あ。
初めてだ。
その手が肩に触れた瞬間、少年は思った。
いつも、自分に何かを投げつけてばかりの手が、初めてこの身に触れてくれた。
その手が――指が。
ぎちり、と、音を立てて肉に食い込む瞬間さえ、だから嬉しかった。
初めてだ。
このひとが、ボクに触れてくれたの。
だから、痛みなど感じなかった。
……ただ、そのことがとても嬉しかった。
――――ダァン!!
「なっ……!?」
女性が、全体重をかけて少年を押し倒した。
遠慮の欠片もない、力任せ。暴力の具現。
申し訳程度の明かりのした、ひやりとした石造りの床に、赤い何かがじわりとにじみ出る。
それが、少年の血なのだとすぐに気づいた。
気づけばもう、こちらとて止まれない。
「やめなさい!!」
女性を突き飛ばす。
その反撃は予想外だったのだろう、彼女は容易にもんどりうって、背中から床に転がった。
少年を抱き起こして――そのあまりの軽さに驚く。
だが驚愕はすぐに捨てた。一足飛びに距離をとる。暗闇での戦いを懸念する習慣が、女性の横をすり抜けて、明かりのある向こうの部屋へと身体を運んだ。
「く、曲者!?」
先ほどの女性よりは質素な衣服に身を包んだ女性――使用人か何かだろうか――が、飛び出してきたを見て叫んだ。
「ッ!」
身体は動く。
少年ひとり抱えたままでも、その使用人を気絶させること自体は難しくない。が、見れば武器も持たぬ市井の者。そんな相手に、問答無用の手段に出るのはためらわれた。
床を蹴りかけた足を反転、奥の部屋、そして使用人からも距離をとれる位置まで自分と少年を運ぶ。
「しっかり……!」
添えた布は、あっという間に赤く染まった。
血止めにもなりはしないのではなかろうか、不安になりつつも、さらに服を千切ってきつく巻きつける。
「……おねえさん……?」
「しゃべらないで!」
ぼんやりとした問いかけに、一言だけ応じる。
「な、何者です!? ここには誰も入れぬはずですよ!!」
使用人らしき女性が、動揺も露にそう怒鳴った。
蒼ざめた彼女に、は一喝、
「怪しい者です!!」
「な」
あんまりといえばあんまりな答えに、それで使用人はことばをなくす。金魚のように口をパクパク。
そこにたたみかけようと叫んだとき、
「それより、なんてことしてるんです!? こんな小さな子に、酷い怪我をさせたりして!!」
「子供なんかじゃないわ!!」
語尾に重ねて、先ほど奥の部屋に置いてきた女性が、身を乗り出して叫んだ。
“子”というそれに反応したのか、強い、強い否定の意。
そして、それがさらに気持ちを昂ぶらせ――いや、狂わせたのだろう。薄明かりの下で見るその女性は、目を血走らせ、髪を振り乱し、視線はただただの腕のなかの少年だけを貫いて……絶叫する。
「そうよ! そんなのは子供じゃない! 私の子供なんかじゃない!! こんな穢れたイキモノ、私のおなかから出てきたわけがない――――――――!!」
「――――な――――」
女性が、否定のことばを重ねるたびに。
重なる。
やわらかな印象を抱かせる、ふたりの乳白色の髪。
ちょっと線の細い、双方の身体つき。性別は違えど、片方が幼いせいだろうか。似通った印象。
……そう。
似てるのだ。
ただひとつ、違うといえばその眼の色だけ。
女性の瞳が濃い目の藍であるのに対し、の腕のなかにいる少年の瞳の色は、さきほども述べた赤燈色。
だが。ただそれだけだ。
「おやめください、お嬢様ッ!」
あまり叫ばれますと、お声が地上に漏れてしまいます! ――そう叫んで、使用人が女性を押さえにかかった。
使用人の行動の理由に、はそれこそ嫌悪を覚える。
「違います、ええ違いますとも!! お嬢様はあんなモノを産んではおりません、あれはただの畜生です、当家に住み着いたただの獣なのです……!!」
――――なんて、ことを。
だが。
「……あ」、
ぷつ、と、まるで糸の切れた人形のように、女性の狂態は止まった。
がむしゃらにふりまわしていた腕を止め、力なく使用人によりかかり、つぶやく。
「そ……そうよね。ええ、そうよね……」
私、そうよ。まだ、子供なんていないわ。
「だって結婚もまだなのだもの、なのに子供を産めたわけがないもの……」
「ええ、ええ。そうでございます。そうでございますとも。……お嬢様は心優しいお方、獣に餌をやりに来て、あの醜さに混乱されてしまっただけなのです」
さ、上に戻りましょう。
こんな暗く陰気でない、お日様の光の差す場所へ。
まるで幼児に云い聞かせるようにして、使用人は、ぐったりとしたままの女性に肩を貸して歩き出す。
「――――待ちなさいよ」
女性の叫びに耐えられなくなったか、体力が傷で奪われたか。目を閉じて、浅い呼吸を繰り返すだけになった少年を、壁にもたれさせて。
は、石床に足音を高く響かせて、女性たちへと歩み寄った。
パン、
足音が止まると同時、乾いた音が木霊した。
「何をするのです、無礼者!!」
「無礼はあんたらだ、この人でなしッ!!」
くってかかる使用人も視界の端に在ることはあるが、何よりも憤りを感じるのは、その肩に支えられた女性。
「子供なんでしょ!? あなたの!! そんな躍起になって否定するってことは、否定しなくちゃいけない関係なんでしょ!? あなたの子供なんでしょ!? おなかいためて産んだ、あなたの子なんでしょ……!?」
――帰れない。
遠い、世界の向こうの優しいひとたち。
「お母さんが子供を認めてあげなかったら、誰がこの子を認めてあげるのよ!?」
――おとうさん、おかあさん。
二度と逢えない、自分を産んでくれたひとたち。
あたしが、あたしになる礎の、ひとつ。
「私に子供なんていない!!」
「お嬢様ッ!!」
触発。そして激昂再び。
血走った目は、何を見てるのか。
目の前のが映ってはいるけれど、もっと違う何かを見てる。
恐怖と否定。狂乱と混乱。
宿る感情は、すべてが負。
「だって、アレは人間じゃない!! 人間が人間以外を産むなんてことはないじゃない、アレは私の子なんかじゃないわ!!」
「――っ、まだ云う気……!?」
「だって!」、
そうして女性は叫んだ。
喉をも潰れよと、鼓膜をも破らんと。
「アレは人じゃない、アレは鬼の子なんだから―――――――!!!」
……女性の喉は潰れず。
……の鼓膜は破れず。
ただ。
心だけが、真っ白になった。
乳白色の髪。
線の細い体躯。
赤燈色の瞳。
“おねえさん” ――さっきの呼びかけ。
“さん” ――そう呼びかけてくれた、同じ色彩の少年を。……知っていた。