「、です」
そう名乗ったに、村長は不審な目を向けたりはしなかった。
旧王国の兵をひとりで倒した、というくだりに関しては、さすがにこんな少女が、というような視線を周囲からもらったけれど。
おそらく、ここは、本当に平和な村なんだろう。
子供を助けたことへの感謝で、すべての不審はぬぐわれてくれたらしい。
「殿ですな。感謝します」
あなたがとおりかからねば、あの子たちの命さえ潰えていたかもしれません。
頭を下げられて、はあわてる。
心をよぎるのは後悔。
「そんなこと……あたしが、もっと、早く、あそこに着いてたら……」
それは叶わないと判ってる。
元々、素直に道を歩いてとおりかかったわけではないのだ。
早い話が、ぽっと空中からわいて出た先が、血煙のあがるあの場所だったというだけ。
最初は目を疑って。
次に、兵たちが旧王国の者であると知って。
その刃の先にいるのが、武装もしてない民間人の親子であると知って。
それだけの状況を把握するために、要した時間はおそらく数十秒。
……すでに、親のほうは事切れていた。
あまりの非道に、どこか神経が切れたのだろう。どうやってあの兵たちを絶命させたか、今となっては思い出せない。
「いいえ。本当に感謝しております」
両親のことは残念ですが、子供たちに未来が残された。
そう云って、村長は薄く微笑んだ。
苦いものが混ざっているのは、その子供たちの今のありさまを、彼も知っているから。
「……ただ」、
村長は続ける。
「結果として、あなたをこの村に留め置くことになってしまったことは――」
「それは、いいんです」
ふと、壁に掛けられた時計を見上げて、はゆっくり微笑んだ。
つられたように、村長も時計を見る。
長針と短針の示す時刻を見て、ふ、とに目を戻した。
「・・・時間ですかな」
「はい」
村への仮逗留を決めて、すでに数日。
すでにそれは、の日課となっていた。
小ぢんまりした、素朴な、だけどどことなく暖かみのある木作りの家。
そっと扉を開けて、中に滑り込む。
物音は奥まで聞こえたのだろう。すぐに、ぱたぱたと小さな足音が聞こえ出した。
間をおかず、小さな子供がふたり、の目の前にやってくる。
「おかあさん」
「おかあさんっ」
ぎゅ。ぎゅうっ。
両側から抱きつかれる、心地好い重みも、にとっては万力の鎖に等しくて。
だけど、凍りつきそうになる身体を無理矢理動かして、ふたりを腕に閉じ込めた。
「ただいま」
「「おかえりなさい!」」
至極――至極。
うれしそうに、子供たちは微笑んで。
ぱた。
倒れる。
まるでそれは、ひとときネジを巻かれた人形の、動力が切れたかのように。
奥から成り行きを見ていた村の女性が、それをたしかめ、ようやく姿を現した。
「……ごめんなさいね」
謝罪は、何に対して?
「いえ」
淡く微笑って、は、子供のひとりを女性に手渡した。
さすがに、ふたりまとめて運ぶのは難しい。
幼いとはいえ、ちょっとした麦袋くらいの重さはあるのだから。
女性も、慣れた様子で子供を抱き上げる。
奥の部屋――子供たちの部屋に、ふたりを寝かせ、足音を忍ばせて廊下まで。
そしてやっと、息をつく。
やりきれない、と云いたげに、女性は、もう何度かに話して聞かせたことを、今日もまた繰り返す。
「日課だったのよ。毎日、この時間、母親が仕事を終えて帰ってくるの」
「それで、日が暮れる頃に父親が……ですね」
「そう……」
女性の視線は、の赤い髪に向いていた。
せめて髪の色が違っていたら、こんなことに付き合わなくてすんだろうに。
最初にそう告げ、困惑顔になったを見て以来は、口にしなくなったことだけど。視線は、雄弁にそれを語る。
赤い髪。
翠の目。
まだ、元に戻してない。
焦げ茶の髪と、黒い目が、本当の姿なんだけど。
いつか、今ははぐれた魔公子に施してもらった術の魔力は、未だ切れる様子を見せない。……が、この状況下で、それは逆にありがたいことかもしれなかった。
それにしても、傍から見たら、これは喜劇でしかないだろう。
まるで紙芝居のようだった夕食の後片付けをしつつ、は本日十数度目のため息をついた。
この村にやってきたときから数えたら、もう百回越してる。確実に。
父親役として選ばれた、赤銅色の髪の青年は、とっくに自宅に帰っている。
家にいるのは、また、虚ろな瞳で椅子に腰かけている、ふたりの小さな子供たち。それから。
……子供たちは認めきれていない。
父親も、母親も、あの赤く染まった場所から、もう帰ってはこないのだと。
こうして共に過ごすは、母親ではないのだと。
先ほどまでいた青年も、父親ではないのだと。
目には映っているだろう。だけど、心がそれを呑み込めないでいる。
「アティ」
呼びかけに、小さく、子供の肩が揺れた。
今のと似た、赤い髪がさらりとこぼれる。
「レックス」
もうひとりの子供が、ゆっくりと、俯かせていた頭をもたげる。
「……聞こえる?」
「おかあ……」
「違う」
幸せな夢にひたる時間は、一日にほんの少しだけ。
それ以外はすべて、閉じこもったままの彼らに、は幾度も呼びかけた。話しかけた。
それは夢だよと――現実では、ないんだよと。
夢には付き合う。そうじゃないと、この子たちは食事もしないで水も飲まないで、本当に壊れてしまう。
でも、それ以上に、現実を見てくれと願いつづける。
子供たちに、酷なことをしてると思う。
だけど、それじゃいけない、と。
外界を拒絶して、現実から目を背けて、それじゃあ生きている意味がない。
だからは、呼びかける。
「――あたしは。あなたたちのお母さんじゃない」
「……?」
「そう。」
「おかあさんは……?」
「死んだの」
「しんだ?」
しんだって、何?
「……もういなくなったの。帰ってこないの」
「どうして……?」
「いい子にしてなかった、から?」
「きらいに、なったの?」
虚ろな目で、子供たちは問う。
それでも、最初に比べれば随分マシになった方だ。
押しても退いても反応ナシ、つついたらそのまま重力に引っ張られて倒れ、床とごっつんこ。それでも声さえ出さなかったのだから。
根気よく――根気よく。
続けるしかない、この呼びかけを。
だけでは疲れるだろうと、村人も入れ替わり立ち代わりやってくる。
みんな、心配している。
そして、望んでいる。
この子供たちが、再び、外の世界に目を向けてくれることを。
また、歩き出してくれることを。
「嫌いなんかじゃないよ? ……お父さんとお母さんからの、好きって気持ちは、届かないけど」、
だからは、ことばを紡ぐのだ。
「あたしがいるから――みんながいるから」
あたしとみんなが、あなたたちを大好きだから。
「だから、戻っておいで」
両親が死んだこと。
兵士を剣で貫いたこと。
……認めなきゃいけないことは、その小さな肩にはきっと、何より重く、辛い事実。
自失していたとはいえ、人の命をこの子たちは奪った。
回復が遅いのは、そのせいもあるのだろう。精神科医ではないけど、それくらいは予想の範囲。
それでも、戻っておいで。
認めて、呑み込んで、乗り越えて。
その先にまた、歩き出せる道はきっとあるから。
子供たちを抱きしめて、ただ祈る。
たぶんそれは、子供たちへ。
たぶんそれは、自分の心へ。
あのときの自分の過ちを償えるときがもしあるというのなら、それは、この子たちの心が戻ってくるときだ。
「…………おかあさん……」
小さく、レックスがつぶやいた。
自らを抱え込んだの腕に頬を寄せ、目を閉じて。
「・・・・・・」
そんな様子を見て、気長に行くしかないか、と、苦笑する。
苦笑して――
「死んだの?」
「……」、
確りと。
を見上げる、青い双眸に。息を呑んだ。
「…………もう……逢えないの?」
「――、……うん」
すがりつく、ふたりの身体は震えていた。
だけどそれは、おそらく、あの事件以来初めて見せる、ふたりの動揺。
不意に、子供たちの重みが現実感を増す。
それはたしかに、生の証。
「……っ、う……」
まるで堰が切れたように、それこそ瞬時に、ふたりの眼に涙が浮かぶ。
またたく間に、それは、ぼたぼたと頬を濡らし、顎を伝い、滴り落ちた。
「……ふっ……うえ……っ」
「ぐ……っ、うう……っ」
戻ると同時に、記憶も甦ったんだろうか。
目を見開き、嘔吐感を覚えたらしく、まずアティが口をおさえた。
けれどすぐ、そのおさえた手を放し、まじまじと見つめる。
・・・覚えてるのか。
持ち上げた、剣の重みを。
あの、人の肉を貫いた、感触を。
・・・忘れなかったのか。
「――――ッ!」
「げ……っ、うぐ……っ」
の手を振り解き、ふたりは床にしゃがみこむ。
食事からある程度時間が経っていたせいか、こぼれるのは黄色がかった胃液ばかり。
……それでもいい。吐き出してしまえ。
あのときこぼせなかった涙も、発露できなかった感情も。
全部。
今。
「ふぐ……ッ、あっ……ああぁぁぁぁぁ…………ッ!!」
「おとう……さ……ッ、おか……さん――」
涙と、吐瀉物と。
交互に同時に、床にこぼれて。
嗚咽で空間を埋めて。
――再び静寂が戻ったときには、もう、月が中天に昇りつめていた。