実は、というほどのものでもないが、弥栄は鹿明館大学の構内を、ある程度知っている。
希望校をここに決めた際、気が早いかもしれないと思いつつ、一度だけ下見に来ていたのだ。そのときは電車とバスを経由したため、さっきの彼のように徒歩で訪れるルートに覚えはなかったのだけれど。
ともあれ、しばし校門とにらめっこをつづけていた弥栄は「うん」とひとつ頷いて、気合いを入れなおした。
思い立ったが吉日ともいう、どうせ他にすることも出来ることもない。
弥栄にとって、この世との唯一の繋がりである零崎人識を見つけるためならば、どんな些細な手がかりだって、見逃すわけにはいかないのだ。
故に。
いざゆかん、鹿明館大学潜入捜査。
目指すはさっき追跡してきた男性一名様。
そして彼はすぐ見つかった。
キャンパス内をふらふらとうろついている間に、どうやら午前の授業のひとつが終わったらしい。
たぶん次の授業まで時間が空いているのだろう、わらわらと出てくる学生さん達のなかに、やはり印象深い双眸を見つけて、弥栄は今度こそ一秒も迷わず、彼の背中を追いかけた。
追いかけて、
「…………………」
絶句した。
それは何故か。
それはこうだ。
彼は食堂へ向かった。腹を満たすつもりなのだろう、それをどうこう云うつもりは、弥栄にはない。
時間としては少々早いが、いつ食事をするかなんて個人様の自由である。
文句はない。
まったくない。
だが。――だが。
その目の前に鎮座している真っ赤な物体を、あなた、本気で完食されるおつもりなのでございましたでしょうか……!?
バイト語、もしくは間違った用法の敬語として挙げられそーな問いかけが、弥栄の頭でぐるぐるまわる。
――その真っ赤な物体の名は、キムチ。
白菜やら何やら漬け込んでつくる、韓国料理。
味は一言。
辛い。
いや、そのなかにある味わいを楽しむのがキムチであるとは思う。白いご飯と食べると食が進むし、キムチラーメンとかキムチうどんだって、最近わりとメジャーだ。
だが。
それにしても。
この大学では、キムチ“だけ”もまた、メニューのひとつなのだろうか。
真っ赤なその物体を丼に盛り、淡々と箸とお茶を準備するよーな大学生を、この場合、ふつーに大学生と判定してもいいものなのだろうか。
おそるべし、大学生。
まったくどうでもいいことに感嘆している弥栄の傍を、
「ん?」
すい、と誰かが通り過ぎていった。
あわてて横手に避け、どうせ見えてないことに気づく。ちょっとした照れくささと格闘する視界の端に、その相手の姿が見えた。
どこか朴訥な印象のある彼と比べると、実に今風の女性だ。
短い髪は、ふわふわにかわいらしくセットされ、スタイルもなかなか。今見えるのは後ろ姿だけだが、メイクとかもきっとばっちり。
その女性もやはり、少し早めの昼食なのだろうか。
慣れた様子でカウンターに向かうと、いくつかの料理が乗ったトレイを持ち、どこに座ろうかときょろきょろ。
時間が時間だ、空いてる席は山のようにある。それでもつい見渡してしまうのは、やはり人間心理――
「……ん?」
というわけでもなさそうだ。
彼女は、さきほどからとても努力してキムチを食している誰かさんの座る席を確認すると同時、すいっ、とそちらへ向かって歩き出した。
お知り合いなのだろうか。クラスメイト?
なんとなく、弥栄もそれに着いていった。
そうして彼は、彼女の接近にも気づかず、一心にキムチを食している。
その前に、とん、と、軽い音を立てて彼女のトレイが置かれた。
「――」
彼がそう驚いた表情をしなかったことに、むしろ、弥栄が驚いた。
が、驚くべきは、むしろ彼女の押しの強さだったかもしんない。
「…………」
食堂で、彼と彼女がボーイミーツガールしたその数時間後。
やっぱり背後霊よろしく彼の後ろをふわふわ憑いていきながら、弥栄は昼間の出来事を思い返していた。
彼の名前はいっくん。
本名ではなかろう。いっ・くん、なんて日本名、聞いたこともない。単に愛称なのだろうと弥栄は解釈した。
彼女の名前は巫女子。葵井・巫女子。……まあ、いっくんに比べれば日本名だ。うん。
その葵井さん、やはり食堂にやってきたのは、いっくんがお目当てだったらしい。そしてクラスメイト。だがいっくんは、彼女を覚えていなかった。
おいおい。
その後挙げられた数名のクラスメイトらしき人の名前も、覚えていないようだった。
おいおいおいおい。
五月といえば、すでに入学して一ヶ月。うろ覚えながらも記憶の片隅に引っかけていたっていーんではなかろうか。盗み聞きしているような罪悪感をちょっぴり覚えつつ思う弥栄だったが、そういうわけにもいかない事情が、どうやら彼にもあったらしい。
なんか、四月の間、彼はどこぞに旅行に行ってたようなのだ。それで、大学に来るのがその期間と同程度、遅れたとか。しかも帰国子女だとか。
……わりと活動範囲広いんですねお兄さん。
なんだか家と大学の往復しかしてなさそうな印象だったから、少し驚いた。
まあそんなことはさておき、晴れてお互いを認識したいっくんと巫女子ちゃんは、現在京都でおきてる殺人事件にさらりと触れたのち、十割方巫女子ちゃんの押しによって、ひとつの約束をした。
なんでも明日、巫女子ちゃんの友達の誕生日だから、いっくんも一緒においでよと、そーいう感じ。
巫女子ちゃんとそのお友達には別件の思惑もあるようなセリフが端々にあったが、いっくんは、そのへん、あんまり気づいてないようだった。
朴訥というより朴念仁かこの人。
別に弥栄は巫女子に何か思い入れがあるわけでもないのだが、いっくんの鈍さはどうかと思わなくもなかったりする。
まあ、だからといって、捕まえて説教する道理も、そもそれが出来るわけもないのが事実。
ともあれ弥栄はこうやって、距離を置いてふわふわと、帰宅路を行くいっくんの背を、昼と同じように追いかけているのだった。
Q:追いかけてどーする?
A:どーもできません
自問自答終了。
ついでに補足。他に出来ることがない。
本屋で雑誌を買い求めているいっくんの背中を見る弥栄の目は、切なげだった。恋する乙女のものではないが。
弥栄的に、これは、と思った第一印象を覆すつもりはさらさらないが、いっくんの生活は極々普通の大学生のようだ。昼間は普通に授業を受け、終わるとこうやって帰宅する。その道中で別におかしなことをしていたわけでもないし――
「……はあ」
もしかしたら、と。思ってはいたけれど。
どうもやっぱり、無理かもしれない。
かの殺人鬼との、なにがしかでも繋がりなんて――ごくごく普通の大学生に、期待していいことではないだろう。
数十メートル距離をおいたところで、今度は八つ橋を購入しているいっくんの姿を見つめ、弥栄は小さくため息をついた。
「はあ……」
このまま離れて諦めて、別の手がかりを探そうか。
そう考えたままに、踵を返そうとした。
……その矢先、だった。
「――え」
傍目にも判るくらい、いっくんの気配が強張った。
外面は憎たらしいくらい無表情のままだったけれど、そういう部類の――まあオーラとか気配とか――がなんとなく判るようになっている弥栄には、それが見えた。
「……」
どうしたんだろう。
見つめる弥栄の視線の先で、いっくんは、傍目は何事もないかのように、店員に八つ橋の代金を払い、店を出て、歩き出した。
その後ろを追う、弥栄
その前には、その前を行く、
「人識」
――殺人鬼の姿が、あった。
ぽつり零れた名前は、殆ど無自覚。
高速移動して飛びつこうかと沸きあがった衝動を、だが、弥栄は懸命に殺す。
見てる。
ただ――ただ見てる。
弥栄が人識の存在に気づいたというのに、人識は弥栄に気づかず、ただ、前を行く彼の背を見てる。
ねっとりと。
じっくりと。
濃く、強く、重く。
見てる。――殺意をもって、人識は彼を見ていた。
独特な色彩に染められた後ろ頭、パーカーとベスト、そしてハーフパンツに安全靴。その後ろ姿しか、弥栄からは見えない。
見えないが、見える。
そして悟る。
京都で起こっている連続殺人事件。その犯人はやはり、彼。零崎人識。
――止めなくちゃ。
湧き上がるのは、そんな思い。
もはや弥栄にとって、人識の前を行く彼は、ただの通行人ではない。いや通行人なら放っておいていいというわけでもないが、通行人に対してより強くそう思うのもまた事実。
だけど同時に、
――止めちゃだめだ。
何故か、自分のどこかがそう囁く。
零崎人識の双眸。
いっくんの双眸。
弥栄は、彼らの眼を見てる。
深く、深い、不快、深い闇。
病み、よどみ、こごり、沈み、たゆたう。
昏い、喰らい。
――――深く暗い瞳の向こう。
「……」
似てるとか。そっくりとか。
そんなことばを超えたどこかで、人識と彼は。
――――相似の彼らが出逢うのは。
――――この先に起こることがらは。
止めようのない、必然なのだと。
「――――――――……ッ!」
そしてそのとおり。
飛び出したい衝動を抑えて橋の上から覗き込む弥栄の目の前で、彼らは――予定調和のそれを、終えていた。
ああ実際、予定調和だ。
そうだとしか思えない。
そうだとしか見れない。
たとえ零崎人識の殺意が本当の本物であったとしても、
たとえ突き出されていたいっくんの指が、容赦なくその目を貫く位置にあったとしても、
「……」
立ち上がる彼らの仕草は、様子は、まるで、宿題を終えたあとのような、奇妙な倦怠感と脱力感に包まれていた。
「……」
いっくんは、きっと、人識の追跡に気づいていたんだろう。おそらく、あの八つ橋の店から。
だから、外見はまったく動揺した素振りも見せず、きっといつもそうしてるんだろう歩調で、仕草で、歩いた。
人の多い道を離れ、狙ったかのように人気のない橋の下へ――実際狙っていたんだろう。
そしてふたりは足を止め、
「……」
互いが互いを認めたとき、いったい何を思ったか、それは弥栄には判らない。
そうしてその直後展開された攻防で、何がどうなってそうなったのか、そこまで見てとれるほど、弥栄の目は夜に慣れてはいなかった。
だが今、結果として、それは終わった。
人識はいっくんを殺せなかったし、いっくんは人識に殺されなかった。
そしてもう、ふたりがそうすることはないだろう。
ただの予感。だけど確信。
どちらにしても曖昧な気持ちを抱えたまま、弥栄は、相似の彼らを橋から見下ろす。
サングラスを外したらしい人識の声が、夜の静寂を突き抜けて、弥栄のいる位置にまで届いた。
「――俺ぁ、零崎人識ってんだ」
で、あんたは誰よ。そっくりさん。
その問いに対し、いっくんが何か応えているような気もする。
する、が。
実のところ、弥栄はそんなん聞いちゃいなかった。
「……ぅぁ」
小さくうめいて、ぎゅ、と、自分の身体に腕をまわす。生身があれば、橋にもたれかかることも出来たろうが、今そんなことすりゃめり込むだけだ。
そうして己を抱いたまま、ぐーっと身を丸める。
そんなしながら頭の中をめぐるのは、久しぶりに――とてもとても久しぶりに耳にする、人識の声だった。
泣けたらきっと、泣いていた。
身が震える。
心が震える。
己は震える。
――――この声を。聞きたかった。
いまやとうに世界は鮮やか。
視線を転じればきっと、明るい街の光で目が眩む。
けれどもそんな余裕さえなく、
「……ひと、しき――」
虚空に蹲り、ただつぶやく――その名前。
なんか、ドラマとかで云ってた気がする。
離れれば離れるほど、ふたりの気持ちは強くなるとかなんとか。そんなん信じてなかったし、今もどうでもいいし、――実際、人識は、わりと屁でもなさそーだけれど。
それでも弥栄は、
「――――」
つながりであるという、それ以上に。
それ以上に――
思う。
生身でもって。
人間として。
同じ理に在る者として。
出逢いを果たしたかったなと。
そう願う、この思いに名をつけるなら。つけるなら、それは。
「――と。ちょっと待て」
「どうした?」
それ以上に。
「なぁーにぐずぐずしてんだよ、おめーは。お迎えに来てほしいならそう云えや」
それは異常に。
「……」
ほんの一秒。いや一瞬?
声の主は、たったそれだけの時間で、弥栄の真ん前に移動していた。
丸まったままの肩に、その右手が触れる。
左手は、同時に腰を引き寄せる。
異常。
とうに生身持たぬこの身へと触れる。
これを異常と云わずしてなんと云う。
……異常でいい。
そんなの、以上に。
もう、そんなの、どうでもよくなるくらいに。
彼の肩口に押し付けられていた頭を、少し動かした。
顎を乗せて、頬をすり寄せる。
やわらかい髪はくすぐったく、ちゃりちゃりと動く耳の飾りはちょっと痛い。
己を抱いていた腕は、とうに、彼へとまわしている。
「人識」
「ん」
頬を寄せ合って、吐息が互いの髪を揺らす。
「人識」
「ん」
「人識、人識……っ」
「……ん」
「――っ」
ざらり、と、耳の後ろを舌が這う。
少し前なら、そして少し後、この昂ぶりが抜けた後なら、きっと突き飛ばして抗議してるだろうその行動も、今は、ただ受け入れる。
弥栄の僅かな震えを見て、人識は、くつ、と、喉を鳴らした。
少し腕に力を入れて、ひょい、と弥栄を俵担ぎ。
「わ」
そのまま、待て、と告げた相手のもとへ――橋の下へと飛び下りた。
伝わる衝撃。それが嬉しい。
「よ、お待たせ」
そうして人識は、気安げに、待たせた相手へ手を挙げた。
待たされた相手は、どこか疲れた顔と声で、
「……あのさ」
「ん?」
「彼女、今、何か話せそう?」
「あ? 弥栄? いや無理だろ。何せ感動の再会」
「あっそう。じゃあ後ででもいいけど」
感動――といわれると首を傾げるしかない気もするが、弥栄が脱力・弛緩しているのは事実だ。
ゆるみまくった思考に、それでも、今のやりとりは引っかかった。
「……あの」
だから、懸命に、彼を視界におさめるべく身をひねる。
人識が彼と向かい合ってる以上、向こうから見えてるのは弥栄の尻くらいだ。冷静に考えると恥ずかしいぞ、この体勢。
そして、“目が合う”。
予感は確信へと変わる。
それをそのまま、ことばへと変えた。
「もしかして……見えてますか、私のこと」
「うん、まあ」
いっくんは、あっさりと頷いた。
「……」
そうして弥栄の脳裏によぎるは、おそろしい想像がひとつ。
「あ、あの。もしかして」
「もしかして?」
話が見えないらしい人識が、怪訝な声で復唱した。ついでに、頭をぐりぐりと押し付けてくる。
「いや、ちょっと、人識、腰に頭押し付けないでくすぐったい」
「えぇー。いいじゃん、久々の再会なんだしよ。俺としちゃ、もうちょっとこう、いちゃらぶしたいとこなんだぜ」
「……人目を考えてくれ」
「おまえしかいないだろ、そっくりさん」
「だからぼくの目を考えてくれ」
「やだね。むしろ見せ付けてやらぁ。ほれ、どうだ羨ましいだろ」
「羨ましくないよ。幽霊にとり憑かれて嬉しがる奴なんてきみくらいだ」
至極まっとうな本音を吐いたいっくんは、邪険に手のひらを振ると、「それで、えーと……」とつぶやいた。
「――あ。私、弥栄です。廿楽弥栄」
すっかり弥栄が板についている、元さんであった。
「ああ、ありがとう。ぼくのことは――まあ、適当に呼んでくれる?」
「欠陥製品」
「きみには云ってない」
ケッ、てな感じで云ういっくん。
「えぇと……、いっくん、とかでも?」
「なんだそのかわいげのある呼び方は。欠落とかでいいだろ、そのものなんだしよ」
ケッ、てな感じで云う零崎人識。
……君ら、何気に仲悪い?
だがしかし、弥栄としても、大学生イコール年上であるいっくんを、『くん』と呼ぶことには抵抗があったりする。
だからといって欠陥製品とか欠落とか、それは問題外である。
「じゃ、いーさんで」
「オッケイ。異論はないよ」
「大有りだ」
「なら、きみはひーちゃんでいいな?」
「冗談じゃねえぞコラ」
げし、と、いーさんの腹を蹴り、人識が毒づいた。
かなり力が入ってたらしく、いーさんは、蹴られた箇所をおさえて蹲る。
「痛い。本気で蹴ったな」
「俺が本気で蹴ってたら、そんなんじゃ済んでねーってのよ」
「だ……だいじょうぶですか?」
「弥栄ちゃんが撫でてくれたら治るかも」
「阿呆ゥ。治るか。テメ、童貞っぽい顔してセクハラスキル持ちかよ」
「もう、人識! なんでそんなんばっかり云うかな!」
があっ、と怒鳴りつつ、弥栄は人識の頭に肘を一発。
ごっ。
いい音がした。
「いて!」
「おお」拍手するいーさん。「京都を震撼させている殺人鬼の頭に肘をお見舞いするなんて、弥栄ちゃんくらいだね。きっと」
「……その殺人鬼に殺されなかったんも、おまえくらいだけどな」
ちょっぴり涙目になった人識が、そう茶化す。
それから、「かははっ」と、笑った。
「だが残念だったな。弥栄に触れんの、俺だけなんで。おまえのセクハラ作戦は成功ならずだ」
「……そうなのか?」
「そう。なんなら試してみ? スカスカだぜ」
そのやりとりに促され、弥栄は人識の腕から身を離した。
つい、と空を滑って近づいていくと、いーさんが少しだけ、目を丸くする。
「昼間もあれだったけれど――こうして正面から見ると、ああ幽霊だなって感じがするね」
「そ、そうですか?」
問おうとしたことを先回りされ、答える弥栄は少しどもりがち。
……やっぱ、気づかれてたってことらしい。それでいてあの無視っぷりだったのか。
なんて素晴らしい。
「うん。問題は、きみが生気に溢れすぎてることくらいかな」
「……あははははは」
乾いた笑いを零す弥栄を見つつ、いーさんはゆっくりと身を起こした。
「それじゃあ、失礼」
「はい」
どうぞ、と差し出した弥栄の腕に、だが、伸ばされたいーさんの手のひらは触れなかった。
「え?」
と思う暇も、声に出す暇もなく。
瞬時に弥栄の思考回路は、その手が向かう先をはじき出す。
真っ直ぐ伸ばされた、いーさんの腕。
その手、指の、延長線上にあるのは――――
胸。
「っ、きゃああぁぁぁっ!!」
いくら素通りすると判ってたって、女性としての何かが、弥栄に悲鳴をあげさせた。
がばっと両腕使って胸を抱き、上体かがめ、大慌てで後退する。
と、背後から伸びた別の腕が、高速に弥栄を抱き取った。そしてそのまま背後からの腕の主はもう片方をさらに前へ出すと、前方から来ていた手のひらを拳骨で食い止める。いや、そのまま殴り飛ばした。
「うわっ」
本当に驚いてるのかどうか怪しい声をあげて、いーさんが数歩、後ろへ退かされる。
そこへ投げられた人識の声は、とてもとても剣呑だった。
「おいこら欠陥製品さんよ。いきなり何しやがりますか? あぁ?」
「何って……見て判るだろ」、
少し痺れたらしい手のひらを振りながら、いーさん、真顔でこう云った。
「セクハラ」
「ふむ、そうかセクハラか」、
浮かべていた笑みをすっと消し、人識も真顔で頷いた。
「ときに、欠落。弥栄は俺のなんだよな」
「まあ、見てればだいたい判るよ」
「そうか。盲目じゃなくて安心したぜ。なら、今自分が何やらかしてその後どーなるかも、よおおおぉぉっく理解なさっておられますね?」
「明日友達の誕生日なんだ。出来れば目立たない位置に頼むよ」
しれっと応じたいーさんのことばに、
「友達ぃ? おまえが?」
すっげ、うさんくさげに、人識は云った。
「そこまで露骨な反応するか」
すっげ、傷ついた振りしていーさんは云った。
……繰り出されようとしていた零崎人識の攻撃は、発動する機会を逃したらしい。
どこか気の抜けた顔で、人識は何かを思いついたらしく、いーさんへ話を振ったからだ。
「なあ」
「ん?」
「友達って何なんだろうな?」
「……」
このふたりの変転っぷりについていけなくなった弥栄は、さりげなく、いーさんが一挙には近づけない位置、つまり人識の背中側に移動して彼の肩口にしがみつき、なりゆきを眺めていることに決めたのだった。
ただ、そうして観戦決め込む前に、
「――――」
ぽんぽんとリズミカルな会話を続ける殺人鬼の姿を、頭から爪先までじいっと見つめ、
「…………」
口元をほころばせて、
「人識」
「ん」
小さく小さく囁いた声に応えて頭を撫でる手を、至福の想いで受け入れた。
――――ああ。
逢いたかったよ零崎人識。生きるために殺すひと。
……やっと見つけた。帰ってこれた。
居たいと願う、この場所に。
零崎人識。殺人鬼。
応えは要らない、ただ思わせて。
――私は、ここが好きです。
――私は、あなたのことが、好きです。