疲れきって眠ったふたりを、なんとか清潔にしてベッドに寝かせて、それから床の掃除をして。
ついでに、自分がいた痕跡もたぶんこれ以上できないだろうってくらい念入りに消して。
扉を閉めて、鍵を閉めた。
見上げた夜空には、満月が浩々と輝きつづける。
「行かれるのですか」
「村長さん……皆さん……」
泣き声を聞きつけてきたのだろう、家の周囲には、村中の人間が揃っていた。
一歩進み出て問う村長に、は頷きを返す。
「後のこと、お願いします」
最初に約束したとおり、あたしのことは、話さないでください。
何も知らない見ていない。それで通してください。
そう付け加えることも忘れない。
「出来れば、あなたには留まってほしいが――」
「……出来ません」
あの子たちはもうだいじょうぶだから、あたしが、ここで出来ることは、これ以上何もないから。
だから、あたしは、もう行かなくちゃ。
きっぱり答えたを見、村人の数人から声があがる。
無責任じゃないのか、とか、あの小さな子たちをおいていくのか、とか。
「だいじょうぶです。あの子たちは、思い出しました」
それは、受け止めた証拠です。
泣きじゃくったのは、心が壊れなかった証です。
「……あの子たちは、強いです。あたしなんかより、ずっと」
「――」
淡々とつぶやいたのことばに、静寂が舞い下りる。
「それに」、
その静寂を打ち破ったのは、自身。
「今残っても、結局いつか、あたしは帰るためにここを出て行かなくちゃいけません」
それが、早いか遅いかだけの違いです。
ことばを切れば、再び静寂。
それから、声をなくした村人たちに、はゆっくり笑いかけた。
「――お母さんの幻もお父さんの幻も、もう要らないんです」
そんなモノがなくたって、あの子たちは、もう、歩いていける。
あのとき凍りついた恐怖も喪失感も、すべて吐き出して。
乗り越えるために力を貸すのは、母親の幻影なんかじゃない。確固としてそこにある、周りの村人たち。大きな大きな家族たち。
・・・そこに、幻は、要らない。
存在するはずのなかった人間のことなど、覚えておく必要はない。
・・・だから、もう。
これ以上村に留まって、あの子たちの記憶に残るより先に。
・・・行かなくちゃ、いけないんだ。
他に通る旅人もいない、静まり返った街道に、響くのは足音ひとり分。
「まーるいまーるいまんまるいー、おぼんのよーなー、つーきーがー」
まだ名も無き世界にいたころに覚えた童謡を、なんとなく口ずさみつつは歩く。
そして、道の真ん中で立ち止まった。
村人たちが始末してくれたのだろう。
伏していたたくさんの死体や、転がっていた馬車は、いまや影も形もない。
風に乗って漂ってくる、少しばかり焦げ臭い匂いは――きっと、そう離れてない場所で火葬にでもしたのだろうか。
「えーと」
歌を止めて、周囲を見渡した。
「たしかに、ここらへんから転がり出てきたはずなんだけど……」
精神集中の真似事してみたって、どっかの魔公子みたくほころびが見つけられるわけもない。
ああ、バルレルが恋しい。
奇怪な体験は多いけど、あたしは根本的に一般人なんですよ。
さめざめと泣く真似をしてみても、ちょっぴり気分が逸れるだけで、なんら解決には至らない。
大口切って出て来はしたが、さてはてこれからどうしよう。
「だからって、あの村にいるわけにもいかなかったしな……」
逃げるように出てきた罪悪感が、ないと云えばウソになる。
でも、本来なら存在するはずのない時間において、ひとところに留まって、人の記憶に残るっていうのは――やっぱりまずいと思う。
サイジェントのときにはバルレルがいてくれたけど、今度ばかりは自分だけだし。
しかも、開き直るにしても、今が何年くらいなのか確認してもない。
場所も時間も、確認するだけの気持ちの余裕が無かった、というのが事実だけれど。
「んー」
始末し忘れたのか、まだ地面に転がったままの鎧に、ふと目を向けた。
デグレア軍のものと似た、でも少し違う、旧王国の大元のそれをベースにした紋章が刻まれている。
いくら錯乱してたとはいえ、自国の人間を殺して馬車を奪おうとはしないだろう。
となると、ここは聖王国か帝国か。
「んー」
さあ、と、夜風が優しく頬をなでていく。
「……うん」
あたりに気配がないことをたしかめて、は地面に手をついた。
――心臓が脈打ってるのが判るな? それに合わせて呼吸を整えろ。
思い出せ。
あのときのこと。
――その感覚を全身に広げろ。足元にもだ。
――そうしたら、次は地面に置いた手に意識を集中させるんだ。
時間も場所も飛び越えて、サイジェントにすっ飛ばされたあの日のこと。
――大地から心臓みたいな鼓動を感じたら、今度はそっちに、さっきの要領で同調させる。それから全身に広げる。
あのときは、バルレルのサポートがあった。
今は自分だけ……その分、自信はない。
――今から云うとおりに思え。
自信はないけど、経験はある。
ついでに、まあ、サイジェントで多少の慣れもできた。
――世界はおまえの手足だ。世界はおまえの一部だ。世界はおまえの願いをかなえるおまえの一部だ。
状況打破のために思いつく手段といったら、これだけ。
だから、やってみるしかない。
――そうしたら、もう一度思え。強く念じるんだ。
・・・だいじょうぶ。
やってやれないことは、ないっ!
「跳……」
――白い陽炎――白い焔――
気合い一発。
強く、ことばにしようとしたそれは、だけど形にならなかった。
「げほげほげほげほッ」
それどころか、大きく吐き出した空気の塊が気管を圧迫し、結果として盛大に咳き込む始末。
当然、精神集中なんてお空の彼方である。
……まあ、どこかで間違ったらしく、いつもの感覚は来てなかったんだけど。
うう。
やっぱりあたし、一般人?
嬉しいやら哀しいやら。複雑。
いや、それよりだ。
「今度はなんですか今度は」
唐突に聴こえてきた声に、ここまで冷静に対処できるあたり、やはり世間一般での“一般人”的範疇からは、ちょっぴり外れてしまったのかもしれない。
――糸が、触れた――
えにしの糸が。
道と道をつなぐ糸が。
白い焔と、果てしなき蒼を掴みとる手の持ち主の。
ようやく、糸が、触れ合った――
それは。
果たして最初から、定められていたことだったのか。
それとも、この世界で廻る輪廻の輪の、外から来たという存在は、どうしても、律されることがないからか。
それは、本来の時間から見れば、遠い遠い過去の話。
だけど、今このときから見るのなら、まさにこれから訪れる未来。
歴史の改変になるのか。
未来を造ることになるのか。
けれど――ひとつだけ。誰にも判らないまま、確定となった事項がひとつ。
あのとき触れた糸のえにしが、を、そこに沿う一人と認めたのだということ。
そうして、それが決定打。
「ほら、ちゃんてばトラブルメーカー……もといトラブルホイホイだからぁ?」
かなり後日のことになるが、問い詰めに問い詰めた挙句、そう微笑んでを脱力させる女性がいるのだが、それは、が本来の時間に戻ってからのこと。
ぱっくり、口を開けた空間に、は否応なく飲み込まれた。
時間を飛び越えるときの現象なのか、色とりどりの光のなかに取り込まれ、だんだん意識が薄れていく。
このまま、なしくずしにゼラムに戻れるだろうか。
そう考えてはみるものの、可能性は限りなく低いということを、はちゃんと認識していた。
「……癖がついた、ってだけじゃ、ない。絶対、ない……!」
それは呼び声。
過去の呼び声。
世界が、白き陽炎を欲して、けれど叶うことのなかった願いを惜しんで、発した呼び声。
そのとき彼女はいなかった。
でも、そのあとがやってきた。
輪廻の外からやってきた、予定外の魂ひとつ。
「だから、ちゃんの星だけは見れないのよね。さしものメイメイさんも」
あの子が同居してたときなら、あの子を見ておぼろげなことは判ったんだけどぉ。
もう平穏に暮らせるか、と、冗談半分で云ったらそんな答えを返されて、机に突っ伏した記憶がある。
「……ちゃんは、自分の意志でここに来たって云うけど……」
だから知らない。
「もしかしたら……もしかしたら、ね。それは、あのときのあの人たちの叫びが、やっと世界の狭間を越えて届いて、辿る道をつくっていたからかもしれないわよ?」
そう、小さく小さくつぶやいたメイメイが、悪戯っぽく――少し寂しそうに笑ったことを。
まあ、とりあえず。
何はともあれ、これさえもまた、はじまりの一幕。
今となっては誰も知らない、夕陽に染まった惨劇の、ささやかなささやかな後日談――