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- 少年と迷子の事情 2-



 あ。
 初めてだ。
 その手が肩に触れた瞬間、少年は思った。
 いつも、自分に何かを投げつけてばかりの手が、初めてこの身に触れてくれた。
 その手が――指が。
 ぎちり、と、音を立てて肉に食い込む瞬間さえ、だから嬉しかった。

 初めてだ。
 このひとが、ボクに触れてくれたの。
 だから、痛みなど感じなかった。
 ……ただ、そのことがとても嬉しかった。



 ――――ダァン!!

「なっ……!?」
 女性が、全体重をかけて少年を押し倒した。
 遠慮の欠片もない、力任せ。暴力の具現。
 申し訳程度の明かりのした、ひやりとした石造りの床に、赤い何かがじわりとにじみ出る。
 それが、少年の血なのだとすぐに気づいた。
 気づけばもう、こちらとて止まれない。
「やめなさい!!」
 女性を突き飛ばす。
 その反撃は予想外だったのだろう、彼女は容易にもんどりうって、背中から床に転がった。
 少年を抱き起こして――そのあまりの軽さに驚く。
 だが驚愕はすぐに捨てた。一足飛びに距離をとる。暗闇での戦いを懸念する習慣が、女性の横をすり抜けて、明かりのある向こうの部屋へと身体を運んだ。
「く、曲者!?」
 先ほどの女性よりは質素な衣服に身を包んだ女性――使用人か何かだろうか――が、飛び出してきたを見て叫んだ。
「ッ!」
 身体は動く。
 少年ひとり抱えたままでも、その使用人を気絶させること自体は難しくない。が、見れば武器も持たぬ市井の者。そんな相手に、問答無用の手段に出るのはためらわれた。
 床を蹴りかけた足を反転、奥の部屋、そして使用人からも距離をとれる位置まで自分と少年を運ぶ。
「しっかり……!」
 添えた布は、あっという間に赤く染まった。
 血止めにもなりはしないのではなかろうか、不安になりつつも、さらに服を千切ってきつく巻きつける。
「……おねえさん……?」
「しゃべらないで!」
 ぼんやりとした問いかけに、一言だけ応じる。
「な、何者です!? ここには誰も入れぬはずですよ!!」
 使用人らしき女性が、動揺も露にそう怒鳴った。
 蒼ざめた彼女に、は一喝、
「怪しい者です!!」
「な」
 あんまりといえばあんまりな答えに、それで使用人はことばをなくす。金魚のように口をパクパク。
 そこにたたみかけようと叫んだとき、
「それより、なんてことしてるんです!? こんな小さな子に、酷い怪我をさせたりして!!」
「子供なんかじゃないわ!!」
 語尾に重ねて、先ほど奥の部屋に置いてきた女性が、身を乗り出して叫んだ。
 “子”というそれに反応したのか、強い、強い否定の意。
 そして、それがさらに気持ちを昂ぶらせ――いや、狂わせたのだろう。薄明かりの下で見るその女性は、目を血走らせ、髪を振り乱し、視線はただただの腕のなかの少年だけを貫いて……絶叫する。
「そうよ! そんなのは子供じゃない! 私の子供なんかじゃない!! こんな穢れたイキモノ、私のおなかから出てきたわけがない――――――――!!」
「――――な――――」
 女性が、否定のことばを重ねるたびに。
 重なる。
 やわらかな印象を抱かせる、ふたりの乳白色の髪。
 ちょっと線の細い、双方の身体つき。性別は違えど、片方が幼いせいだろうか。似通った印象。
 ……そう。
 似てるのだ。

 ただひとつ、違うといえばその眼の色だけ。

 女性の瞳が濃い目の藍であるのに対し、の腕のなかにいる少年の瞳の色は、さきほども述べた赤燈色。

 だが。ただそれだけだ。

「おやめください、お嬢様ッ!」

 あまり叫ばれますと、お声が地上に漏れてしまいます! ――そう叫んで、使用人が女性を押さえにかかった。
 使用人の行動の理由に、はそれこそ嫌悪を覚える。

「違います、ええ違いますとも!! お嬢様はあんなモノを産んではおりません、あれはただの畜生です、当家に住み着いたただの獣なのです……!!」

 ――――なんて、ことを。

 だが。
「……あ」、
 ぷつ、と、まるで糸の切れた人形のように、女性の狂態は止まった。
 がむしゃらにふりまわしていた腕を止め、力なく使用人によりかかり、つぶやく。
「そ……そうよね。ええ、そうよね……」
 私、そうよ。まだ、子供なんていないわ。
「だって結婚もまだなのだもの、なのに子供を産めたわけがないもの……」
「ええ、ええ。そうでございます。そうでございますとも。……お嬢様は心優しいお方、獣に餌をやりに来て、あの醜さに混乱されてしまっただけなのです」
 さ、上に戻りましょう。
 こんな暗く陰気でない、お日様の光の差す場所へ。
 まるで幼児に云い聞かせるようにして、使用人は、ぐったりとしたままの女性に肩を貸して歩き出す。

「――――待ちなさいよ」

 女性の叫びに耐えられなくなったか、体力が傷で奪われたか。目を閉じて、浅い呼吸を繰り返すだけになった少年を、壁にもたれさせて。
 は、石床に足音を高く響かせて、女性たちへと歩み寄った。

 パン、

 足音が止まると同時、乾いた音が木霊した。

「何をするのです、無礼者!!」
「無礼はあんたらだ、この人でなしッ!!」
 くってかかる使用人も視界の端に在ることはあるが、何よりも憤りを感じるのは、その肩に支えられた女性。

「子供なんでしょ!? あなたの!! そんな躍起になって否定するってことは、否定しなくちゃいけない関係なんでしょ!? あなたの子供なんでしょ!? おなかいためて産んだ、あなたの子なんでしょ……!?」

 ――帰れない。
 遠い、世界の向こうの優しいひとたち。

「お母さんが子供を認めてあげなかったら、誰がこの子を認めてあげるのよ!?」

 ――おとうさん、おかあさん。
 二度と逢えない、自分を産んでくれたひとたち。

 あたしが、あたしになる礎の、ひとつ。

「私に子供なんていない!!」
「お嬢様ッ!!」

 触発。そして激昂再び。
 血走った目は、何を見てるのか。
 目の前のが映ってはいるけれど、もっと違う何かを見てる。
 恐怖と否定。狂乱と混乱。
 宿る感情は、すべてが負。

「だって、アレは人間じゃない!! 人間が人間以外を産むなんてことはないじゃない、アレは私の子なんかじゃないわ!!」
「――っ、まだ云う気……!?」
「だって!」、

 そうして女性は叫んだ。
 喉をも潰れよと、鼓膜をも破らんと。

「アレは人じゃない、アレは鬼の子なんだから―――――――!!!」

 ……女性の喉は潰れず。
 ……の鼓膜は破れず。

 ただ。
 心だけが、真っ白になった。

 乳白色の髪。
 線の細い体躯。
 赤燈色の瞳。
 “おねえさん” ――さっきの呼びかけ。

 “さん” ――そう呼びかけてくれた、同じ色彩の少年を。……知っていた。

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