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名前




「あ? 名乗ってなかったっけ、俺」
「うん。勝手に人を命名しといてそれっきり」
「あー……かはははは、悪ぃ悪ぃ。や、凡ミスっつーことで」


 昨夜、というか時間としては、すでに今朝方といったほうがよかったかもしれない。
 ともあれ、夜雨降る夜のなか、部屋に入るなり脱ぎ捨てて浴室に投げ込んでいた服を拾い上げながら、少年は、いささかの悪気もなく闊達に笑ってみせた。
 どーでもいーが、君、年頃の女性の前でトランクスいっちょという姿はどうにかしてくれんもんかな。
 おかげで、さっきから、はまともに少年を見れない。
 夜話してたときは、彼がめんどくさがってベッド脇のライトを点けてただけだったから、そう気にしなくてすんでいたけれど。今、こうして明るいなかで見るとなると、なかなか正視しづらいものがあるのだった。
 ちらちら、壁と少年で視線を往復させるは、自分でも挙動不審だと思うほど。
 ましてそれを見ている少年にすれば、胡散臭さ炸裂とか云われてもおかしくない。
 果たして少年は、解いて肩に流れる髪をわずかに揺らして、にんまり、へ笑いかけた。
「何、悩ましい目つきしてんじゃん。そんなに襲ってほしーわけ?」
「……バカ!」
 投げつけてやろうと腕を伸ばすが、標的にした置物は、空しくの手をすり抜けた。
「…………」
「……ま、そーいうことだぁな。そのうち慣れるって」
 ずーんと落ち込むが、そんなに哀れだったのだろうか。
 いささか同情的に肩を叩きながら云う少年の声は、ちょっぴり優しかった。かもしれない。


「零崎人識」

 とりあえず一風呂浴びてくるわ、と、浴室の向こうに消えた少年が、ガラスの向こうからそう云った。
 唐突だった。
「ぜろざき――ひとしき?」
 あんま距離置くな、と云われたものだから、扉の脱衣所側で待機していたは、おうむ返しに彼へ応じる。
「そ。零崎人識。俺の名前な」
「……零崎ひとしき?」
「人識」
 微妙なニュアンスの違いを指摘され、再度、その名を舌で転がす。
「零崎――人識?」
「オッケー」
 今度は満点らしい。
 珍しい名前だな、と思っていると、しゃわしゃわ賑やかだったシャワーの音が、止まる。
 タイルの水溜りを蹴散らして、こちらにやってくる足音。
 扉が開けられると同時、は壁際に身をずらした。ついでに視線も明後日に向ける。
 視界の端でバスタオルが踊り、バスローブが翻る。
 そうやってる当人を見ないように努めること数分後、軽く袖を引っ張られた。
「ほれ」
 軽く顎をしゃくって、タオルを頭にすっぽり被った少年――零崎人識は、の袖を持ったまま、浴室・脱衣所を後にする。
 洗濯機に放り込んでた服が脱水まで終わってるのをたしかめて、備え付けのハンガーにかけた。
「……手慣れてるね」
「まぁな、風来坊歴はそれなりにあんぜ」
「ふーん……すごいんだ。じゃあ、学校は行ってないの?」
「……」
 タオル越し、ちょっと大きめのバスローブ越しでも十分わかる。
 人識は、目に見えて、引きつったようだ。
「……」
 ちょっと凄味のある視線を向けられて、今度はが引きつった。
「――あのな弥栄ちゃん。ツカヌコトヲオキキシマスガ」
「は、はい」
「おまえ、俺をチューガクセイだとか思ってねーか? いや思ってますね?」
「え……えっと」
 ここまで如実に慇懃無礼されると、気づくほかない。
 は、冷や汗が浮かぶのを感じつつ、のろのろと頭を上下させた。
「けっ」
 それを見た人識は、ふい、とそっぽを向いてしまった。その背中に、用意しておいたことばを投げる。
「……実は、違う?」
「少なくともおまえよか年上だっつの」
「――――」
 ちょっと驚いた。
 高校生かと訊かなくてよかった。いや本当に。
 一秒ほどあらぬ方向を見た後、はぎこちなく宙を移動して、人識の前にまわりこむ。
「えっと。ごめん」
「おう」
 判ればよろしい。
 そんな感じの笑みを見せて、人識は鷹揚に頷いた。


 ――そうして、ルームサービスの朝食をとったり、それを運んできたボーイの肩にいた先祖の霊に驚くへ人識が同類だろうがと突っ込んだり、些細なこともあるにはあった。
 ちなみに、洗濯物はまだ生乾き。
 相変わらずバスローブに身を包んだまま、空っぽにした朝食の皿を廊下に押し出した人識は、後ろ手に鍵を閉めて戻ってきた。
「じゃ――とりあえず、落ち着いたところで、だ」
 来い来い。
 手招きに従って、は、人識の傍らへ。
 そうしてそのまま捕まえられて、ベッドに腰かける彼の膝に乗せられた。
「んー」
「……あの」
 後ろからまわされた腕を見下ろし、背中に押し付けられてるんだろう額の感触を感じながら、は、ちょっぴり呆れた声でつぶやいた。
「私んちのこと、考えてくれるんじゃなかったの?」
「まあ待て。物事にはその時っつーもんがある」
「……」
 じゃあ今はそういうときなのか。
 とか訊いたら即行肯定されそうで、そのまま口をつぐむ
 腕があったかいなあ、とか、背中がくすぐったいなあ、とか、他愛なくかつどうでもいいことを考えて、時間が過ぎるにただ任せた。
 そうしているうちに、とうの、自分ちのことへと思考は流れる。
 ……どうしたもんかな。どうしようかな。
 わりと気楽に見られてしまいそうだが、は、なんだかんだと開き直りの早い性質だった。なってしまったものはなってしまったのだから、唐突な行方不明を世間様に対してどうフォローするか、考えるのはそんなこと。

 ……

 どうフォローしたって行方不明は行方不明だろ。

 と、そこまで考えたところで、はとあることに思い至った。
「……ねえ、零崎さん」
 ごづっ。
 背中に頭突きをかまされた。
「痛ー!」
 今朝方といい今といい、なんでこんな目にばっかり遭わねばならんのですか!?_
 だが、
「気色悪いわアホ! さん付けすんな!」
 首だけひねってどうにか振り返ったが文句を云うより先に、人識が、えらい剣幕でそう怒鳴る。
 マジで鳥肌たってるし。
 勢いに呑まれた形で、は、ぐ、と口ごもった。
「じゃあ、零崎くん?」
「……」
 ジト目、威力倍増。
「……零崎様?」
「アホ」
 そのまま後ろに引き倒された。
「ちょ、ちょっと!?」
「口で云って判んねー奴にはお仕置きしないとなー」
「楽しそうに云わないで!!」
 身体の前でがっちり組まれたままの腕を振り解こうともがくが、霊体になっても筋力差というものは歴然としている。
 人識は、まるで抵抗などないもののように、寝転んだままの身体を反転させて、をベッドに押し倒し――

 すっぽり。

「わああぁ!?」
「――うおッ!?」

 はそのまま、ベッドを突き抜け落っこちた。
 唯一出てた右腕の肘から先を、人識が、とっさに掴んで引き上げる。
 一本釣りよろしく持ち上げられたは、ベッドから身体半分生やした状態のまま、
「……今、初めて、幽霊になってよかったって思えた気がする」
 と、仏頂面の人識に云い、謹んでデコピンを頂戴した。


 だいたい、なんで昨日今日逢ったばかりの人相手に、貞操の心配をせねばならないのだろうか。
 それが、の正直な感想である。
 だが、まあ、
「だーかーら、もうしねーって。ほれ弥栄ちゃん、ご機嫌直せ。な?」
 へらっ、と笑いながら手招く人識と睨み合う(?)こと十分弱、折れたのはのほうだった。
 なんだか、この数時間で、零崎人識という相手の輪郭が、なんとはなしにつかめたような気はする。――その深遠までは、まだ、判らないけど。
 とにかく――気まぐれというか、切り替えが早いというか。
 子供みたいだ、というか。
 猫みたいだ、というか。
 ……なんだよ、そのプリティな感想は。自分の思考に驚いてみる。
 ともあれ、こういう人種相手では、真面目に怒りを持続させるだけ損だというものだろう。
 それに、としても、
「……」
「よしよし」
 幽霊になってそれこそ数時間しか経っていないせいか、自身にとって唯一“他の実体”である人識に触れていないと、なんだかあやふやで落ち着かない。落ち着けない。
 どんな体勢にすれば、ひとまずまっとうに見えるだろうか。
 しばしあれこれ試したのち、背後霊のよーに後ろから肩口に腕をまわしてしがみつくか、いっそ素直に人識に抱っこされとくか。
 迷った挙句背後霊になろうとしたを、だが、人識がそのまま抱きこんで満足そうに頷いた。
「……」
 よくねえよ。
 とは云わず、は半ば諦めの心地で、人識に身を預けた。
「さて、と――そんじゃ」、
 どこぞにしまっていた、の財布と定期をテーブルに取り出してみせ、人識はようやく、本題に入ってくれるつもりのようだ。
「とりあえず、おまえんちのこと、どーにかしねーとな。俺としちゃあ、別にこのままほったらかしてもいいんだが」
「それは、やだ。――て、いうか話戻すけど、私は結局貴方様をなんとお呼びすればよろしいんですか」
「人識」
 それ以外認めねー。
 すっぱりさっくり云いきられ、かつ、先ほどのお仕置きの記憶も生々しいは、
「はーい」
 と、素直にそれを受け入れた。
「じゃあ、人識。ひとつ質問してもいい?」
「うん?」
「あのときの話なんだけど――なんで、私の身体を粉砕したわけ。あれ、何か意味あったの」
 極力、記憶を呼び起こさないように注意しつつ、問いかける。
 それでも、ちょっとどころでなく身が粟立つのは否めなかったが。
「……あー……あれな」
 少し気まずい調子で、人識は云う。
「まあ、一種の八つ当たり? ってやつ?」
「疑問符つけないでよ――って、なんで八つ当たり! 私たち初対面だったでしょ!?」
「……」
「黙秘権行使似合ってないっ! こらそっぽ向くなっ!」
 しれっと視線を動かす人識だったが、を捕まえた腕はそのままだ。
 その至近距離を利用して、は人識の頬をつまんで伸ばす。
 人識は、なぜかされるがままの状態で、目だけ動かしてを見た。
「俺だって感情に流されることくれえ、あるっつーの」
 だから云わすな、と、雄弁にその視線が語る。
「つまり?」
 そこをは突っ込んだ。
 とたん、そりゃもう嫌そうな表情が返る。頬の肉が引っ張られてるせいで、ちょっとおかしい。
「あーもう」、観念したのだろうか。「――だからな、昨夜も云ったろ? なんでおまえ、あんなモンに殺されたんだって。そーいうこと」
「……だからどうしてそこで粉砕行動に移るのかが判らないんだってば」
「…………」
 沈黙、そして、睨み合い。
「まー……いーけどよ」
 人識が早々と折れた。
「うん?」
「俺、背ェ高い女が、好みなのな」
 彼に比べればたいていの女性は高いんじゃなかろうかと思ったが、とりあえずそれは黙っておく。
「で、いくら殺人鬼といえどもよ。好みのタイプまで、殺したかねーじゃん?」
「……いろいろ複雑なんだね」
「まーな。男の子のサガですな」
「ちょっと違う気もするけど」
 いざ話し出すと、ことばなんて滑るように出てくるものだ。
 人識が話す。
「で、まあ、こーいうの面と向かって云うのもあれなんですが。おまえも、わりと、背ェ高いほうだろ」
 は相槌を打つ。
「そう?」
 肯定とも否定ともとれぬ曖昧さだが、としては、やはり、さっき思ったように、たいていの女性は彼に比べれば“わりと背が高い”部類に入るんじゃなかろうか。最後の身体測定は一年以上前だったし、身長は体重ほど日常で気にすることでもない。故に、自身の身長を問われてぱっと答えられない程度には、うろ覚え状態だ。
 まあ、最近の子供は本当にたけのこめいて伸びていくから、今のが平均に比べて高いのかどうかも、判らないが。
「だから――一瞬、どーしたもんかなと。思ったわけですよ、俺は」
「口封じするか逃がすか?」
「いや。ナイフともいっちょと、どっち使や、より安楽死させてやれっかなと」
「…………」
 は思った。
 この殺人鬼め。
「したらおまえ、その間に車に跳ねられてっしよー。あんときゃもう、マジで頭真っ白になったわな。顎外れるかと思ったぜ。何コレ? マンガ? 白昼夢――いや夜だったけど? アホかあいつは? 確実にアホだ。どっちにしても死ぬんなら足掻かず俺に殺されとけよ――――と、まあ、こんな感じだ」
「…………」
 は思った。
 つくづく、人識にとって、自分はアホ以外の何ものでもなさそうだと。
 というか彼の話を聞いてると、どんどん自分が恥ずかしくなっていく。
 素直に殺されればよかったと思ってるわけではないのだが、あそこでタイミングよく突っ込んできた車の前にこれまたタイミングよく飛び出した自分の姿が、ありありと描けてしまうからだ。
 ――いやあもう、第三者の目から見たらば、本当に間抜けなことこの上ない。
 んでむかっ腹立つと、と、人識は続けた。
「俺、すぐ手元にあるもん壊すのな。我慢とか出来る方でもねーし……というわけで、そういうこと。以上供述終わり。満足?」
「……」
 判った。
 よーく判った。
 思いっきり、最初のアレで大正解。
 の肉体が粉砕されたのは、それこそ、八つ当たり以外の何ものでもなかったのだと。
「おまえが出てこなきゃ、そのままとるもんとって行くつもりだったんだがな」
「……殺人鬼で追い剥ぎですか、あんたは」
「何はさておいても、金は必要だろ」
「そりゃそうだけど……」
 その、金銭獲得の手段が、甚だ――なんというか、アレだというか。
 うまい形容詞が浮かばないが、やるせない、というのが、現在の心境を表すに適切だろうか。は小さくため息をつく。
 それから、ちょっと気を取り直した。
「……でも、人識、それでよく、私のこと、考えてくれる気になったね?」
「だって心残りだろ?」
 ――少し、感激してしまった。もしかして、零崎人識はこれで結構、
「おまえは俺と来んだから、他にしがらみ残してく訳にいかねーじゃん? 里帰りとか出来ねえように壊してもいんだけど、それだと、おまえ、ぶちキレて昇天しそうだしさ」
 ……優しくない。
 絶対優しくないわ、こやつ。
 怒りに震える拳をなだめ、は、肩口にある人識の顔を睨みつけた。
 だが、人識にとっては、そんな視線も何処吹く風――でさえ、ないのかもしれない。財布と定期を指し示し、に視線を合わせて笑う。
「とにかく、供述は終わり。思考の時間だぜ。もう日は昇っちまったし、そろそろおまえんち、騒ぎ出してんじゃねーの?」
「……」
 そうしては、
「……それは、ない、かな」
 と、曖昧な笑みで、人識に応えた。


 は、自分が幸福だとか不幸だとか、あまり考えたことはない。
 境遇なんて十人十色、万人いれば万の違い。それを誰かと比べようとか、思ったことさえもない。
 ただ、その日その日目覚められること、一日を終えて眠れること、そのサイクルだけで十分に、笑って生きてくことが出来ていた。

「……で」、

 財布にキーホルダーで留めていた鍵でもってドアを開け、室内に入り、さして多くもないの荷物をまとめながら、零崎人識がぶうたれる。
「なんで俺が、おまえの夜逃げを演出してやらにゃならんのよ」
「人聞きの悪い。せめて引越しって云ってよ」
 ていうかそんなめんどくさいんなら、今からでも昇天させてくれていいんですが。
 云うと、思考の間も挟まず投げられる返答。
「やだね。せっかくの呼吸器だ、逃がす気なんぞ、さらさらねえよ」
「……何よ呼吸器って」
「んー……かははっ。ま、そのうち説明してやんよ」
 笑い声にごまかされた気もしながら、は壁のカレンダーをちらり。
 都合のいいことに、明日は近くの小学校で廃品回収。今度の当番は、ちょっととぼけたおばあさんだから、初顔の人識が持って行っても、追及されることはないだろう。
 タンスや食器棚といった大きめの家具類は、こないだ新聞のチラシに入ってた、『お電話一本で伺います』のリサイクルセンターでオッケイ。アパートに着くと同時に人識に電話してもらったから、時間どおりであれば、あと30分もすれば来るはず。
 リサイクルにまわせない分は、役所に電話して大型ゴミってことで回収してもらえばいい。
「おい、弥栄。ここ開けていいのか?」
 ちょっぴり気遣いを見せてくれる人識を振り返り、はちょっと考えた。
 が、今さらなあ、と、思考を放棄。
「いいよ別に。でも出来ればしげしげ見ないでゴミ袋入れて」
「りょーかい」
 云うや否や、人識は早速作業に入る。
 タンスの一番小さな引出し、いささか視線を外しつつそこを開け、手を突っ込んだ。そうしてつかみ出したそれらを、自治体非推奨である、黒い袋に押し込めていく。
 ――かと思っていると、
「なあ」
「何?」
「おまえ、わりと胸でかい方? 見た目アレだけど、着痩せ?」
 びろーん。
 彼の手によって吊り下げられた物体を見て、は、両手を額に押し当てた。
「変態」
「そりゃ兄貴のほうだ」
 ちなみに、は人識のお兄さんなど知らない。顔も名前も。
「だいたいよー」、手にしていたそれを袋に突っ込みながら、人識。「被って喜んだりするなら変態云われても仕方ねーけど、単に胸のサイズ訊いただけじゃん」
 そんな筋合いなどない、との言外のそれに、はまたも頭を抱える。
 それを、本人に、面と向かって訊くあたりが問題なんじゃないかと思うのだが。いったい、お兄さんといい人識当人といい、どーいう環境で育ってきたんだ。
 答えが怖くて、訊かずにその場は終わったのだが。


 ――引越し偽装作戦は、結局、とりかかってから日が暮れるまでつづいた。
 幸いなことに、このアパートの住民は朝早く、夜は遅い。
 独身の社会人ばかりであることと合わせ、近年よく見かけられる、隣近所への無関心も、色濃い。大家はいるが、それも別所に住んでいる。
 だからして、誰に咎められることもなく、偽装作戦は進んだ。
「あー、だりぃー」
 最後のゴミ袋の口をしばり終え、玄関に運んで戻ってきた人識が、がらんどうになった部屋の中央に背中から倒れ込む。
 が住む前から敷かれていたろう畳はすっかり日焼けしていて、文句も云わずに彼のダイビングを受け止めた。
「お疲れ様」
「ん」
 どうやら人を殺すより、引越し準備の方が疲れたようだ。
 たしかに、かかった時間もそれなりだし、何より、人識ひとりで全部をやってのけたのだから、疲労の度合いも判ろうというもの。
 気だるげに頷いて差し伸べられた二本の腕に、だから、は小さく笑って誘われた。
「でも――よく、リサイクルの人とか役所の人、無事に帰してくれたね」
 実はちょっと、心配してた。
「バーカ。逢う奴逢う奴誰も彼も殺してるわけねーだろ」
 ふむ。たしかに。
 そんな人物がいたら、彼が一日街を闊歩するだけで、人口半減してそうだ。
「そのへんは――まあ、今んとこ心配すんな。おまえといっと、少し、楽」
「……楽?」
 弱々しい夕陽の差し込む室内、朱に染まる人識の腕に抱かれながら、は首を傾げた。
 それは、何時間か前に云っていた、呼吸器というのと何か関係があるのだろうか、と。
「心境っつーか……観念的なもんだよ。だから、説明しづれー……」
 ただ俺は、と、つづくことば。
「“そういうモノ”なんだな。好きでやってるわけでもねー、嫌々やってるわけでもねー、どっちかって云うとつまんねーし、なんのためにっていう、意味がそもそも見出せねー。――それでも、“そういうふう”でないと“生き“ていけないってことだけは確かなんでな」
「……殺すこと?」
「そう。呼吸するようにってことばがあるが、俺の場合、“そう”しねーと息苦しい。むしろ呼吸のために“そう”してるって感がある」
「……」
 少し、考えて。
 凝った形を、ことばに変換。
「それが、“そう”しなくても楽なの?」
「ん」
「なんで? 幽霊だから? それとも、幽霊は幽霊でも人識に殺されてないから?」
「……さあ。俺にも判んねー。なんでだろうな」
 ただ、
「ただ――単に」

 楽。

「何か思いつけば、もう少し、考えてみるよ……けど、今は――めんどくせー、かな」
「……大仕事、してくれたしね」
「二度とやんねーけどな――」

 ごろん、と、人識は寝転んだまま、身体の向きを変えた。
 腕におさまったままのも、当然、一緒くたに移動。人識が横向きになったため、なんだか抱き枕のようだ。
 彼の触れてない部分が床を突き抜けるかと思ったが、考えてみればは幽霊、重力なんて関係ない。今朝のあれは、引っくり返された勢いでベッドを突き抜けたのだろう。
 その証拠に、特に何も考えずとも、普通に寝転べばこのあたりだろう、という位置に、の身体は漂っていた。
 ……本当、幽霊失格だなあ。
 ふとそう思ったと同時。――思い出す。

“俺はあんたを殺すだろう”

 まるで予言のように、人識がへ告げたことば。
 ……たしかに、そうだ。
 が門へ向かわないのは、死を終えず死につづけているのは、人識による因だとするなら――
 それは。
 それは、十分に。

 存在をつづけさせられると同時、
 殺されつづけているといえないか。

 なら、
「弥栄ー?」
「え、何?」
 思考を打ち切らせたのは、他ならぬ人識の声だった。
「おまえ、寝るのって出来るわけ?」
 素直に眠気を表した――具体的に云うなら、瞼は半分閉じていて、身体の力も抜いていて、声もどこか舌足らずで――人識の問いに、は小さくかぶりを振る。
「それはないかな。今朝もずっと起きてたけど、眠くなったりしてない」
「あー、やっぱそうか」
 ちょっと残念そうにつぶやいて、人識は完全に目を閉じた。
「……ん、じゃあ、疲れたときは素直に寝ようっつーことで……今日の宿はここにすっけど。いい?」
「どーぞどーぞ」
 もとより反対する理由もない。
 それに、今日は本当に、疲れたろうと思うことでもあるし。
 例によって今朝と同じく、いや、今朝以上、がっちりとを抱きこんでしまった人識の腕を、けれど不思議と苦しいとは思わず。
 むしろ、ちょっぴり擦り寄ったりなんかしてみた、幽霊歴二日目の夜の行動だった。


 ――翌朝。
 顔に畳の跡がしっかりばっちりついてしまった誰かさんを指さして、大笑いしたのはご愛嬌。

 そして起床から数時間。
 廃品回収ゴミ出しその他すべて終え、がらんどうになった部屋のなか、は人識の手を握る。
 ……正確には、彼の手ごしに、ペンを握る。
「自動筆記させられる奴の感じが、少し判るな」
 気楽にそんなことを云ってる人識の手ごと、はペンを動かす。
 そうでもしなければ、自分の字が書けないのだから、しょうがない。
 したためているのは、数枚の書類。そして手紙。
 一通は、このアパートの仲介業者である不動産屋への解約届。
 一通は、やはりアパート関係、大家への手紙。お世話になりました。
 一通は――――
「えらく他人行儀だな」
 必然的に、手紙の内容を目に出来る人識が、三通目を見てそうつぶやく。
「家族宛なんじゃねーの?」
「苗字は同じだけど、父方の兄だから――まあ血縁だけどね、ここ何年かは逢ってない」
「ふーん……、――いわゆる後見人ってやつ?」
「そう。一応毎月仕送りはしてくれてたから。それはもういいですって云っておかないと。お金の無駄」
「なんで。口座振込みだろ、入れさせとけば? 俺が有効活用してやんよ?」
「――そしたら追い剥ぎは」
「するけどな」
「じゃ、やっぱり止める」
 会話の合間に止めていた手を再び動かしながら、は、ぽつり、人識に告げた。
「口座、廿楽の名義だし」
「……」、
 零崎人識は。笑った。
 いつものようにでなく、笑った。
 かはは、という、声もなく。
 ただ笑う、そんな小さな笑みだった。

「弥栄」
「なに?」
 笑み。
 笑み返し。

「押し倒して、い?」
「やなこった」
 どつき。
 どつき返され。

「ま、精々気張ってくれよ。俺は結局“そういうもん”だし」
「…………忘れてた」
 云われ。
 ひきつる。

「逃がさねーけど」
「壊れたら君のせいだ」
 笑い。
 むくれて。

 それでも。

「じゃ、そろそろ行くかね」
「――うん」

 最後に一度、がらんどうの部屋を振り返る。
 それから、封筒を手にした人識の背を追って、

 ――弥栄は、そこを後にした。


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受け入れてしまったようです。