はて、それから自分はどうしたんだろう?
ごちゃごちゃとした北スラムの一角、バノッサと共同で使っているねぐらでカノンは考える。
まだ朝も早く、空はようやっと白みだしたばかり。
半分割れた窓から見える、薄紫の空をぼうっと眺めて、カノンは、今朝見たばかりの夢を思い返した。――思い出した。
「……どうして、忘れてたんだろう?」
おかあさんのこと。
おねえさんのこと。
――いや。
「どうして、思い出さなかったんだろう?」
バノッサに出逢ってから今まで、今まで一度たりとて浮かばなかった、彼女たちのこと。
うん、そうだ。
たしかに自分は、あの家で……地下室で育てられた。
真っ黒な室内、淀んだ空気、おかあさんの狂乱、……覚えている。思い出した。
それで――そう。
あのおねえさんが、いきなり出てきて……あとは、夢のとおり。
「びっくりしたなあ……あのときは」
自分だけだったはずの暗闇に、そのなかでさえ目立つ赤と翠が降臨したのだから。
くすくす、ひとしきり笑ったカノンは、だがその終わりに少々の惜情をこめて息をついた。
――もうちょっと、夢の先を見たかった。
思い出したばかりのあの光景を、もう一度、自らの目の前に見たかったから。
「……“カノン”って名前は」
忘れていいんですって云ったあと、おねえさんがどこかに消えちゃって。
そのあと、あわただしくあの家を出て行こうとした自分に、おかあさんがこう云ったときの光景を。
「もし子供を産んだら……男の子でも女の子でも、この名前にしようって決めていたの……」
ああ。それじゃ、ボクは“カノン”になっていいんですね。
おかあさんは決してカノンを見なかったけれど、そのあとは何も云わなかったけれど。
たったひとつのそのことばが、何よりも強く、カノンに力を与えたのだ。
あ、でも。
別に今はもう、見なくても平気かな?
少し離れた寝床で眠る、昨夜遅くまで賭け事やってきたらしくて、起きる様子もない誰かさんをちらっと見。
カノンは、もう一度、くすくすと笑った。
「早く起きてくださいねー、バノッサさん」
今日はじっくり、ボクの思い出話に付き合ってもらいますから。
「びっくりしますよね。びっくりしてくださいね。おねえさんは、あのおねえさんだったんですよ?」
なんでかそれこそ判らないけど、閃いちゃったんですよ。
まるで、頭にかかってた霞があっという間に消えたみたいに。
だから、話が終わったらゼラムに行きましょうね。
それで、おねえさんに逢いましょうね。
あのときも、二年前も。
お礼さえ云わせずに行っちゃった、赤い髪と翠の瞳のお姉さんに。
盛大な文句と、目一杯のありがとうを伝えに――
その、おおよそ十時間後。
目的の誰かさんが、幻獣界の女王様の手によって素っ頓狂な事態に巻き込まれるのであるが。
そんなこと、遠き西の地の彼らには、知ったこっちゃなかったのである。
――それさえも、閑話。
「あーもう、ここどこよ――――――――!!」
ていうかどっかに出してくれってのよ――――!!
むしろ自分に云い聞かせてるようなものだったんじゃないか、あれ。
そう自嘲した直後、周囲を見渡して愕然と。界の狭間で絶叫する少女の声は、いずこにも届くことはなく。
……今だ、迷子は迷子のまま、時間の狭間を彷徨うばかり。
白い焔と果てしなき蒼の邂逅は、まだ、ほんの少し先のことだった。