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 大きな大きな日本屋敷の前に立つ、男と子供。
 門の傍でそわそわと、道路を眺めている男。
 その横で、疑問符を浮かべて並ぶ子供。

「――さて、士郎。もう一度確認。お出迎えの準備はオッケーかな?」
「おう。掃除も終わったし出前も頼んだ。ふじねえは来るの夕方だから、食べられる心配なし」
「よしよし。――にしても、遅いね。もうすぐ来るはずなんだけどな」
「それはいいんだけどさ。誰を迎えるんだよ?」

「……あれ? 話してなかったっけ?」
「ない!! ボケるには早いぞ、ジイさん!?」

「あはは、ごめんごめん」
「むう」
「えーとね、もうひとり、引き取ることにした子がいたろ? その子が今日退院して、ここに来るんだよ」
「……あ。なあ、それじゃ俺の姉ちゃんになるのか? それとも妹?」
「さあ、どっちかなあ。同じ年らしいから、双子――――は、うそくさいか。色が全然違うもんね」
「む。きりつ……オヤジだって、俺たちとぜんぜん色違うくせに」
「僕は大人だからいいんだよ」
「うー。――それで、その子今日退院したんなら、もしかしてずっと具合悪かったのか?」
「うーん、怪我は君より軽かったんだけど、とにかく意識がはっきりしなかったらしいんで、大事をとって今日まで入院ってことになったんだよね」
「ふーん……」

 会話がふと、途切れる。
 まるでそれを見計らっていたかのように、タクシーが一台、閑やかな住宅街の中を走ってきた。

 衛宮邸の前で止まったタクシーの助手席から、まずは看護婦が降りる。切嗣といくつかことばを交わして、後部座席のドアを開けた。
 窓の向こう、もじもじしてる小さな人影。
 看護婦に促されて、人影はやっと表に出た。

「……こ……こんにちはっ」

 ぴょこり、上下する色の薄い髪。
 ふわふわしてて、子供はそれをわた飴みたいだと思った。
 ほら、と、切嗣が子供を促す。

「はじめまして」

 ぶっきらぼうに、子供は云った。

「俺、士郎」
「あ。わたし、  」

 子供の差し出した右手を、その子は両手でとった。
 自分の手よりもやわらかくて、あったかなそれに、子供はちょっとどきっとした。
 そして、


 ――――その瞬間。
 爛れた世界が、目の前に出現していた。


 あかい。
 あつい。
 くろい。
 こわい。

 あかいほのおとあかいそら、くろくただれただいちとおせんされるせかい。なげきのこえはそこかしこから、えんさのこえはなおつよく。


 ――それは、子供と女の子が、ほんの少し前に潜り抜けてきた地獄。

「――――――――え」
「――――あ――――」

 莫迦みたいに。
 手を握ったまま、阿呆みたいに。
 呆然と、子供と女の子は互いを見た。


 あつかった。
 くるしかった。
 あつい、くるしい、たすけて、たすけてたすけてたすけてたすけてくるしいよ――――

 たくさんのこえを、それをはっしてただれかのよこを、まえを、■■■■はあるきつづけた。■■■■ははしりつづけた。

 だって。
 そうしなければいけないとおもった。

 こえにこたえることができない■■■■は、こたえなかったぶんだけいきのびなければうそだとおもったんだ。みずからのいのちをあきらめた■■■■は、このさきに、いきぬけてくれるだれかをみつけなければうそだとおもったんだ。さいごにみあげたそらはとおかった。さいごにみあげたそらはちかかった。もちあげたてをとってくれたおとこ。たおれそうないしきをささえてくれたうで。なきだしそうにわらってたおとこ。ちかえよとつよくのべたこえ。


 ――病院で、子供は聞いた。
 あの地区で生き延びたのは、自分だけだったのだと。
 同じ病室のほかの子供は、周囲の地区で被害を受けてしまった子だけなんだと。
 ……あの赤い空と世界には飲まれずにすんだのだと。
 ――病院で、女の子は訊かれた。
 災害の中心だった地区から外れた家のはずなのに、何故、その場にいたような重度の火傷を負っていたのか。
 答えられずに俯いたけど、自分ではちゃんと判ってた。……あの怨嗟が魂に与えた傷は、肉体への影響をそんな形で現しただけのことなんだと。

 ああ、それはちがってた。
 このおんなのこは、おなじように、ほのおのさなかをのびたこなんだ。
 ああ、だけどよかった。
 このおとこのこは、なまみだったのに、あのほのおのなかをいきぬけてくれたんだ。

 唐突な理解。
 唐突な―――得体のしれない感情。
 それが自分のものなのか、それとも相手のものなのか、そんなことも判らずに。
 子供は、女の子を見て。
 女の子は、子供を見た。


 ……やっと、逢えた


 それは、どちらのつぶやきだったか――――

「よかった。どうやら、仲良くなれそうかな?」

 タクシーと看護婦を見送っていた男が、にこにこと子供たちを振り返った。その傍らには、女の子の荷物が入った小さなかばん。
 子供がここに来たときも、同じくらいの大きさのそれを持っていた。
 だって、あの火事で何もかもなくしてしまったのだから。持ってくるものと云ったら病院でもらった寝間着とか下着とか、歯ブラシとか歯磨きとか、そんな最低限の生活用具だけ。
「……  」
「うん」
 呼びかたを確認するような子供のことばに、女の子は頷いた。
「こいつ、切嗣。俺たちのオヤジ」
 女の子の手をひいて、子供は男を指さす。
「オヤジ?」
「“お父さん”だよ。士郎は口が悪いなあ」
 文句めいたことを云いつつも、男は気分を害した様子はない。それどころか、実に楽しそうに身をかがめて女の子を覗き込んだ。
 女の子が困った顔になってるのを見て、苦笑い。
「“お父さん”が呼び難かったら、“切嗣”でいいからね。――それから――僕たちを君の家族にしてくれると嬉しいな」
「……きりつぐさん、と、しろう」
「うん」
「ん」
 こくりと頷く男と子供。
「わたし、  です。……よろしくお願いします」
 女の子は、抵抗も少なくそれを受け入れた。
 その証拠に、はにかんだ笑みを浮かべて、子供につないでいないほうの手を男に差し出す。
「うん。こちらこそよろしくね」
 触れる手。
 男の手と、女の子の手。


「――――――――っ!?」

「……ひ……ッ!?」


 子供の手。男の手。
 それぞれを、両の手に触れた女の子は、すぐさまその手を振りほどいた。
 だがその刹那。
 イメージが、子供に通された。男へ跳ね返された。

 それは、どろ。
 よどんで、ただれて、うごめく、すべてをのろう、どろ。


「       」

 声にならない悲鳴は、その場の誰のものだったか。
 それとも、全員が哭いたのか。
 判らないまま――あまりにも強いそのイメージに、子供は意識を手放してしまった。

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