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色のない世界




 不意に世界が色褪せた。

「――――」

 凍りつくような驚愕と、絶望よりも大きな孤独に蝕まれた。
「人識……?」
 不安と恐怖がないまぜになる。
「人、識」
 焦燥と戦慄が増大していく。

「ひとしき」

 ――声に応える者はいない。

「人識……ッ!!」

 新緑鮮やかな街のただなか、届くべき相手もいないまま、その声はむなしく消えていく。
 季節は4月の終わり。
 所は滋賀。

 太陽がさんさんと降り注ぐ、街路樹の緑も鮮やかな、街中でのことだった。



 基本的に、他人が周囲にいるとき、弥栄と人識はあまり話をしない。
 滅多なことでは姿を見られない弥栄は別として、人識は生身である。
 傍目、ひとりでいる少年が、いきなり虚空に向かって話し出したら、そりゃあ奇異な目で見られるだろう。
 殺人鬼といえども、さすがにそれは嫌だろう。ていうか嫌であってほしい。
 なので、今日も弥栄は大人しく人識の肩口に背後霊よろしくしがみついて、移動してゆく景色をのんびりと眺めていた。
 自分で動くのと違って、ペースは完全に人識任せだ。
 総ガラス張りの路面電車に乗っているような感覚だろうか、ただ流れるままの景色も、ときに予測もつかない方向へと変わる景色も、本当に見ていて飽きない。
 そうやって楽しんでることを人識も判っているのか、他人に気づかれない程度に弥栄にちょっかいかけてたりして、うん、そんな平和な日中だった。

 それが、いまや、どうだろう。

 しがみついてたはずの人識の姿はどこにもなく、何度呼ばわっても叫んでも、応える声さえ、どこからもない。
 鮮やかだった緑も生き生きとしていた人たちも少し強いと感じていたその陽射しも含め、すべてが色褪せ、ただ灰色の濃淡のみ。
 人は、色で温度をある程度把握するというのは、本当らしい。
 あんなに彩りを感じていた間はちっとも覚えなかった寒気が背中を這い上がり、弥栄はぶるりと身を震わせた。
「……人識」
 知らず零れる名前は、ひとつ。
 他に寄る辺を持たない弥栄の、たったひとつ、確たる誰か。
 零崎人識。
 殺人鬼。
「あなた、あの少年に取り憑いてるの?」
 ――そうして不意に、話しかけられた。

「え?」

 一瞬、自分のことだとは思わなかった。
 だが、とり憑くとかなんとか、そんな表現、生身の人間には使うまい。加えて、周囲にあるのはごくごく一般的な浮遊霊とか自然霊とか精霊とか、そんな方たちばっかりだ。
 以上を鑑みるならば、声の対象は弥栄しかありえまい。
「……私、ですか?」
 自然に腕を持ち上げて自分を指さしながら、弥栄はおそるおそる振り返った。
「ええ、そう。あなた」
「――――次元大介」
 と、口走りかけた己の口を、はっし、と、持ち上げていた腕の先についてる手のひらで押さえ込む。
 彼女は――某ルパンのオトモダチ様と云われればあっさり頷けそうな恰好をしているが、声はどう聴いても女性判定なので――、そんな弥栄を見て、少し不思議そうに首を傾げた。
 けれどすぐに気を取り直したらしく、ちょいちょい、と、弥栄を手招きする。
 弥栄がそれに応えて移動するのも待ちきれないとばかりに、そうして彼女は告げた。

「あなた、あの彼にとり憑いてるなら、さっさとやめて成仏したほうがいいと思うわ」

 ――――と。



 お節介なのは判ってるんだけどね。
 人気のない公園、そのさらに片隅にあるベンチに腰かけ、彼女は、そうつぶやいた。
 やはり、衆目のあるところで一見虚空に向かって話しつづけるおねーさんというのは、わりと、アレな感じらしい。
 ちらちらと横目で音々を見て通り過ぎていく通行人たちの視線には、弥栄も気づいていた。
 それだけなら、別に、こうしてついてくる義理もなかったわけなのだが――
 さきほどのセリフ。
 その意味が、どうしても気になったのだ。
「……憑いていくなって、その――それは、やっぱり、もう次へ行けなくなるからですか?」
「うん、一般的にはそれもあるけど」
 淡々と話す彼女だが、一応幽霊である弥栄を前にして、この落ち着きっぷりはどうだ。
 こういう存在を相手にするの、慣れているのだろうか。
 けれど、こうして、普通に話してくれるということは、弥栄にとっても少し嬉しい。
 人識だけかと思っていたけど、音々のような相手が他にもいるとしたらば、コミュニケーションの輪ももうちょっとは広がってくれるだろうか。
 広げてどうする、とか、云われそうだが。
「けど?」
 首を傾げて、弥栄は彼女にことばの先を促した。
「別に、それは個々人の自由なのよ。あなた、こっちに留まりすぎるデメリットは承知の上だと思うから、私がどうこう口出しするのは筋違いなんだけど」
 また、“けど”だ。
 首を傾げたままでいると、彼女は一息だけ間を入れて、ことばをつづけた。
「けど――あなたがあの少年に憑いてる理由って、殺されたからじゃないだろうし、ならどうしてかっていうのも、まあ、それこそ個人のプライバシーで……そういうのを抜きにして、ここはひとつ、云わせてもらいたいの」
「“やめたほうがいい”?」
「ええ」
「どうしてですか?」
「あなたは人間だから」
 端的なそれを、何故かひどく雄弁に感じた。

 あなたは人間だから。
 彼は人ではないから。

 傍にあるのは違う同士。

 違うから。

「……暗くて遠くて深くて先も見えない純粋に病んだ純粋な闇。業なんて見通せないような相手の傍に、器もない状態でいて、あなたが影響を受けないわけはないと思うの」
「彼を見て、そう思ったんですか?」
 彼女は頷く。
「戦慄したわ。こんな生き物がいたんだって。――正直、一度であなたを離せなかったら諦めようと思った」
「……離す?」
「そういう方法と、それを使う者も世の中にはいるの」
 さらさら説明する気のなさげな彼女のことばは、だが、弥栄の耳を右から左に通り抜けた。
 代わりに脳裏で木霊するのは、そのひとつ前に発された彼女のセリフ。
「あ――あなたが私を離したんですか!?」
 不意に覚えた強い非難の感情は、弥栄の声量を拡大させた。
 そう、怒鳴ったつもりだったが、彼女は特にダメージを受けた様子もなく、淡々と肯定の動作をみせる。
 それから、さらに弥栄が怒鳴るより先、
「でも。余計なお節介だったみたいね」
「あ、当たり前です! どうして、そんな……! 今、私、どんなか――」
「いつも友人に云われるのよ、おまえは手が早いって。ちょっと云い方考えてほしいと思わない?」
 見事にかみ合わぬ会話のあと、彼女はやはり、静かに告げた。
「見えるすべてに色というべき色がないでしょう。それが、現し身のない霊が見る“普通の”景色よ」
「――――」
 重ねて怒鳴りつけようとしていた弥栄は、それで口ごもる。
 視線だけで、周囲を見た。
 そうして、見渡す限りのすべて、色は未だによみがえらない。
 だけど、人識といるときは、肉体を持っていたときと、変わらぬものが見えていたのに。

 ――それがもう、それさえが。おかしい、と、いうことなのだろうか?

 だとしたら。
「……とっくに踏み外してるんですね」
 それでも。
「戻るの?」
「はい」
 いつか、何の気なしに云った。幽霊失格だと。
 それはどうやら、本当だったらしい。
 思っていたよりもかなりの割増っぷりで。
 それからおそらく、もう戻れないほどに。

 ――――戻れないほどに、“弥栄”は。

「……私、どうして、幽霊になったんでしょうね」

 あの夜。
 死んで。器を失って。
 嘆き、門へ向かうのが遅れた。

 そうして零崎人識と“逢った”。いや、その前にもう、逢っていた。

 呼吸器だと彼は云う。
 その感覚はいまいち判らないけれど、殺さずには生きられないという零崎人識の呼吸。少しは、その助けになっているのだろうか。嫌ではなさそうだから、少しはそう思っていいのだろうか。
 殺人は何でもないのだと彼は云った。
 意味も理由も根拠も信念も、何もなく、ただ、殺すという行為を繰り返す。
 それは、辛いわけではないが楽しいわけでもないと。むしろ、つまらないと。
 ……その、つまらない行為をやめたいと、思ったことがあるのかどうか、弥栄から問うたことはない。
 ましてや、死んでいく相手を思ったことはないのかなんて、絶対に問えることではない。

 深い闇。病み、携えて。
 細められてた昏い双眸。

 ……幻影でも。夢想でも。妄想でも。
 ただの理想でも、いっそ叶わぬ希望でも。

「私、彼に殺されたわけじゃないけど」、少し考えて云い直す。「――殺されたわけじゃない、から」
 ことばを探して口ごもる。
 眼前の女性は辛抱強く、弥栄の答えを待ってくれた。
「だから――それが未練――です」
 あんなに見苦しく逃げていった誰かではなく、遠慮会釈なく呵責なく容赦なく加減なく、躊躇いもなく怖れもなく、あの路地で誰かにそうしてたのと同じように、
「死ぬのが避けようのないことだったなら……問答無用に殺してほしかった」
 と云っても。
 自嘲気味にやんわり笑んで、
「こういう状態になったから、思い返して云ってるだけ、なんですけど。あのときは、本当に、何かに飲み込まれそうで逃げ出してた分際ですし」
 それを最後に、弥栄は口を閉ざした。
「……」
 ややあって、女性が、小さく息をつく。
 あまり表情を見せないため、というわけでもないのだろうが、目深に被った帽子を手のひらで押さえつけ、肩をすくめた。
「――あなたには何の業もなさそうなのにね。ないからこそ、かしら」
「かもしれません。……業もなにも、もう、そういう場所から外れちゃってますし」
「そうね」
 女性は頷いて、立ち上がる。
「悪いことをしたわ。――はなから、説得なんて意味のない場所にいたのね」
「…………どういう意味です」
「自分の心に訊いてみなさい」
 突き放したようなセリフに反して、語調は優しげだった。
 だからだろうか、特に反感めいた感情も抱かず、弥栄は、「それじゃ」と立ち去る彼女の背を、ただ黙って見送った。

 かっこいい人だったなあ、と、謎の女性と交わした会話の余韻に、そんなふうにひたっていられたのは、だが、せいぜい数分のこと。

 そして。
 とうにその姿が消えてから、しばらく後。
「はっ」
 効果音を声に出して、弥栄は、ぴき、と音たてる勢いで引きつった。

「……私、どーやって人識のところに戻ればいいんですか――――!?」

 声を限りに叫ぶも、時はすでに遅し。
 いや、そもそもそんな方法、あの女性が知っているかどうかも判らない。が、離したのは彼女の仕業なのだろうし、戻すことだって……いやいや、見失った今、それを頼りにするというのもいささか心もとないし――
「……っ」
 思わず彼女の去った方向へ移動しようとした身を、弥栄は、その場に留めた。
 理由はふたつ。
 ひとつめは、いわずもがな。
 そしてもうひとつは、
「……色」
 灰色だった世界へ、不意に、色が戻っていた。完全にではないけれど、淡やかに。モノクロフィルムの上に、半透明のカラーフィルムを被せたような感じ。
 呆然としたのは、ほんの数秒。
 弥栄は、それまでと段違いの勢いで、周囲を見渡した。
「――人識――!?」
 他に思いつかなかった。
 彼以外の誰も、自分にそんな影響を与え得るわけもないと、思ったから。――思っていたから。

 けれど、あの小柄な姿は、視界に映る一帯のどこにもない。

 そして求める姿のその代わり、
「……君、今、人識と云ったようだけれど……?」
「――――」
 相反して、長身痩躯にスーツをまとい、髪をオールバックに整えて眼鏡をかけた青年がひとり、弥栄を見つめてやんわりと笑んでいた。
 思わず背後を振り返る弥栄。
 だが当然、誰もいない。もともと人気も少ない場所だ、あの女性が去った今、ここにいるのは弥栄と、不意に出てきた青年だけ。
「いや、いやいやいや、君だよ君。かわいらしい幽霊さん」
 くふふ、と、含み笑いの混じった青年のことばに、弥栄は、おそるおそる視線を戻す。
 眼鏡の奥の双眸が、やわらかく細められているのが見てとれた。
「――見えるんですか」
「ああ。はっきりと。……実は、この目で見るなんていうのは初体験なのだけれどね、長生きはしてみるものだ」
 まだ二十代にしか見えない青年のことばに、少し脱力。
 張っていた気が抜けたのを見てとった青年は、笑みを絶やさぬままことばを続けた。
「もしよければ、少し話を聞かせてくれないか」
 しなやかな動作で弥栄との距離を詰めながら、そうして、彼は名乗る。

「私は零崎双識。君の云う人識が零崎人識なら、それは私にとって不肖の、かつ現在捜索中の弟に当たるんだよ」

「……」

 弥栄はしばし口を閉ざし、
「葬式?」
「双識」
 べたべたのボケに、朗らかなツッコミを頂戴した。


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かなりギリギリっぽい気がしつつも。てへ。