これもまた、はじまりの一幕。
時間と空間に取り込まれたとある少女が、前触れもなく放り出されたあるとき、ある場所においての邂逅。
止まらない。
その衝動は、止まらない。
「―――ッ!!」
声なき悲鳴とともに、必死の形相で構えられる剣を、文字通り切り捨てた。
あのとき託されたこの剣は、の意志に比例してだろうか、とんでもない切れ味を見せている。
鋼鉄の剣をあっさりと両断し、それ以上にやわらかい人間の身体は、まるでチーズでも切ってるようだ。
「……っ、は……」
血しぶきをあげて倒れる兵士を一瞥し、再び地面を蹴った。
逃げ惑い、あるいは自暴自棄のように向かってくる残りを、次々と絶命させる。
「――――っ」
激情のままに剣を揮うなと、荒れた心に振り回されるなと、養い親は教えてくれた。
それは剣の刃を曇らせ、己の心を曇らせ、強いては自らを危地に追い込む愚行だと。
でも。
でも、それでも。
唐突に目にした光景に、そのあまりのむごたらしさに、心は真っ赤に染まってしまった――
「おとうさん……」
「おかあさんっ……おかあさぁん……」
物云わぬ、赤く染まった骸は動かない。
懸命に呼びかけるふたりのこどもの声は、届くわけもない。
だけど、小さな小さなこどもたちは、そんなことも判らず、骸にすがりつく。
もみじのような手のひらで、必死に骸の傷口をおさえて。
しがみついた身体を、もうどす黒く染まりかけている血で彩って。
「おとーさ……おかーさ……」
「ねえっ……も、だいじょぶだよ……」
――あのおねえちゃんが、こわいひとたち、やっつけてくれてる、よ……
――だから、おきてよ……
小さな小さなこどもたちの、小さな小さな声が、静まり返った一帯に響いた。
辺りは、すでに、静まり返っていた。
先ほどまで、凶行に酔っていた兵士たちは、すべて赤い汚泥に沈んでいる。
その犠牲となった一組の夫婦と、同じように。
いったい、どんなめぐりあわせが働けば、この、穏やかな生活を営んでいただろう親子に、こんな不幸がふりかかるというのだろう。
少し離れたところには、息絶えた馬と、幌が引っぺがされて荷台をむき出しにした馬車が転がっている。
おそらく、兵士たちは、この馬車を奪おうとしたのだろう。力ずくで。
……普通の民が、たとえ敵国とはいえ兵士に逆らうわけもないのに、何故、自分がそれを目にしたとき、夫婦はこときれていたのだろう。
理由は、かなしいほどに容易に想像がついた。
くたびれた鎧や、刃こぼれの見える剣。
転がったそれらは、伏した兵士たちが、おそらく脱走兵……もしくは、敗戦兵であることを容易に予想させた。
戦場の衝動、敗北の惜情そのままに、彼らは刃を夫婦へ向けた――そして、そのままだったら子供たちまでも。
あまつさえ、その場に現れたにも凶行を働こうとした彼らの昂ぶりは、著しく。
自分を守るためにも、せめて子供たちは親と同じにしないためにも、そうすべきだと思ったことはたしか。
だけど――それは、今になってやっと、頭が少し冷えたからこその理屈なのかもしれない。
「おねえちゃん……」
びくり――身体が震えた。
小さな声の呼びかけは、あきらかに、自分に対して。
背にそそがれるまなざしは、まっすぐに、自分を見つめて。
「おとうさんとおかあさん……起きないの」
「ねえ、どうして? もう、こわいひとたち、いないんでしょ?」
「もうだいじょうぶだよね? おきてもいいんだよね?」
ああ。
なんと云えばいい?
まだ、死の意味さえ知らない子供に。
どんなことばをもってすれば、もう両親が起き上がることがないと、諭してあげられるというのだろう?
絶望にも似た気持ちで、振り返り――絶句、した。
笑ってた。
小さな小さな子供たちは、赤い赤い世界のなかで、必死に懸命に笑ってた。
ひきつった口元、震える身体。
「どうして・・・」
親が死んだことはわからなくても、迫る白刃に、命の危機を覚えなかったはずはないだろうに。
目の前で繰り広げられた殺人劇を見て、心が平静に保てるような子供などいないだろうに。
それでも。
「……ぼく、泣いてない、よ。つよい子だもん」
アティのこと、守ってあげる、男の子だもん。
「わたしも……レックスが泣いてないもん、泣かないもん」
おねえちゃんだから、泣いちゃ、だめなの。
笑っていて。
私たちの大事な子。
笑っていて。
いつもどこでも。
・・・笑っていてね、大事な大事な私たちの子。
見たことも。
逢ったことも。
ないはずなのに。
フラッシュバックする、その景色。
見せたのは、何故?
手にした白い剣を眺め、こぼすのは小さなため息。
……いつか託された白い剣は、いつか得た焔と同じ色。
世界に通じる力と同じ色。
故に、意図せず回線が開いたか。
だけど、その光景が見えたのは――何故?
物云わぬ骸に近寄った。
夕陽に染まった赤い世界のなか、赤い返り血に染まった自分は、どう見えるだろう。
だけど、子供たちは、じっと、こちらを見つめて待っている。
まるで自分こそが、両親を起こしてくれるのだと云いたそうに。
「おねえちゃん……」
ごめんなさい。
首を横に振ることは、否定の意。
行為の意味を知っていたらしい子供たちは、ちょっとだけ目を見開いた。
「……お父さんと、お母さんはね……」
ぺり。
ぺりぺり。
乾きだしていた血の泉から、子供たちの手をはがす。
骸からの出血がおさまっていることに気づいた子供たちが、喜色を浮かべた。
だけど、それは。
絶望の前触れ。
「もう……起きないよ」
「え」
「どうして」
きょとん、と、まぁるく見開かれた、青玉の瞳が二組。
真っ直ぐにこちらを見上げて。
どうして?
「こわいひと、もう――」
いない、のに。
そう、つづけようとした、レックスという子供の動きが止まった。
視線はこちらを突き抜けて、その背後。
赤い汚泥に沈んだ、兵士たちの方。
身じろぎしてる気配。
「ぐ……」
うめき声。
「・・・」
しくじった。
苦い思いで振り返る。
一撃で終わらせられるよう、急所を狙ったはずなのに、どこで間違えたんだろう。
正直――人を斬るって感触は好きじゃない。
軍隊にいたころから、どうしても、とどめを刺すってことが出来なくて、よく訓練中にからかわれた。
偵察兵、という役割を振ってくれた養い親にはとても感謝して。
でも、そんな日々のなかでもやはり、命のやりとりってものはあって。
うん。
そういう世界に身をおいてたことを、あたしはちゃんと覚えてる。
そういう技術を磨いたことを、この身体は忘れてない。
だから――激昂のままに揮ったさっきの剣は、容赦もせずにこの兵士たちを絶命させた。
はず、だったのに。
あたしは、やっぱり、どこか甘い……?
自嘲は、けれど一瞬。
「あ……!?」
ふらり。
立ち上がったふたりの子供が、横をすり抜けて、身じろぎしている兵士の方へ歩いていた。
ずるずる……大人の扱う大きな剣を、ふたりがかりで引きずって。
その剣は。
さっきまで、両親の骸の横に転がっていた。
その身を切り裂いた――剣。
「ちょ……ちょっと!」
止めなきゃ。
そう思って伸ばした手は、だけど、途中で金縛りにあったように動きを止める。
声に応えて、一度だけ振り返った子供たちは、やっぱり笑っていた。
それが、ひどく不自然で。
それが、とても美しくて。
それが、とてもこわくて――
「まだ、こわいひと、のこってた」
動かなくしなきゃ。
「おとうさんとおかあさん、おきないの、このひとのせいだね」
この大きな包丁で、みんな動かなくなったよね。
そう云って、ふたりは剣を持ち上げる。
「違……ッ」
まだ、その兵士は、意識が朦朧としているのだろう。
近づく足音にさえ気づかず、痛みをこらえるために身体の姿勢を小刻みに変えて、うめき声をあげて。
その声が、少しおさまって。
身体が、仰向けになって。
そして。
兵士は、きっと見た。
驚愕に瞠目したろう、その双眸で。
赤い赤い夕焼けを背に、赤い髪を赤く染め、身体全部を赤く染め、赤く色づいた剣を掲げた小さな子供たちを。
きっと見ただろう――きっと忘れないだろう。
あたしは。
この光景を、きっとずっと、忘れることは出来ないだろう。
まるで糸の切れた人形のように、子供たちは倒れた。
自らが剣を突き立てた、最後の兵士の骸の上に。
折り重なって倒れる、いくつもの、いくつもの――人間だったものたち。
赤い夕陽が、血をより鮮やかに見せる。
真っ赤に染まった骸たち。
真っ赤に染まった子供たち。
真っ赤に染まった自分の髪と、それから返り血を浴びた服を見て――目を閉じる。
頬を濡らす涙の理由は、無数の骸にではない。
「……ごめん……」
――ごめんね――
子供たちを抱いて、はただ繰り返す。
はあ、と、か細い吐息と一緒に、零れるのはただ嗚咽。
「ごめんね……」
さきほどは胸をよぎっただけだったことばが、ひしひしと心を苛んだ。
激情に飲まれるな。
剣が曇り、心が曇る。
己をも傷つける諸刃となる。
……そのとおりだ。
普段どおりに剣を揮っていたら、討ちもらしなんてしなかった。
こんな小さな子たちに、命を奪うなんてこと、させずにすんだ。
命を命で贖う理のなんたるかも、まだ、知らないだろうに。
あたしのせいだ。
あたしが――
「…………ごめん…………」
つぶやきが、風にさらわれる。
一拍遅れて、余人の気配のなかったその場に、足音が響いてきた。
――ああ。
今度こぼした吐息は安堵。
ごく普通の衣服をまとった、おそらくは道の先にあると思われる村の住民が、やはり赤い夕陽を浴びてこちらにやってきていた。
彼らの感じるだろう驚愕を想像し、少しだけ苦笑する。
それから、自分の身の証をどうやって立てようか、考えた。
……とりあえず。名前を訊かれたら、やっぱり――