 ――――

 …………
 ………………


 少年が、現時点での寝泊り場所だと云ってを連れてきたところは、なんつーか、
「……すっご」
 い、とまではいかずとも、わりかし立派なビジネスホテルだった。
 の家があった住宅地からは、少し離れた街のあたりだ。
 駅に近い好条件の立地、施設も整っているとのことで、こういう所には縁のないでも、このホテルのことは知っている。
 そのホテルに、少年は、足を止めることなく突き進む。
「あ、ね、ねえちょっと」
「ん?」
「宿泊料金、一人分でしょ。こういうとこ、高くない?」
「……はぁ? 何云ってんだおまえ」
「いや、だからその……私の分のお金」
「……」、道中、担ぐ向きを正面に直されたの耳に、盛大なため息が聞こえた。「アホ。幽霊から金とるホテルなんてあるか」
 ぐ、と、一撃にして撃沈されたを、「てなわけで」と、少年は解放する。
 まあ、これはさすがににも判る。
 いくらなんでも、米俵を担ぐパントマイムしつつ(そんな体勢にしか見えまい)フロントに向かう気なぞないのだろう。だって嫌だ。
 そして、あの路地での出来事の後、晴れて自由の身になったはふと、空を見上げた。
 もう随分と――時間が立つにつれて際限なく、遠ざかっていっている気のする、進むための門。それが、今はどれくらい遠いのか、ちょっと気になった。
 そう。
 ただ気になった。
 他に何を考えたわけではなかった。
 別に全然、そこへ行こうなんて思ったわけでもなかった。
 ……の、だが。
 ちらりとを振り返った少年の目は、
「…………」
「……怖いよ」
 思わず後ずさりしたくなるほどに、剣呑な色を宿していた。
「……?」
 けれども次に、少年は、口の端を持ち上げてみせる。
 夜道では判らなかったけれど、ホテルやらの灯りに照らされて、右頬に施された灰色の刺青が、その動作で軽く歪む。てか、シールとかじゃなさそうなんですが、本当になんなんだこの少年。
「行くん?」
 そして、ひどく端的に問われた。
 どこへともいつともなく、ただ、いくのかと。
「……」
 とりあえず、は小さく笑んだ。
 少年が、勘違いしてるのだと悟ったから。
「行かない」
 だって、と付け加えた。
「地縛霊じゃなくて人縛霊になったみたいだし」
「――――」、
 ことばの意味を飲み込むために数秒を要し、
「……そりゃあ傑作だ」
 再度笑んだ彼の眼から、剣呑な色は消えていた。



「ところでだ――あんた、名前は?」
「定期見たなら判るでしょ」
「うっわ、つれねーの。じゃあいいや、弥栄で」

 ……

「“じゃあいいや”って何!?」
「何って、じゃあいいやはじゃあいいや以外のなんでもねーだろ」
「いや、そうじゃなくて、弥栄って何よ!?」
「おまえの名前」
「なんで!?」
「なんでって……ポチとかタマのがよかったか?」
「やだ! じゃなくて、どうして君に命名権が行くのかが判らないんだけど! そもそも、私にはちゃんと親からもらった名前が」

「けど、廿楽はもういねーだろ」

 …………

「なんだよ、首絞められたような顔しやがって。事実じゃねーか」
「……そりゃ……そうだけど……」
「だからいいじゃん、心機一転ってことで、ほれ決定」
「決定事項ですか!?」
「おう。おまえ今から弥栄な。いいか、それ以外で返事すんじゃねーぞ。弥栄だ弥栄。やーさーか。はい」
「……はい……って」
「弥栄」
「……」
「弥栄」
「……」
「犯すぞ」
「……はい……弥栄でいいです……」
「よし」
「……私、どうして、幽霊になってまで貞操の危機に晒されなければならないのでしょうか……」
「見えるだけならよかったのにな――て、思ったろ。今」
「まあ、正直」

 …………

「あいたッ!!」
「正直者はバカを見る」
「いたいー! 今手加減とかしなかったでしょ、死ぬかと思ったよ!? っていうかなんで幽霊なのに痛いの!?」
「デコピンで死ぬかバカ。肉体感覚残ってんだろ。触覚とか残ってる時点で判っとけよ。……っと」

 ………………

「寝るの?」
「ん。さすがの俺でも睡眠欲っつーのはあるわけでして」
「自分でさすがとか云うあたりが……」
「うっせ。――あ、そうそう。おまえんちのことは、起きてからな。じゃ、おやすみ」

 ……

「……おやすみ」
「ん」

 スカートの裾を握ったまま、無防備な寝顔をさらす少年を、弥栄と改名した(された)は、彼が起きるまでの数時間、何をするでもなしに(出来ないし)ただ、眺めていたのであった。

「……そういえば」

 ――――まだ私、この人の名前、訊いてないぞ?

 それにが思い至るのは、そうして少年が目を覚ます、数分前のことだったり、する。


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やっちゃいました。しかも名前変換がすげえ変則。もう処置のしようもないですなこの野郎は。
もしもお気の向かれた方がいらっしゃれば、珍道中にお付き合いしてやってください。