……気がつくと、少年は、おねえさんの腕のなかにいた。
「え……?」
「あ。気がついた?」
さわさわと揺れる、頭の上の緑色の何かの間から、これまで見たこともないあたたかな光が舞い下りていた。それで影になってしまったおねえさんの表情は、だけどちゃんと笑っていると判る。
「おか「しー……」
ごめんね、ちょっと我慢して。
そう云ったあと、おねえさんは、ちょっと離れたところを指さした。
「だいじょうぶ。ちゃんと生きてる」
「……あ」
指を追って視線だけ動かすと、何故だか土だらけで座り込んでる、女性と使用人の姿があった。
そっか。
だいじょうぶだったんだ。……よかった。
ちらり、真っ赤に染まった視界の向こうで、凶暴な記憶が甦る。けど、少年の心はそのとき安堵一色に染まって、翻ろうとしたそれをすぐさま封じ込めてしまった。
それは、心の自己防衛かもしれない。
視界が赤く染まる感覚を思い出せば、またそれに支配されるかもしれないから。……飲み込まれてしまうかもしれないから。
おねえさんは、何も云わない。
その代わりに、じ、と、女性を見て云った。
「……お互いが傷つくばかりです」
「…………」
女性は頷く。
何かを話してた途中だったのだろうか。少年には、どうしておねえさんがそういうことを云うのか、よく判らなかった。
ただ、話の邪魔をしてはいけないんだな、と、なんとなく思った。
「解放してあげてください」
おねえさんは、云った。
「あなたを襲ったという、召喚獣の記憶から。そのイメージから。この子を解放してあげてください。それが出来いのなら、せめて、この家から解放してあげてください」
「…………っ」
女性は、ぽろぽろと涙を零している。
いつもみたいな、血を流さんとばかりの悲痛な様子はなく、ただ溢れるから溢れさせてるんだと思わせる透明な雫が、幾つも頬を伝っていた。
おねえさんが泣かせてるんじゃない。
あのひとは、泣きたいから泣いてるんだ。
そう思ったけど――やっぱり、がまんできなかった。
「……泣かないで」
おかあさん。
そう呼びかけることは、寸前で止めることが出来たけれど。
駆け寄ってきた少年を誘うように、は女性ふたりを抱えて階段を駆け上がった。途中で我を取り戻した使用人が手伝ってくれなければ、地上に出るのはもっと時間がかかっていたろう。
そんなこちらを追いかけてきた少年が、地上に出たとたん、ぱたりと倒れ伏したのと同時、たちの足元ですさまじい地響きが轟いた。
……間一髪。
安堵するには早いのが判っていたが、それでも一安心。
それから、精根尽き果てた使用人を問い詰めて女性と少年の関係を明かさせた。どんな手段を使ったかは、まあ、某詩人悪魔を参考にさせてもらったとだけ云っておこう。
判明したのは、以下のとおり。
女性と少年は、母子であること。
少年の父は、はぐれ召喚獣だろうということ。
それというのも外国に留学していた女性が帰還する折の一行は、はぐれ召喚獣に襲われて、なんとか助かった数名は無事保護されたが、その数ヵ月後に女性の妊娠が判明したということ。
女性は箱入り娘で、男性と関係をもったことはなかったということ。
襲われた当時の話を聞こうとすると、半狂乱になって誰も寄せ付けなかったこと。
堕胎の話も持ち上がったが、本来十月十日かかる妊娠期がわずか三ヶ月で終わってしまい、母体の安全のためにも出産させなければならなくなってしまったということ……
「………………」
頭を抱えた。それ以外、どういうリアクションをとればいいのか判らなかった。
はぐれ召喚獣というものの悲劇を、とて多少は知っているつもりだった。が、今回のこれはさすがにあんまりだ。女性にとっても、少年にとっても。
――ただ。
リアクションのとりようがなくても、これだけは判った。
これ以上、この母子を一緒にいさせてはならないのだと。
女性を起こして、気分が落ち着いているのを確認すると、は少年を家から出すことを提案した。
経緯を知っていることを話して、使用人は脅されただけだから叱ったりしないように云って。
……そのとき、少年が目を覚ましたのだった。
「この子を認めようとして、認めきれないで、でも認めようとして……そんなループを繰り返していたんじゃ、誰も救われません」
おねえさんは、ゆっくりと云った。
女性を諭すようなそれは、さっき少年が心を痛めた、怒ったりしてるときのそれではない。
「カノンって名前をつけたのも、ちゃんと自分の子だって思ってたからですよね?」
「……違うわ。いくらケダモノだって、名前をつけなきゃ呼べないじゃない。それだけよ」
「家に置いてたのも、本当は捨てきれなかったせいですよね?」
「――――そんなことないわ。バケモノを街に放すのが、忍びなかっただけよ」
「……なら、そういうことでもいいです」
うん。そういうことでいいんです。
だって、ボクはそのひとが傍にいるって判ってたから、あそこでがんばれてたんです。
小さくため息をついて、おねえさんは続けた。
「この子がいるかぎり、あなたに心の平穏はこない。この子も、ここにいる限り、こうやってお日様を知ることがない」
ああ。
これが、お日様の光なんだ。
少年がそうやって、こぼれる光に目を細めたとき。
おねえさんは、云った。
「――――忘れることで幸せになるのなら、そうするべきです」
痛みしかない記憶にしがみついても、果てしない穴に落ちていくだけ。
「……忘れていいんです。消えるわけじゃないんですから」
少年の髪を優しく撫でて、
「いつか思い出して、受け入れられると思ったら……そのときからやり直すことだって、きっと出来るんですから」
――忘却は罪にはならないのだと。
鬼神の子を宿された記憶を消せぬ女性と。
母と思う故に思慕と隷従を混在させていた少年に。
おねえさんは、云った。
云って欲しくて、云って欲しくて。
だけど誰も云わなかったそのことばを、おねえさんが云ってくれた。
この子のことを、忘れていいよ。
お母さんのことを、忘れていいよ。
個人として生きて。
自分として生きて。
いつか、記憶の引き出しに、埃被って埋もれてるだろうそれを、掘り起こすだけの何かが心に生まれたら。
そのときに、忘れてたものを取り戻していいんだよ、って。
赤い髪と翠の眼のおねえさんが、そう、云ってくれたのだ――――