廿楽という少女がいた。
大学受験を間近に控え、十年近く住み慣れたアパートで、彼女は、今年の春先まで暮らしていた。
今、そのアパートの一室は、『空き部屋あり』というプレートがドアにかかっている。中は当然、すっからかん。
引っ越したのだろうか?
隣近所に問えば、応との答えが返るだろう。
もうちょっと突っ込んで訊けば、ある日突然引っ越していた、とか、別に変なこともなかったし家賃もちゃんと払ってたし、感心な子だったんだけど、とか、そんな話も聞けるだろう。
そして、誰も、彼女の引越し先を知らないことも。
学校にさえ、退学届けが郵送されただけだったと――そこまでを聞きだせるかどうかは、腕次第か。
ともあれ、
廿楽という少女がいた。
そして彼女はもういない。
「……ていうか、人識もわりとにぶいよね。それとも薄情っていうのかな」
そういえば、本人もいつだったか、自分は全然優しくない、とかなんとかほざいていたような気もするが。
次元大介なおねえさん、それから、人識の兄だという零崎双識。
彼らと出逢った、それ以前に人識とはぐれたあの日から、早数日が経っている。
季節はとうに五月に入り、新緑ますます鮮やか――なのだろう。うん。きっと。
古びた写真という形容がぴったりの、色褪せた世界を見渡しながら、弥栄はぶつぶつつぶやいていた。
霊感のあるっぽい何人かが、弥栄の漂うあたりを不審そうに眺めて過ぎる。
幽霊といえば夜中すみっこでどんよりと佇んでいる、というイメージの強い昨今、真っ昼間から道のど真ん中で仁王立ちし、腕組みをしてなにやらつぶやいているようなのがいれば、そりゃ、驚きもしよう。
ふと目が合った通りすがりさんに手を振ってみると、ぎょっとした顔して逃げられた。友好的コンタクトは難しい。
「ま、しょうがないかも」
持ち上げた手をそのまま下ろし、ちらりと背後を振り返る。
三角形のコーンや、黒と黄色の通行止め。赤いライト。
そんなものたちで華麗にドレスアップ――もとい、封鎖されたその区画は、つい数日前に殺人事件の起こったという現場だ。
……その亡霊と勘違いされても、おかしくはない。というか当然だ。
だがそれ以上に当然のこととして、ここで死んだどこかの誰かは、とうのとっくに、次へ向かって旅立っている。いるいないという以上に、怨念めいたどろどろしたものを、ここからはちっとも感じないのだ。
よほど鮮やかに。
よほど速やかに。
よほど遠慮なく容赦なく。
――行なわれたのだろう。それは。
たとえば廿楽だった誰かのように、起こした事態から逃げるよーなすかぽんたんにではなくて。
たとえば。
たとえば――
「そうであってほしい、って、希望だけど」
つぶやいて、視線を現場からひきはがす。
まだ地面に残ってる血の跡を、警察――鑑識というのだっけ?――があれこれ調べていたけれど、これ以上ここにいて、何か情報が得られるでもなさそうだ。
「に、しても」
頼りなく宙を進みながら、ぽつり、つぶやく独り言。
零崎双識と別れた数日後、ここを訪れる数日前、ふと、耳に届いたその話を思い出す。
「……京都連続殺人事件。この短期間に何人も死んでれば、そりゃ、そうなるよね」
最初に聞いた、というか、誰かと誰かの会話を漏れ聞いた時点では、二人だった。
それから、急ぎこの地を訪れたその翌日、つまり今日になって、もう何度目かになる新しい被害者の話を聞いた。そうしてうろちょろした結果、この現場に辿り着いたというわけだ。
まだ昨日の今日だからか、いろいろと真新しい話が聞けた。
今回のそれも、前の数件と同じように、鋭い刃物でやられていたとか、
死亡時刻も同じように夜中だとか、
財布がまたしても抜き取られていたとか、
犯人の手がかりが一切得られないだとか――
ことほどさように世界的有名な日本の警察力をもってしても見つけられぬ、そんな犯人が、そうそうごろごろいるわけもない。
となれば、普通なら姿の見えぬ殺人者におびえるべきところだろうが、あいにく、こちらは普通じゃない。何しろ幽霊だ。かつ、普通じゃない相手にも数人ばかり、心当たりがあるのだった。
零崎人識。
零崎双識。
――零崎一賊。人を殺すひとの集団。
確実にそのふたりと断定は出来ないけれども、あっち側あたりに属している存在がかかわっている、との予想までは捨て去れない。
そして人様の財布をとるよーな手癖はどちらかと云われると……そりゃあ、やっぱり。ねえ。
「と、なると」
やっぱり、しばらく、京都探索なんぞしてみるべき――でしょうか。
うーむ。うなる。
修学旅行でさえ来なかった観光名所へ、霊体になってから訪れるとは。そんな思いから。
まさに、事実は小説よりもぶっ飛んでいた。
しかも訪れた理由っつーのが、殺人者を探して、というのがまた笑える。とうにお空の上に行ってる両親からすれば、笑えないどころか急性貧血で卒倒しかねないことかもしれないが。
ああ。でももう死んでるから、貧血とかって関係ないといえば関係ない――
放っておけば際限なく、あらぬ方向に転がる思考。
そんなふうにして漂うものだから、いつの間にか例の現場から随分離れてしまったようだ。ここはどこ、私はだあれ、まあ後者はおいといて、そんな状態。
でも、悪くはない。どうせ今のところ、他に出来ることはなさそうだし……そう思ってまた、始めようとした思考を、けれど唐突に打ち切る。
「――――」
雑踏の向こう。
人々の向こう。
大通り。
多くの人々のなかにあって、なお、うずもれることなく。
「人識――……、じゃない……」
けれども、その姿を。その人物を。認識した瞬間、世界が色を取り戻す。
人識といたときとは比べるべくもなくとも、零崎双識に遭遇したときより遥かに強く、濃く、鮮やかに。
それは、ごくごく日本人として日本人的な顔だちをした、一般的な青年だった。
けれどもどこかが、なにかと、かけ離れている感じがした。
外見は似てない。
背丈も、色合いも、浮かべている表情さえも。
「――――」
ただ、その眼。
遠目からにも見てとれる、その双眸。
色は黒。ちゃんと覗いたら、焦げ茶とかかもしれない。いや、色はこの際どうでもいい。
その奥。奥深く。たゆたう。――――昏い。
昏い。
暗い。
……喰らい――?
「――――っ」
声を。
かけるかどうか迷って、一秒。
追いかけるかどうか。
迷いもせずに、宙をすべった。
一定の距離をおいて、青年の後をついていく。
傍から見ればかなり怪しい。というか、怪しい以外のなにものでもない。
けれども、追跡自体はそう困難なことでもなかった。青年は、周囲には目もくれず、すたこらさっさとどこかへ向かって歩いていくし、こちらはこちらで彼がどんな人ごみのなかにあろうと、発見するのは容易だったし――ついでに云うなら、追跡において障害物になるようなものもなかったし。
気づかれているのかいないのか、それがよく判らないけれど、見つかったら見つかったときである。
が、幸い、彼は一度も後方を振り返ることはしないまま、目的地に到着した。
変わらぬ歩調で門をくぐる背を見送る形で、追跡者こと誰かさんは、その手前で前進を止めた。
「――――」
見上げる。
眼前にそびえる、巨大な建物。
そして視線をすべらせ、横手の門柱を見た。
「……鹿明館大学」
威風堂々とした文字体で刻まれた名前を読んで、頷く。
「――大学生」
判りきったことを、ついでにつぶやいて。
「…………何の皮肉よ」
たぶん人識が見ていたら、「なんつー顔してんだよ」と頬を伸ばしまくってくれそうに、眉をしかめて目を寄せて、廿楽だった彼女は、しばし、門を睨みつけていたのだった。
――廿楽という少女がいた。
希望大学の所在地は京都。大学名は、鹿明館大学。
そして彼女はもういない。