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嫌いだよ。




 突然だが、もしくは、判りきったことだが。
 ――零崎人識は、殺人鬼である。

 獲物はナイフ。

「や……っ」

 夜闇に疾る軌跡。

「――だ」

 その神速をもって切り裂かれる。

「め……」

 ただ、そこに。
 通りかかった。
 それだけの。
 他に何もない。
 他の理由はない。

「や、だ」

 本当に、ただ、運が悪かったとしか――――

「やだ、だめ、だめだめだめだめだめ、だめ――――!!!!」

 ……云いようが、なく。

 ごとり。
 まだ鮮やかな紅を撒き散らして、不幸なその人――だったもの――が地面に落ちた。


「……っ」
 目を背けても、映像は見える。
 脳裏に描かれる。
 今しがたの不幸な光景ではなく、かつて、彼に刻まれた自分の肉体が。
 それよりはまだ、他者のほうがマシか――そう思うこと自体、すでに、どこかが麻痺したか壊れるかしたかもしれない。
 せり上がってくる嘔吐感を解消出来ぬまま、弥栄は目を覆おうとした両手をギリギリのところで留めて、眼前の光景を凝視した。
「――ちえ」
 転がるそれにおそれげもなく触れ、あまつさえ、手を懐に突っ込んだ人識が、少し残念そうにつぶやく。
「あんま、持ってねーな……奥さんに財布握られてんのかね」
 他人様の財布を検分しつつ、いとものんきなその発言。
 足元の凄惨と、それをなした当人の様相のギャップに、弥栄が覚えるのは眩暈――どころの騒ぎではない。
「――弥栄? どした、つわり?」
「バカ!!」
 思わず蹲りかけた矢先、やはり、普段と何も変わらぬ調子でそう問われ、弥栄は反射的にそう怒鳴っていた。
 人識が「うわ」と、口元をひきつらせる。
 どうやら、今の自分はよほどすごい顔をしてるらしい。そう、弥栄のどこか、冷静な部分が判断した。
 だがすぐさま、その部分もまた、渦巻く感情に飲み込まれる。
「なんで殺すの!? 財布欲しいならそんな必要ないじゃない!! 人識動くのすごく速いんだから、スリとか、そりゃいけないことだけど、そっちのほうがまだ――――」
「……なんでって」
 きょとん。
 まん丸くなる双眸。もともとの顔つきもあいまって、かわいらしい。
「説明したじゃねーか。俺ぁ、そういうもんだって」
「でも、楽だって云った!!」
「――だからって、零になるわけじゃねーのよ?」
「…………っ」
 弥栄が零崎人識と出逢って経過した日数は、少なくとも片手の指を余裕で越える。
 その間、一度も、それはなかった。
 ……たしかに、話は聞いた。
 あの夜自体がそのものと云ってもいいし、その翌日にも、簡単ながら説明された。
 けれど。
 けれど――だ。
 すでに自分のそれが終わった状況と、目の前で、まさに現在進行形として他者が殺されるというのは――また、かかる負荷も段違い。
 覚悟が足りないと云われれば、そうだ。それでしかない。
「でも……っ」
 否定の接続詞。
 そしてその後に、何をつづければいいのか。
 判らず口ごもる弥栄の腕を、人識が掴む。
「――――っ」
 身を強張らせた弥栄を、人識は軽く一瞥した。そして、口の端を持ち上げる。
 右頬を彩る刺青が、不吉に歪んだ。

「捕まりたくは、ねーんでな。オハナシあんなら、ちょっと離れましょうかね?」



 半ば風船のように引っ張られ、どれほどの距離を移動したのか。
 これまでの付き合いで判ったことだが、さっき弥栄が叫んだように、零崎人識という人物は、人類最速と云ってもいいくらいに動作が素早い。
 そのからくりは、弥栄には判らないし、当人も「本能みたいなもんかな」と、特に気にしたこともなさそうだった。

「で?」

 そんな速度でもって、どことも知れぬ公園へ移動した人識は、そこでようやく足を止めた。
 もう少し時間が早ければ、まだカップルなんかもいたかもしれない、そんな小さな公園に、だが、今いるのは彼らだけ。
 しん、と静まり返った空気を震わせぬ弥栄の声は、
「“で”って云われても――」
 ただ、眼前の相手にしか届かない。
 その相手、零崎人識は、「は」と肩をすくめた。
「あんだけ吠えといて、今度はだんまりか。――あのな。云いたいことがあんなら云っとかないと、フラストレーション溜まるぜ?」
「だって――!」
「――“あんなひどいことするとは思わなかった”?」
 とつ、と零れた人識のことばに、弥栄は開きかけた口を閉ざした。
「だぁな。人殺しは、ひでえよな。やっちゃいけねーことだよな」
「……判ってるなら」
「判んねーよ」
 朱に濡れたナイフは、そういえば、どこにしまったのだろう。
 とうに空いてる両手を持ち上げ、人識は、お手上げのポーズをつくる。
 どこかふざけたその様子に、弥栄が何か云うより先、
「俺は何故、こうしないと生きていけないんだろうな?」
 弥栄には答えようのない問いを、突きつけられた。

「何故、俺は人を殺すんだろう」

「楽しいからか? 否。人が嫌いだからか? 否。殺しは快楽か? 否」

 ならば何故、俺は人を殺すことを止めないのか。

「物心ついてふと気づいたら、俺の頭はなんてことなく、たとえば今日は何して遊ぼうかってレベルで人の殺し方を考えてたよ」

 自然に。
 普通に。

 ――“そう”在れかしと。

「……ビビったね。自覚するまではこの俺も、ごくごく普通のガキだったわけだし」

「人識」

「まあいいから聞けよ。俺は風来坊、おまえは幽霊。時間はあんだし、今のうちにお互いを判っとくほうがいいだろ?」

「……」

 判って、そして、どうするのか。
 紡ぎかけた問いを、弥栄はかろうじて飲み込んだ。
 けど――どうするのか。そんなことを話して。

 人殺しとかその方法とか、そういったものとはまったく無関係な世界に生きてきた弥栄に、それを告げて――
 どうしたいのか。零崎人識は。

「おかしいと思うだろ?」
「……」
「ああ遠慮すんな。俺だって思った。まだガキだった俺は、真剣に、自分が狂ったかとさえ考えた」
「……、でも、違った?」
「そう」

 最初に殺したのは、と、人識はことばを途中で止めた。
「やめた。あー、まあ、手段はさておき、結果は一撃必殺って感じだった」
 次も。
 次も。
 その次も――次も、次も、次も。
「何回目かな。ようやく気づいた。俺はそういう殺し方しかしねえ……出来ねえのな、って」
 それが何回目だったのか。
 おそらく、問えば気の遠くなりそうな回数を答えられそうだ。
「そんなに――何人も?」
「ああ」
 問おうかどうか。
 少し迷った。
「……楽しいとか、思わずに?」
「ああ」
「じゃあ何のために」
「判らねえ」

「――――」

 意味もなく。
 理由もなく。
 根拠もなく。

 何も得ず、何も失わず、それでも人を殺す。

 何のためでもなく。
 誰のためでもなく。
 ただ、生きていく過程で人を殺す。生きるために――人を殺す。

 ……思い知らされる。

 ただ、殺意。その具現がここに在る。

「ただ判るのは、俺が“そういうもん”なんだってこと。少なくとも、これを飲み込んでりゃ、下手に出口ない思考に陥らねーでは、済む」

 ただ、“そう”在れかし。

「……だから……家、出てるの?」
「ちげーよ。ああ、いや、まあ、変態な兄貴にちっとうんざりしてるというのは、本音だが」

 この相手から変態と云われるお兄さんとは、いったいどういう人なのか。
 いつかも考えようとしたそれを、やはり、いつかと同じに放棄する弥栄。
 知ったら終わりだ。そんな気がした。
 聞けば引き返せない。そんな予感がする。

 それを、

「ま、豆知識だが、零崎一賊ってなあ、“そういう”奴らが集まってつくったもんだから。それを理由に放浪してるわけじゃねーぞ」
「そういうことをお気軽に云う!?」

 零崎人識は、いともあっさり弥栄に告げて、予感を現実にしやがった。
 肩をいからせ叫ぶ弥栄を、人識は「は?」と、何を今さら的表情で一瞥してそれっきり。
 その他リアクション、なしのまま、軽く、刺青歪めて笑みを浮かべた。
「ともあれ、もうこれ以上突き進むと観念的なもんにしかならねーし、うまいとこ説明出来る自信もねーんで、弥栄ちゃんの頭が吹っ飛ばないうちに、ここらで止めておいてやるとして」
 ――もう、充分、吹っ飛んでますけどね。
 むしろ弥栄のほうこそ、どう、人識に対してリアクションしていいものか、てんで、さっぱり判らない。
 せめて、なんというかこう、もう少し――こう。
 楽しいとか。
 哀しいとか。
 嬉しいとか。
 辛いとか。
 好きとか。
 そういう感情あたり、織り交ぜてくれれば、いささかその心情を推察する余地もあろうに、どこか一線引いた他人事のようにして、彼は話すものだから。
 ――だから、

「……」

 それが少し、否、とてもいたたまれない。

 同情というより、
 哀れみというより、

 ただ。痛いと、思うのだ。

 零崎人識を、でなく、零崎人識を見る弥栄が、痛みを覚える。

 同情ではなく、
 哀れみでもなく、

 さりとて、共感するでもなく、

 どうしてこのひとは、人の社会に生まれてしまったのだろうと。
 そんな――根本的に何かをたがえている相手への、名付けられない感情の渦。

 楽しいというなら、怒れる。
 哀しいというなら、慰める。

 だけどそれは何でもないと、ただ生きるに必要なのだと、深い深い闇をたたえた双眸を、いささかも揺るがさず断言されたら。

「止めておいてやるとして」、
 もう一度、人識は繰り返した。
「さて、弥栄。判り合うために質問だ」
 むしろ陽気に両手を広げ、にっ、と、一見懐こい笑みをつくって。

「こういう相手に捕まった、今のおまえの気分はどうよ?」

 だから。
 そんな、答えにくい質問を、笑って投げかけないでほしい。
 けれども、黙秘権の行使は不可能。逃走しても意味はあるまい。
 盛大なため息ひとつついて、
「人識は自分が嫌い?」
 と、答えにはならぬことばを、むしろ問いを、投げかける。
「だから、そんなふうに、自分のこと突き放したように説明してる?」
 それから、「でも」と、相手が何か云うより先に付け加えた。
「私が嫌いなのは、殺すっていう行為だと思う。誰かが死ぬってことだと思う。――だから、私を捕まえた人識自身に思うのは、嫌いってことにはならない気がする」
「……それをする俺を?」
「……それをする人識が」
 ひどく胡乱げな彼のことばに、ようやっと、笑みを浮かべて答えられる。

「生きていてくれないと、私も生きていられない」

 そして私は生きていたい。

 それもやはり自分のため。
 死に終えないため、留まるため。
 弥栄がこのまま在るために。

 ――それは、殺人鬼よりも、よほど性質が悪い気がする。

 判っていてもなお、いつかは門を目指した心がこの世に留まりたがっていることを、他でもない、弥栄自身が知っている。
 そう思う由縁がどこにあるかも、ちゃんと、知ってはいるけれど。
 なんとなく、それを、当人に告げる気分にはならなかった。
「……出来れば、あんまり、殺したりはしないでね」
「そりゃ無理だ。ぜってー無理」
 人識の肩にしがみつきながらそう云うと、あっさり、そう返された。
 それでも弥栄は、人識にくっついたままでいた。

 ……ただそれだけの、ことだった。




「――ああ――忘れてた。さっきのおまえの質問」
「え? さっきの?」
「なんだ、もう忘れたのかよ。ほら、俺は俺が嫌いなのかってやつ」
「あ、――ああ、訊いたねそんなの」

 そうだな、と、彼は頷いた。

「俺が俺が一番嫌いだ」

 けど、と、続くことば。

「おまえを捕まえた分は、そーでもないんだな。これが」
「何、それ」

 ……その真意は、云った当人も云われた相手も、まだ知らない。きっとまだ。そしていつか。


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自覚とかナッシングでおひとつ。天才と戯言とは別の方向で、こいつらもまあなんというか。