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- 少年と迷子の事情 1-



 少年が、まだ、幼い子供だった頃。
 少年は、涙を、流さなかった。


 ――これは、昔々の話。
 当事者にとってはまぎれもなく現実であるが、それを目にした少女にとっては、遥か遠い時間の向こう。
 サイジェントに暮らす貴族の一人娘が、留学から戻る途中、はぐれと思われる鬼神に襲われた……その数年後のことである。



 ばっ、と、鮮血が飛び散った。
「お嬢様! お止めください!! 御手が汚れてしまいます!!」
「放して! 放しなさい!!」
 ――――今日という今日こそ、これを殺してやるんだから……!
「…………」
 ぱっくり割れた額から流れる血で、視界が赤くけぶる。
 その向こう、外傷はないはずなのに、それこそ血反吐を吐くように叫ぶ女性を、少年はいたましげに見つめた。
 それが、女性をさらに激昂させると判っていても。
 案の定。
 使用人に抑えつけられながら視線をめぐらせた女性は、少年のまなざしを見て、みるみるうちに顔を朱に染めた。
 それが照れや羞恥から来ているのではないことは、誰の目にも明らか。
 良家の子女である女性の思考には、今、自らの身分も抑えようとする使用人の存在も、欠片とてないに違いない。
 あるのは、きっとひとつだけ。

「――殺してやるんだからあぁぁ……ッ!!」

 がぁん、がぁんと。
 傷の痛みより遥かに強く、その叫びが少年を抉る。
 けれども、少年はそれを表に出さない。表情をつくらない。――血みどろの額をぬぐおうともせず、まるで女性を安心させたい、と、わずかな笑みで、狂乱する彼女らを見つめている。
「早く、お行きなさいッ!!」
 そんな少年に、使用人が嫌悪を隠そうともせず怒鳴りつけた。
 それで判る。
 使用人は、けして、少年の身を案じて女性を止めているわけではない。彼女が、自らの叫びを実行したのちの醜聞、家柄にあるまじき犯罪を起こさせてはならないと、その一心で懸命になっているのだ。
 ――――それは少年も同じだった。
 自分の命が、誰かに守られるものだなんて、少年は思ってない。
 だって守られたことなんてない。
 生まれ落ちたときから、母乳など与えられず。
 所詮はバケモノの血をひく獣なのだと、正体も判らぬ何かの乳を与えられて生きてきた。
 自分を抱いてくれるぬくもりも、向けられる笑みも知らない。
 見てきたのは、ただ、真っ暗なこの四角い部屋と、申し訳程度に投げ込まれた数冊の本。
 それでも、少年は年齢の割には聡明だったから、おおよそ常識といわれるたいていのことは、その本たちから手に入れた。
 ――――ただひとつを除いて。
 心ある人がその生い立ちを知ったなら、眉を顰めるだろう。それどころか、女性を詰るに違いない。
 虐待。その二文字も、少年はちゃんと知っている。
 だけど、そこまで判っていても、自分へそうするこの女性が、誰かを殺してしまうなんてことをするのは嫌なのだ。
「はい」
 だから、少年は頷いて、扉一つ隔てた向こうの、今いる場所よりもっと暗い闇につつまれた小部屋に移動する。――背中に、なおつづく女性の狂気を聞きながら。
 ……判っている。
 本当に、あんなことを叫ばせたくないのなら、この奥の部屋から出て行かなければいいのだ。
 降りてきた女性が、いくら優しい声で自分を呼んだって、それがすぐに狂気に変貌するものだと判ってるのなら、奥の闇から出て行かなければいいのだ。
 けれども、少年はそれをすることが出来なかった。
 女性がこの暗がりに下りてきて、自分を呼ぶたびに、どうしても身体は動いてこちら側の部屋に出てきてしまうのだ。
 それでどうなるか判っていても、罵声と暴力に打ちのめされると知っていても――なお。身体は動き、女性を求める。
「……」
 壁の下に転がる割れた花瓶に「ボクのせいで、割れちゃってごめんね」と心の中だけでつぶやいて、少年は、闇へと続く扉をくぐる。灯りなどないその部屋のなか、赤みがかった少年の目が、人にありえざる輝きでもって浮かび上がっていた。
 そして、その眼が映し出していた。
 少年以外誰も入れぬはずの、闇に閉ざされた小部屋に座り込む、赤い髪の少女の姿を――――



 ……ここはどこだ。そして、今は何年だ。
 例によってというと語弊が生じるが、なんだか慣れてしまった感があるのだから、もはやそう云うしかないではないか。ともあれ、狭間の狭間からぺいっとほっぽり出された時間の迷子は、呆然とその場にへたり込んでいた。
「…………」
 ちりちり。
 なにやら疼く首筋を、軽く手で押さえる。
 これは名残であり、そして前兆。
 ――そう長く、この時間とこの場所にいれるわけではないらしい。
「あーもー、泣く」
 無意味だと判ってるから実行には移さないけど、ぼやくくらいなら許してくれよう。
 そういえば、最短記録はものの一秒もなかった。
 何ぞ海の上に出て、こりゃもうお陀仏かと思った次の瞬間、またも狭間に引っ張り込まれたのだ。助かったといえば助かったが、もはや遊ばれてるとしか思えない。
 遊んでるのが誰なのか判らないのが悔しいし、そもそもこんな遊びをするような者がいるとも思えない。はた迷惑、このうえない。
 ……早く、あの日に帰りたいのに。
 つぶやくは、元凶に対する恨み節。それから、情けなくも進めなかった己に対する深い自省。
「ま、今ぼやいてもしょうがないけど」
 次こそは進めるか? ――そう自問するたび不安になるけど、こう気まぐれに放り出されては回収される今では、それもあんまり意味がない。
 あのとき、他人の糸に触れた影響で安定しづらくなっているのか、それともありえぬ時間にいるという自体、存在基盤が薄いのか。おそらく両方だろうが、この波がおさまるまでは、翻弄されてみるしかないようだ。
 いつものようにお守りの存在を確かめて、迷子――は、改めて、今自分のいる場所を見渡した。
 真っ暗である。
 しかも狭い。
 おそらく、地下につくられた小部屋か何かだろう。
 それだけならまだしも、なんか、壁――たぶん扉なんだろうけど暗くてよく判らない――の向こうから、女の人が叫ぶ声。……なんか、殺してやるとか云ってますよ、物騒な。
 それに重ねて、女の人を止めようとしてるんだろう、もうひとり女性の声。
 ……だけど、変。
 殺そうとしてる人、止めようとしてる人、……でも、殺されようとしてる人の声がしない。もしや、もうやられちゃったのか。いや、それなら殺すって叫びつづける理由もないはずだ。
 てゆーか、こんなとこで何してるんだ。痴話げんか?
 などと、自らを棚に上げて首を傾げたとき、
「――――お行きなさいッ!!」
 当事者でないの肌さえ泡立たせるような嫌悪も露に、止めようとしていた声が命じた。
 そして、初めて。
 その声がした。
「はい」
 たった一言そう答え、それまで微動だにしなかったんだろう声の主が動いた。足音、そして気配がこちらに近づく。
 ……扉が開いた。
 差し込むだろう光をちょっと期待したが、申し訳程度の弱い光が入り込んできただけ。
 そして、それだけで充分だった。
 入ってきた少年の眼の色、そして、その顔面にべったりとついた、真っ赤な血を確認するだけなら。

「…………ッ!?」
「え……」

 何に驚いたのか、自分でも判らなかった。
 おおよそ人にはあらざる、赤燈色の双眸にか。
 あまりにも小さく、痩せこけた体躯にか。
 ぱっくりと割れた額の傷、そこから流れる鮮血にか。
 その背後――今だに狂態を続ける女性の姿にか。

 だが、おそらくは、そのすべて。

 対して、少年の驚きは明確だった。
 誰もいないはずの場所に、ありえない存在がいるという、そのことに対しての驚きだ。
 きょとんと目を見開いて、扉をくぐった体勢のまま、その場に凍りついている。
「……おねえさん、だれですか?」
 えらく間延びした問いかけに、はた、とは我に返った。
「いや、その前に手当てしようよ!?」
 見れば、血はまだ固まってないし、傷口だって塞がる様子じゃない。結構深い傷らしく、自然のまま放置しといたが最後、かさぶたが出来るより先に雑菌が入り込んで膿みまくりそうだ。
 身の証を立てるより先に、服のすそを破りながら立ち上がる。
 清潔とは云い難いが、床にこんもりと盛り上がる、おそらくシーツだろう物体よりはマシなはずだ。

 ――――逆を云うなら。
 この子は、こんな部屋で寝泊りをしているということか……?

 そのことに気づいて、の足が一瞬鈍る。
 こちらが何をしようとしているか気づいてないらしい少年は、ぽかんとこちらを見ているばかり。
 空白。
 ほんの一瞬の。
 ……その間に。

「あああああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁッ!!」
「お嬢様ッ!!」

 一際高い絶叫を響かせ、使用人の手を逃れた女性が、少年の背中に踊りかかってきた。

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ちょっと、痛い話かも。