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lll 物語の始まる前 1 lll



 それはまだ、物語が始まる前よりも、ずっとずっと前のこと。
 すべてが始まったときから、ほんの少し後のこと。
 デグレアに突然落っこちてきた少女が、軍人としての訓練を開始してから、何度目かの戦争を経験した日と、その数日後のこと。

 ――国境沿いで起こった小競り合い。
 相手は帝国軍。
 戦績はデグレア勢の勝利。

 ただ、その戦いは決して余裕のあったものではなく、敵を殲滅する覚悟でかかり、そうしてやっと手にした勝利だった。



 風にまじるのは、土と砂のにおいの他に、胸焼けするほど濃厚な血の臭い。
 聞こえてくるのは、剣と剣のぶつかる音、馬から人が落ちる音、絶叫は断末魔。
 決して齢11になるかならずかのが見て、平気でいられるものではなかった。
 なかったけれど。
 耳と目をふさぎたくなる衝動を必死で堪えて、は今、合戦場からさほど離れていない森の中を縫い、疾走していた。
 現在彼女が場所は、味方であるデグレア軍の陣営よりも、遥かに帝国の陣営に近い。
 小柄な上に常に茂みに隠れて動くようにしていたし、兵士たちは目の前の敵を倒すのに必死で、脇を駆け抜けていくこちらには気づかないでいる。
 ――けれど。

『ぐあああぁぁぁッ!』
「――!!」

 時折聞こえる断末魔は、防げない。
 足を止めたくなる。それを発したのがこちらの陣営の兵でないか確かめたくなる。
 けど、出来ない。
 スピードを落とそうとする足を叱咤して、再びは走る。
 たとえ絶叫の主を確認したとて、自分に何もできないことは、よく判っていたからだ。
 こんな場所にいるくせに、は丸腰だった。
 それどころではない、着ている服も、そこらの村人と云われて不思議のない格好。
 両手にはめたグローブらしきものが、服装に馴染まず違和感をかもしだしているが、それもとうてい実践向きではない。

 ――戦うな。

 そう云ってを送り出した、赤紫の髪の男性を思い出す。
 成人した男性と、11歳そこらの少女では、まず間違いなく後者が負ける。
 戦意を相手に見せるな。
 無力な子供の姿でいろ。
 無体なことを強いる相手にも、限界までは実力行使に出るな。

 そこまで念を押すくらいなら、はじめから送り出さなければ良さそうなものだが、生憎、戦況は芳しくなかったのだ。
 軍隊の規模ではほぼ同格。
 腕の方はこちらが勝っている。
 (欲目かもしれないけれど)そのはずだ。
 ――けれど、どうしても、敵将への最後の道が開けないでいた。
 おかげで戦力になりそうな兵たちは、指揮官を護衛する数隊を残し、あとはほとんどが陣営から出払っている。
 だもので、自由に動けるのは戦力外に等しいしかいなかったのだ。
 それにしても、この長期戦。
 敵兵がすでに死闘と覚悟している故の粘りは、あるのかもしれない。死地に窮して活を見出さんとする姿勢は賞賛に値する。
 将の采配も立派なものだった。敵とは云え、尊敬出来るものであると思う。

 ――けれど。
 これ以上戦いが長引いては、こちらの被害も軽視できないものになろうことは容易に想像がついた。
 だからこそ早期の決着が望まれ、そのためには走ったのだから。

 の本分は偵察兵だ。
 もっとも、緊急時――今がまさにそのときなのだが――以外は、本陣で指揮官の采配を学んでいる。
 けれど今回は、その本分のために動いていた。
 敵陣の視察。
 防御の薄い一点を探し出せとの任務は、とうに果たした。
 預かった鳥を飛ばしたから、今ごろ報告は本陣に届いているだろう。戦場を走る人馬の存在を気にする者はいても、鳥までを気にする人間は稀だ。
 あとは、が無事に本陣に帰るだけ。

 行きと同じルートを選んだのは、単に、一度は通った道のほうが進みやすいという、それだけのことだった。
 けれどそのルートを選んだことが、たぶん、その後の出来事に影響したのかもしれない。


『ぎゃああぁぁッ!!』

 ――身を震わせる。
 断末魔だ。それも間近で。
 戦場の混戦は、相当ひどいものになっているらしかった。でなくば、こんな中心から外れた場所で戦いが展開されている理由はない。
 肉を斬る嫌な音、それから今までに増して濃い血のにおいが鼻孔を刺激する。
 それでも、振り切って走る。
 だけど。
 茂みをかきわけた先に、当の断末魔を上げた人間とあげさせた人間がいることは、さすがに予想できなかった。

 倒れている人間、立っている人間。
 第三者の出現に、ほとんど条件反射でだろうか。立っていた側の人間が、こちらに何かを投じた。
 ――ザンッ、と、地面を貫く音。

「……!?」

 踏み出しかけた一歩をあわてて引っ込めて、その場に立ち止まる。
 一瞬のことで影しか捕えられなかったが、今、目の前。地面に突き立つ姿を見れば、それが何であるかは明らか。――槍だった。
 よほど力が入っていたのは、柄がまだしなっている。

「動くな」

 立っていた人間――その声の主を見て、はちょっと目を丸くする。
 倒れている人間は、デグレアの鎧を着ていた。となると、その声の主は帝国側の人間というコトになる。
 なるのだけれど……実は、驚いたのはそこにではない。
 感嘆を覚えたのは、きれいな金色の髪。
 某顧問召喚師も透き通るような銀の髪を持っているけど、目の前に現れた相手の髪は、勝らずとも劣らずの綺麗な淡い金色だった。
 そうして、髪の色とは対照的に強い意志を感じさせる、紅い瞳。
 年の頃は……たぶん、15・16くらいだろうか。
 故郷で近所に住んでいた中学生の兄ちゃんを思い出して、ふと照合してみたり。

 てか。帝国じゃ、これくらいの年の人間も軍に参加してるんですか?

 自分のコトは完璧棚に上げてがそう思うと同時、少年が、地面に突き刺さったままの槍を抜く。
 かなり手慣れたその様子に、やはり軍人なのだなと改めて実感した。
 そうして再び、彼の視線がに戻る。双眸にあるのは、かなりいぶかしげな色。
「……子供がこんなところで何をしている?」
 そういう自分はどうなの。
 とか云いたくなったものの、ご機嫌損ねてはまずい。とりあえず心の中に留めておいた。
「……」
 黙って視線を地面に落とし、小さく首を横に振ってみせる。少し肩を震わせることも忘れない。
 ウソをつくのは抵抗があったから、あえてこういう対応を選んだのだけど、結局それも、ある意味は――名前も知らぬままに感じる、それは自戒。
 だが案外、人間はだまされやすいものなのかもしれない。
 向けられていた視線が、ほんの少し和らぐのを感じた。
「……近くの村の者か?」
 口調に幾分憐憫が混じっているのは、きっと、そうだと信じているからだろう。
 とりあえず視線は地面に落としたまま微動だにしないでいると、てっきりそのまま見逃してくれるだろうと思っていた相手が、こちらに近づく気配。
 ――気づかれた!?
 思わず身体に力が入る。
 けれど。

 ヒュン、と唸りをたてて振るわれた槍は、をでなく、森の奥を示していた。
 目を丸くしてそちらを見るに、少年は、早口に告げる。
 いや、告げようとした。
「北と南にそれぞれの軍勢の本陣がある。逃げるなら西に――」

 ワアアアアアアァァァァアアァァ!

「――!?」

 少年の声を遮って、戦場の中心地から聞こえてきたのは、大勢の獣が吼えるような歓声だった。
 それに混じって聞こえる、戦果を誇る声。
 討ち取った、と、声高に叫ぶ男性の声に、は聞き覚えがあった。
 続いて、これまでに増して大量の人馬が疾駆する音。地面までもが振動を伝えてくる。
 動きは――南から北へ。
 デグレア軍が動き出した。帝国軍に向かって勝負に出たのだ。
 先ほど討ち取られたのは、将か、それとも副将か。どちらにせよ、膠着状態だった戦場の流れを変えるほどには重要な、帝国軍の大きな一角を仕留めたことに変わりはない。

 にとっては果報のそれも、けれど、目の前の少年にとっては禍報である。
 同じように流れを読み取ったらしい少年は、表情を険しいものに変えると、すぐさま身体を反転させ――かけて。
 くるりと、顔だけをこちらに向け、
「逃げるなら西だ! もう掃討戦になる、ぐずぐずしていると巻き込まれるぞ!!」
「ちょっ……あなたは!?」
 まさかその反応は予想していなかったのだろう、走り出そうとした足を止め、少年は改めてを振り返った。
「――君には判らないかもしれないが、この戦いは我が軍の負けだ」
 槍を握る手に、一層の力を込めて。
 紅い瞳には、大きな決意を抱いて。
「だが僕も軍人の端くれだ。たとえ命尽きようとも国のために戦うことを厭うつもりはない!」
「でも、死んだら何にも――」
「――!」
 なお云いつのろうとしたのことばを遮って。

 少年が、地を蹴った。

「え」

 ドスドスドスッ!

 立て続けに叩き込まれたのは、槍に似た、けれど随分と短い幾つもの武器――召喚術。サプレスのエビルスパイク!

「あっ……!? お、お兄さんっ!?」

 をかばうように抱えて地面に伏せた少年の背中に、そのうちの幾つかが命中していた。
 一本一本の殺傷力はない召喚術だが、それが複数に渡って命中するとさすがに危ないコトはだって判る。
 現に、力を失った少年の身体を起こそうと背中にまわしたの手のひらは、べったりと赤いもので濡れてしまった。
「……う……」
「ちょ、ちょっと・……! しっかりして!」
 意識を失わせてはいけない。
 襲いかかる痛みに耐えぬくのは生半可なことではないが、ここまで大量の出血で意識をなくすほうがよほど危ない。
 けれど、の呼びかける声に反応らしい反応はなく、少年はただうめくばかりだった。
 そうしている間にも、こちらに向かって近づく気配が複数。
 ――どっちだ? どちらの陣営の人間だ?
「こっちだ! 反応があった、命中しているはずだぞ!」
 とどめを刺そうというのか、押し寄せてくる数名の気配のうちの、ひとりの声を聞いて、は目を見張る。
 ガサガサ、と、茂みをかき分けて、彼らが姿を現した。

「……殿!?」

 黒の旅団陣営の人間だった。も何度か顔をあわせたことがある、デグレアでは数少ない召喚師。それから、彼の護衛も兼ねている旅団の兵士たち。
 この戦いのために急場雇った人間ではなく、顔見知りの間柄である人たちであったことに安堵して、頷いてみせる。
「戦況は!」一番気になっていること、そして彼らが何より気をとられやすい問い。「この戦いは、どうなってます!?」
殿の報により敵将を討ち取った」
 ちらり、と、に覆い被さったままの少年に視線を動かして、召喚師が答えた。
「けれど相手方の抵抗は激しく、故に、抵抗する者はすべて殺すようにと命令が下されている」値踏みするように少年を見、「……帝国軍の者ですな?」
 そのことばに、護衛兵たちが武器を構える。
 だが、すぐにも繰り出されようとしていた攻撃を、は叫ぶことで止めた。

「やめて! 抵抗していない者まで殺すつもり!?」

 の力では、少年ひとりさえ起こすことは出来ない。
 代わりに、ぎゅっと彼を抱きしめて、召喚師たちを睨みつける。
「ですが――」
「ですがもかすがもないっ! この人はあたしが術に巻き込まれるのを助けてくれたんです!」
 いわば命の恩人である。
 それを聞いた兵士たちは、戸惑ったように顔を見合わせた。
 それに勢いを得て、は続けた。
「治療をお願いします。殺すのはだめ。――おねがいします」
「……我らが指揮官殿が、なんと云うだろうか?」
 その地位についてまだ数度目の戦である今回、の養い親であるルヴァイドにとってはその意味でも大事な戦いだった。
 けれど、は首を横に振ることで、召喚師への答えに変える。
「ルヴァイド様がこのことを不快に思うなら、責任は全部あたしがとります。助けたことが仇になるなら、あたしが相討ちになってでも、それを防ぐ」
「……」
 子供に何が出来る、と、彼らは笑わない。このときこの場で証明せねばならないのは力ではなく、覚悟だった。
 だから。
「お願いします」
 口調強く。懇願ではなく要請する。
「今は、この人を死なせないでください!」
 のそのことばの数秒後、空間に、再びサプレスの召喚術の光が満ちた。


 ――そうして冒頭のとおり、掃討戦となった結果、帝国軍は全滅した。
 ただひとりの生き残り……捕虜となった少年兵を除いて。

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