さすがに人ひとり抱えて山を下るのは時間がかかるものだ。家に帰りついたころには、とっくの昔に空は赤く染まっていた。
今日の分の仕事は終わったのか、双子の兄のロッカはすでに帰宅している。
そうしてアメルも、今日は休養日だったので珍しく家にいる。
彼らの祖父ともいえるアグラバインだけは、まだ山のほうで木を切っているのだろう。
「おい、アメル」
「あ、おかえりなさいリューグ! って……」
元気よく振り返ったアメルが、きょとんとした顔で、リューグの腕にしがみついた少女を見た。
平地に辿り着いた時点で抱えていくのはやめたのだが、今度は彼女が腕にしがみついて離れようとしなかったのだ。
周りを行きかう見知らぬ人々に、不安を覚えたのかもしれない。
「えっと……?」
「どうしたんだ?」
説明を求めてリューグを見上げてくるアメルの横の扉から、ひょっこりとロッカが顔を出す。
やはりアメルと同じに、リューグとその横の少女を見比べて怪訝な顔。
「リューグ、この子は……?」
「その子どうしたの?」
それにしても……と、リューグはいつも、ここでアメルを見るたびに、思う。
目を丸くして、連れの少女を眺めるアメルを見ていると、聖女だとあがめられているのがまるで嘘のような、普通の少女だ。
ひとりでも多くの人を助けたいという、彼女の気持ちを否定する気はないけれど、彼女を神輿扱いしている村の人間には腹が立つ。
――が、今はそのような話をしている場合ではない。
とりあえずロッカとアメルを少女に紹介し、それからふたりに手短にことの次第を話して聞かせると、ロッカが実に複雑な顔でリューグを見、アメルは少女を心配そうに見つめる。
「……で、だ。アメルの能力なら、もしかしたら記憶の手がかりになるもんが見れやしねぇかと思ってさ」
「う……うん、一応やってみる」
何が始まるのかと、緊張した顔の少女に、アメルは優しく微笑みかける。
「大丈夫、気を楽にしてくださいね」
「あ、はい」
「ゆっくり息を吸って……吐いて。うん、リラックスしましょう」
いつの間にかロッカも彼女の後ろにまわり、背中をさすってやっている。
「怪我もついでに治しちゃいましょうね」
茶目っ気たっぷりにウインクしてみせるアメルに、少女もようやく、身体の力を抜くことが出来たようだった。
アメルはそのまま彼女の手をとると、すっと目を閉じる。つられて少女も目を閉じた。
ふわ……
優しい光が、アメルの身体を覆う。
かすかな懐かしさも覚えさせる、慈愛に溢れた輝き。
それをぼうっと眺めていた双子だったが、思い出したように、ロッカはリューグに声をかける。
アメルの邪魔をしては難なので、小声で。
「それにしても、おまえ、山に入ってたんだろう? あの子はそんなところに一人でいたのか?」
「あぁ、まあな」
「やっぱり、アメルの力を頼ってきたのかな?」
「それを聞こうとしたら、驚いて落っこちてったんだよ……」
まさかこんな事態になるとは思っていなかった、と云いたげな、リューグの重い口調に、ロッカは思わず苦笑する。
「…………さん?」
そこにアメルの声が飛び込んで、双子は同時に視線を動かした。
光の残滓をまといつかせたまま、戸惑うような顔で少女を見ているアメルと、リューグの拾ってきた少女。
「どうだった?」
リューグの問いに、アメルは首を小さく振る――横に。
「……って名前が見えただけ。それ以外は、何も……」
「そうか……」
つぶやいて、リューグは少女を見た――見て、ぎょっとする。
さきほどまでの心ここにあらずといった様子は何処へやら、少女はなにやら、とても生き生きとした顔だったから。
「そう! そうだよっ、あたしの名前! だっ!」
喜び一色に染められた、声。
その声にふさわしく晴れやかな笑みで、少女は彼らに礼を云った。
「ありがとうアメルさん! リューグさんも、えぇっとロッカさんも!」
「でも、名前だけ思い出してもどうしようも」
ごすっ
さりげなく、リューグを槍の柄でどついておいて、ロッカが少女――の前に回りこみ、視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「他にも何か、思い出せたことはありませんか?」
「えぇっと……」
しばし沈黙し、少女は答えた。
なーんにも。
……そうですか。
とはいえ、名前しか思い出せなかった割に、の顔に悲壮感はない。
なぜかと思って再び問えば、
「だって名前があるってことは、それをつけてくれた人がいるってこと! そしたらその人に逢えれば、あたしのことがわかるかもしれないでしょう?」
それは、本当に雲をつかむような話ではある。
もしもここにルヴァイドやイオスがいたら、沈痛な顔で、「無理だ」と告げるだろう――
彼女の生まれ故郷はここリィンバウムと呼ばれる世界でなく、遥か遠き異世界なのだから。
けれど、ここにいるのはリューグにロッカ、アメルだけだった。
少女のたくましい考えに引き込まれ、笑って頷く彼らに向けて、
「それに」
と、は付け加える。
「あたしは、。他のなんでもないの。」
むしろ自分を安心させるように、胸に手を当て、繰り返す。
「名前がわかるのとわからないのはずいぶん違うよ。自分が自分でいるって信じられるもん」
そしてまた、にっこりと笑う。
てらいのないその笑みに、双子とアメルもまた、笑みを返すことで応じたのだった。
そうこうしているうちにアグラバインも帰宅。
是非にと進められ、は結局彼らの家で、夕飯と一宿を世話になることになった。
ちなみに、手伝いを申し出たところ、ではと野菜サラダを任せられ、見事な包丁さばきで一同をうならせ、料理人の娘かと議論が持ち上がったのはまた、別の話だ。
風呂も借り、山道を転げ落ちた際にまとわりついた汚れを、丁寧に洗ってはいすっきり。
渡された夜着を身にまとい、はアメルの部屋にいた。
「……一緒に寝るんスか?」
ベッドはひとつ。
何処を見てもひとつ。
そしてそのベッドには、いかにも添い寝しろと云いたげに、マクラがふたつ。
それから、あどけない笑顔で「ええ」と微笑んでくれる聖女様。
まるでトリプルベッドかと見まごうくらい、大きなベッドであったことに安堵し、次いで、
「小さいころは、3人でこれに一緒に寝てたんだけど、さすがに大きくなったから、ふたりとは別の部屋なの」
というアメルのことばに納得。
「えっとじゃあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
ごそごそ、ともぐりこむと、シーツからは陽だまりのいいにおいがした。
きっと毎日、きちんと洗われているのだろう。
はふ、と息をついてまくらに顔をうずめると、アメルが反対側にもぐりこんでくる気配がして、
「ごめんね?」
「え?」
「リューグのせいで、記憶を失ってしまって……あたしの力がもっと強かったら、あなたの記憶ももしかしたら、なんとかなったかもしれないのに」
「うぅん、そんなことないです」
ほんとうにすまなさそうなアメルに、逆にのほうが恐縮してしまう。
「名前だけでも思い出せたし、それにご飯とてもおいしかったし! それに明日になったら、記憶戻ってるかもしれないし。だから気にしないで」
「……さんって」
「でいいですよ」
「あたしも、アメルでいいですよ」
くすくすと、額をくっつけて笑いあう。
それから、
「……って、あったかいね」
「ほえ?」
すりよってきたアメルを受け止めて、はきょとんと首を傾げる。
「なんだか、とても懐かしい感じ。あたたかくて、優しくて……」
「むぅ? それはアメルのことじゃない? 聖女なんて云われるくらいなんでしょ?」
「うん……でも……」
ぽつり、とアメルがつぶやいたが、それはの耳に届く前に、宙に溶け消える。
それはアメルの声が小さかったせいもあった。
が、何よりも原因は、睡魔の誘惑に耐え切れなかったが、そのまま意識を手放してしまったせいだった――
……すっかり眠ってしまったを見て、アメルは、ちょっと目を丸くしたあと、くすりと笑みを浮かべた。
「ってなんだか……初めて逢った気がしない」
自分の中の何がそう思わせるのか、まだそれはアメルにも判らなかったけれど。
――そうして。
なにやら楽しい夢を見ているらしい、記憶喪失の少女にきゅっとしがみつき、聖女も眠りの淵に身を横たえる。
夜空に浮かぶ大きな月が、そんな彼女たちのいる家屋を、優しく照らし出していた。
――――
――そして同じ月の光を受けて、こちらは大平原を進軍する黒色の軍隊。所属はデグレア、部隊名は特務部隊・黒の旅団。
指揮官の名はルヴァイド。副官兼特務隊隊長として、イオス。
聖女捕獲という任務に、ルヴァイドもイオスも乗り気ではなかったのだが、元老院議会の再三の命令、それに顧問召喚師であるレイムにもせっつかれ、彼らは重い腰をだましだまし、任務へ就いた。
進軍速度を遅める抵抗などしてみせても、やはりいつかは目的地に辿り着く。
そして今、もはやレルム村は目と鼻の先だった。
「将ヨ、ドウシタ?」
「ルヴァイド様、眠れないのですか?」
見張りを立ててあるのだから、何もわずらうことなどあるまいに。
いつまでも外に出たままテントに入ろうとしないルヴァイドを見かねたのか、イオスとゼルフィルドがそろって彼の元にやってくる。
「あぁ……ちょっと、な」
心配してくる部下に、苦笑して答えて。
それでもルヴァイドは、月を見上げたまま動こうとはしない。
思うのは、同じ月のした、どこかにいるであろう少女のこと。
旅立ちの際のルヴァイドの予想が、願いが当たっていれば、聖女をなんとか説得して村から離しているだろう――。
彼は知らない――普通の人間には千里を見通すことなどできないのだから、それも当然か。
まったく突然の事故により、が記憶を失ったことなど。
そうしてレルム村の、聖女の家に今、身を寄せて眠っていることなど。
だからルヴァイドは、へ願いを託すように、最後の決断をここで下す。
「明日は頼むぞ。イオス、ゼルフィルド」
「……は」
「将ノ命ノママニ」
願わくば、犠牲など出さずにすべてを終わらせたい――の策が成っていたにせよ成っていなかったにせよ。
ちらり、とイオスが意味ありげに天幕のひとつを見やった。
彼らの進軍に同行してきた、ビーニャがいるはずのテントだ。
それに気づき、ルヴァイドも苦々しい表情を隠すことなく、同じ方向に視線を送った。
レイムは彼らを疑っている。
いくら祖国への忠誠を示しても、いくら武勲を立てても、今のデグレアのやり方に、彼らが心底同意していないのを察している。
今回も付き添いという名目で同行してきたビーニャが、その証拠だった。
――夢を見る。
遥か遠く、懐かしい、いとしい誰かの夢を見る。
なくした何かの夢を見る。
少女は優しい眠りに包まれて、ただひたすらに、まどろんでいた。
このあと――陽が昇ったあと、待ち受ける何かも運命も知らぬまま。
ただ、今は、穏やかなまどろみに身をひたし。
――そうして、物語の幕は開く――