少年が、まだ、幼い子供だった頃。
少年は、涙を、流さなかった。
――これは、昔々の話。
当事者にとってはまぎれもなく現実であるが、それを目にした少女にとっては、遥か遠い時間の向こう。
サイジェントに暮らす貴族の一人娘が、留学から戻る途中、はぐれと思われる鬼神に襲われた……その数年後のことである。
ばっ、と、鮮血が飛び散った。
「お嬢様! お止めください!! 御手が汚れてしまいます!!」
「放して! 放しなさい!!」
――――今日という今日こそ、これを殺してやるんだから……!
「…………」
ぱっくり割れた額から流れる血で、視界が赤くけぶる。
その向こう、外傷はないはずなのに、それこそ血反吐を吐くように叫ぶ女性を、少年はいたましげに見つめた。
それが、女性をさらに激昂させると判っていても。
案の定。
使用人に抑えつけられながら視線をめぐらせた女性は、少年のまなざしを見て、みるみるうちに顔を朱に染めた。
それが照れや羞恥から来ているのではないことは、誰の目にも明らか。
良家の子女である女性の思考には、今、自らの身分も抑えようとする使用人の存在も、欠片とてないに違いない。
あるのは、きっとひとつだけ。
「――殺してやるんだからあぁぁ……ッ!!」
がぁん、がぁんと。
傷の痛みより遥かに強く、その叫びが少年を抉る。
けれども、少年はそれを表に出さない。表情をつくらない。――血みどろの額をぬぐおうともせず、まるで女性を安心させたい、と、わずかな笑みで、狂乱する彼女らを見つめている。
「早く、お行きなさいッ!!」
そんな少年に、使用人が嫌悪を隠そうともせず怒鳴りつけた。
それで判る。
使用人は、けして、少年の身を案じて女性を止めているわけではない。彼女が、自らの叫びを実行したのちの醜聞、家柄にあるまじき犯罪を起こさせてはならないと、その一心で懸命になっているのだ。
――――それは少年も同じだった。
自分の命が、誰かに守られるものだなんて、少年は思ってない。
だって守られたことなんてない。
生まれ落ちたときから、母乳など与えられず。
所詮はバケモノの血をひく獣なのだと、正体も判らぬ何かの乳を与えられて生きてきた。
自分を抱いてくれるぬくもりも、向けられる笑みも知らない。
見てきたのは、ただ、真っ暗なこの四角い部屋と、申し訳程度に投げ込まれた数冊の本。
それでも、少年は年齢の割には聡明だったから、おおよそ常識といわれるたいていのことは、その本たちから手に入れた。
――――ただひとつを除いて。
心ある人がその生い立ちを知ったなら、眉を顰めるだろう。それどころか、女性を詰るに違いない。
虐待。その二文字も、少年はちゃんと知っている。
だけど、そこまで判っていても、自分へそうするこの女性が、誰かを殺してしまうなんてことをするのは嫌なのだ。
「はい」
だから、少年は頷いて、扉一つ隔てた向こうの、今いる場所よりもっと暗い闇につつまれた小部屋に移動する。――背中に、なおつづく女性の狂気を聞きながら。
……判っている。
本当に、あんなことを叫ばせたくないのなら、この奥の部屋から出て行かなければいいのだ。
降りてきた女性が、いくら優しい声で自分を呼んだって、それがすぐに狂気に変貌するものだと判ってるのなら、奥の闇から出て行かなければいいのだ。
けれども、少年はそれをすることが出来なかった。
女性がこの暗がりに下りてきて、自分を呼ぶたびに、どうしても身体は動いてこちら側の部屋に出てきてしまうのだ。
それでどうなるか判っていても、罵声と暴力に打ちのめされると知っていても――なお。身体は動き、女性を求める。
「……」
壁の下に転がる割れた花瓶に「ボクのせいで、割れちゃってごめんね」と心の中だけでつぶやいて、少年は、闇へと続く扉をくぐる。灯りなどないその部屋のなか、赤みがかった少年の目が、人にありえざる輝きでもって浮かび上がっていた。
そして、その眼が映し出していた。
少年以外誰も入れぬはずの、闇に閉ざされた小部屋に座り込む、赤い髪の少女の姿を――――
……ここはどこだ。そして、今は何年だ。
例によってというと語弊が生じるが、なんだか慣れてしまった感があるのだから、もはやそう云うしかないではないか。ともあれ、狭間の狭間からぺいっとほっぽり出された時間の迷子は、呆然とその場にへたり込んでいた。
「…………」
ちりちり。
なにやら疼く首筋を、軽く手で押さえる。
これは名残であり、そして前兆。
――そう長く、この時間とこの場所にいれるわけではないらしい。
「あーもー、泣く」
無意味だと判ってるから実行には移さないけど、ぼやくくらいなら許してくれよう。
そういえば、最短記録はものの一秒もなかった。
何ぞ海の上に出て、こりゃもうお陀仏かと思った次の瞬間、またも狭間に引っ張り込まれたのだ。助かったといえば助かったが、もはや遊ばれてるとしか思えない。
遊んでるのが誰なのか判らないのが悔しいし、そもそもこんな遊びをするような者がいるとも思えない。はた迷惑、このうえない。
……早く、あの日に帰りたいのに。
つぶやくは、元凶に対する恨み節。それから、情けなくも進めなかった己に対する深い自省。
「ま、今ぼやいてもしょうがないけど」
次こそは進めるか? ――そう自問するたび不安になるけど、こう気まぐれに放り出されては回収される今では、それもあんまり意味がない。
あのとき、他人の糸に触れた影響で安定しづらくなっているのか、それともありえぬ時間にいるという自体、存在基盤が薄いのか。おそらく両方だろうが、この波がおさまるまでは、翻弄されてみるしかないようだ。
いつものようにお守りの存在を確かめて、迷子――は、改めて、今自分のいる場所を見渡した。
真っ暗である。
しかも狭い。
おそらく、地下につくられた小部屋か何かだろう。
それだけならまだしも、なんか、壁――たぶん扉なんだろうけど暗くてよく判らない――の向こうから、女の人が叫ぶ声。……なんか、殺してやるとか云ってますよ、物騒な。
それに重ねて、女の人を止めようとしてるんだろう、もうひとり女性の声。
……だけど、変。
殺そうとしてる人、止めようとしてる人、……でも、殺されようとしてる人の声がしない。もしや、もうやられちゃったのか。いや、それなら殺すって叫びつづける理由もないはずだ。
てゆーか、こんなとこで何してるんだ。痴話げんか?
などと、自らを棚に上げて首を傾げたとき、
「――――お行きなさいッ!!」
当事者でないの肌さえ泡立たせるような嫌悪も露に、止めようとしていた声が命じた。
そして、初めて。
その声がした。
「はい」
たった一言そう答え、それまで微動だにしなかったんだろう声の主が動いた。足音、そして気配がこちらに近づく。
……扉が開いた。
差し込むだろう光をちょっと期待したが、申し訳程度の弱い光が入り込んできただけ。
そして、それだけで充分だった。
入ってきた少年の眼の色、そして、その顔面にべったりとついた、真っ赤な血を確認するだけなら。
「…………ッ!?」
「え……」
何に驚いたのか、自分でも判らなかった。
おおよそ人にはあらざる、赤燈色の双眸にか。
あまりにも小さく、痩せこけた体躯にか。
ぱっくりと割れた額の傷、そこから流れる鮮血にか。
その背後――今だに狂態を続ける女性の姿にか。
だが、おそらくは、そのすべて。
対して、少年の驚きは明確だった。
誰もいないはずの場所に、ありえない存在がいるという、そのことに対しての驚きだ。
きょとんと目を見開いて、扉をくぐった体勢のまま、その場に凍りついている。
「……おねえさん、だれですか?」
えらく間延びした問いかけに、はた、とは我に返った。
「いや、その前に手当てしようよ!?」
見れば、血はまだ固まってないし、傷口だって塞がる様子じゃない。結構深い傷らしく、自然のまま放置しといたが最後、かさぶたが出来るより先に雑菌が入り込んで膿みまくりそうだ。
身の証を立てるより先に、服のすそを破りながら立ち上がる。
清潔とは云い難いが、床にこんもりと盛り上がる、おそらくシーツだろう物体よりはマシなはずだ。
――――逆を云うなら。
この子は、こんな部屋で寝泊りをしているということか……?
そのことに気づいて、の足が一瞬鈍る。
こちらが何をしようとしているか気づいてないらしい少年は、ぽかんとこちらを見ているばかり。
空白。
ほんの一瞬の。
……その間に。
「あああああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁッ!!」
「お嬢様ッ!!」
一際高い絶叫を響かせ、使用人の手を逃れた女性が、少年の背中に踊りかかってきた。