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lll 物語の始まる前 2 lll



 デグレアの兵舎から少し離れた場所には、囚人を収容しておくための搭がある。
 以前はただの平屋の詰め所で、牢は地下につくられていたそうだが、十年程前にこの搭を建設、牢もすべて地上に移動させたんだとのこと。
 めったにないことだが、搭の方が満員になると、運悪く地下に送られる囚人も出る。
 もっとも。そんなことは、本当にめったにないけれど。

 だから、今回の戦いで捕虜になった彼も、例に漏れず地上側の牢に収容されていた。


 入り口に立って、暇そうに欠伸を連発している門番に挨拶して、は扉をくぐる。
 地上に移ったというわりには、まだなんとなくじめじめした感のある建物のなかを、ひとつひとつ中を確認しながら進んでいると、横手から声をかけられた。
ちゃん、こんにちは」
 こんなところにどうしたの?
 囚人に食事を運んでいるのだろうか、でっかい手押し車に大量の食事を載せての名を呼んだのは、馴染みの女中頭さんだった。
 こんにちは、と挨拶して、ここにきた理由を告げる。
「ええと……こないだ捕虜になった人、いるでしょ?」
 どうしてるかなって思って――
 話すうちに、おやおや。
 女中頭の表情が、ちょっと気鬱なものに変わる。こっちはまた、いったいどうしたんだろう。この場所の空気にあてられたと思うには、彼女の、群を抜く勤務歴が邪魔をする。
 ややあって、彼女は少し、声のトーンを落として云った。
「あの綺麗な子のことよね?」
「うん。金髪に紅い目の。……その人が、どうかしたんですか?」
 男の子が『綺麗』云われてもしょーがないよーな気もするが、現にきれいな子としか形容しようがないのだからしょうがない。
 で、そのきれいな子の話になったとたん、女中頭はため息をつく。
「……食事をね、殆ど食べてくれないのよ」
「ええ!?」これにはさすがに驚いた。「もう一週間になるのに!? もしかして水も!?」
「ううん、水はさすがに飲んでるけど。食事も少しはしてるんだけどね」
 とても、あの年代の男の子に足りる量じゃないのよ。
 そう、女中頭は云う。
 ……人間、水を飲まなきゃ3日であの世に逝ける。
 となれば。とっても前向きにねじて考えれば、とりあえず生きる意志はあるということなのだろう――か?
 思わず頭を抱え込んだに、何を思いついたのか、女中頭のお姉さんが手を叩く音が聞こえた。
「そうだ、ちゃんが食事持っていってあげてくれない?」
「へ?」
ちゃんが彼の命を助けたんでしょ? だったらちゃんの云うことなら聞いてくれるかもしれないわよ」
「え……いや、それはどうでしょ――」
 なにせ。
 デグレア側の人間だと知らさないまま、は彼と相対していたわけで。
 つまり、彼にとってはまだそこらの村人で。
 つまり――
 だましてたと云われても文句云えない状態だったり、するんですけど。
 と、そういうことをごにょごにょつぶやいてみたけれど、俄然勢いづいたお姉さんはてきぱきと食事一式盛り合わせたトレイをの手に載せた。
 そして笑顔で云った。

「いってらっしゃい」
「…………」

 有無を云わせないその口調の主に逆らえるほど、はまだ、人生経験を深く積んではいなかったのだった。


 捕虜だ牢だとは云うものの、別に鎖で手足を束縛されるとか、そういうことはまず、よほどの凶悪犯でないかぎりされたりしない。
 今回の捕虜さんも、別に暴れたりはしないので、牢のなかでは自由に出来るようにされているはずだった。
 教えられたとおりの牢の前に立ち、明り取りの窓から入り込む光で、どうにか中を透かし見る。
 囚人へのプレッシャーのつもりか、この搭には窓らしい窓がないのだ。
「……誰だ?」
 牢の前にが立っているのに気づいたか、それまで壁に寄りかかって座っていた人影が声を発する。
 聞き覚えのある声。
 数日前、あの戦場でことばを交わした相手の声に間違いなかった。
 顔を持ち上げた少年が、目を見開く気配。
「――おまえは……」
 どうやら、相手ものことを覚えていたらしかった。
 声に含まれる安堵は、たぶん生きていたことに対して。戸惑いは、どうして戦に巻き込まれたはずの村人がここにいるのかという疑問。
「……えーと」
 どう説明しようかと、ことばを探すよりに、少年が先んじて動く。
 ククッ、と、自嘲気味な笑いが牢に響いた。
「……そうか……おまえはデグレアの人間だったんだな」
 僕は敵方の人間を助けようとして、捕虜になったというわけだ。
 そんなことない。思わず感情のまま、そう口走ろうとして――出来なかった。
 彼の云うことは、真実だ。それ以外の何でもない。
 口を閉ざして俯いたへ追い打ちをかけるように、彼はつづけた。
「デグレアも相当なものだな、おまえのような子供まで戦争に駆り出すとは……よほど人材不足なのか?」
「……こんな年で参加してるのあたしだけだよ」
 実戦に出ると云ったら、そりゃあものすごい勢いで反対してくれた養い親の顔を思い出した。だいたい、軍に入るのだって一悶着どころか百悶着ほどあったのだ。
 最初は、傍から離れることさえ許されなかった。次には、少しだけ前線を見た。その次にはゼルフィルドの傍を離れないことを条件に、終始戦場に立った。
 まだ戦うことは出来ないけれど、その光景に慣れることは出来る。
 少しずつでいい、いつか自分がそこで刃を振るうときのために、いつかあの人に恩を返すため戦うときのために。
 最近では、簡単な偵察の仕事ならたまにしている。
 帝国軍の侵攻が激しいこの数ヶ月、戦場に立つことのほうが多かったのではないだろうか。
 この人と逢ったのも、そんな折のことだったし。
「それで」
 むしろ自分自身をあざけっているような声が、の意識を回想から引き戻す。
「何をしにきた? 敵であるおまえを助けようとして、間抜けにも捕まった相手を嘲笑いにきたのか?」
「そんなことしない!」
 ことばの意味はよく判らなかったけど、その嘲弄めいた口調に反感を覚え、怒鳴っていた。自分は、この人を馬鹿にしようと思ってここにきたわけじゃない。
 食事を頼まれたのもあるけど、もともと、ここにこようと思ったのは。
 何をされるか判らん、と、反対するルヴァイドを押し切ってまで赴いたのは。

「……助けてくれてありがとう、って」

 云おうと思ったのだ。
 だが、少年は、のことばを途中で遮り、突き放す。
「おまえがデグレア側だと知ってたら助けなかった」
「でも、助けてくれたから」
 冷たい。鋭い。
 気力を萎えさせるようなそれに、けれどどうにか、云い返す。
「だから、ありがとう、って……」
「じゃあ僕もお礼を云わないといけないな」
 不意に。少年のことばの調子が変わった。
 足元に落としていた視線を期待と一緒に持ち上げて――
 見なければよかった、と。その感情を後悔ということさえまだ知らないままに――後悔した。
 視線で人を殺せるなら、きっと出来ているだろう。
 それくらい、鋭くて冷たくて怖い、そう感じた。

「愚かにも。敵である君を助け、勝手に自滅しようとした名も無き兵士に温情をかけ命を救ってくれて」、

 少し奇妙に裏返った声で、彼は云い捨てた。

「――“ありがとうございます”」


「……」

 淡々と。けれど敵意満載の、慇懃無礼も過ぎる、そんな突き刺さるような声で嘲るように云われて、これで、ショックを受けないほうがどうかしている。
 そうして案の定。どうかしていない証拠、なんて云われてもうれしくないが――の手にもったトレイに、ぽたぽたと水滴が落ちだした。

「……」

 水滴の正体をすぐにはつかめず、硬直することしばし。
 その間も、頬を濡らす涙は止まらない。

 泣いているんだと自覚するまで、身体の震えを感じるまで、どれくらいそうしていたんだろう。
 トレイを落とさずにいられたのは、もはや奇蹟かもしれなかった。
「……」
 口を。開きかけて閉じる。
 きつく自分を見上げてくる紅い瞳から、視線を外した。食事を入れるために設けられている、小作りの扉を開ける。
 ずず、と、食事を押し入れる。床とトレイのこすれる音。
 近くでしているはずなのに、なんだか、壁一枚へだてた向こうから聞こえるような錯覚。
 ぱたん、と、また扉を閉めて鍵をかけた。
 小柄な人間がやっと通れるくらいの扉だから、牢の少年が通り抜けられるわけはないのだけれど、鍵だけは忘れるなと女中頭から念を押されていた。
 そうしてそのまま走り出して。
 ……しまっていれば、それが楽だった。それで、終わりだったかもしれない。

 だけど。

 ぐっ、
 手のひらを握りしめて、は、少年を見た。
 また視線を合わせてくると思っていなかったのか、紅い瞳がわずかに見開かれたようだが、そんなの気にしてる余裕もなかった。

 だけどただ。

 ひとつだけ、

「バカにしようと思って助けたわけじゃない」
 嗚咽まじりのひび割れた声を、まるで他人のもののように聞きながら、そのひとつを、は告げる。

「生きててほしかっただけだよ。それだけだよ」

 死んだらそれでこの自分は終わる。諦めたら望みは終わる。
 ――そう。終わらせたくない望みがある。
 いつか自分の生まれた世界に帰るという望みがある。
 それは、死んだら終わり。でなくなるから。
 諦めたら終わり。云うまでもない。
 道はあるかもしれない。
 望めば叶うかもしれない。
 諦めない。
 死ぬわけにいかない。
 きっと誰も、そういうの、持ってると思ってるから。
「お兄さんが助けてくれたこと本当にうれしかったから、……まだ諦めないですむって思ったから」
 奇妙に、少年の表情が歪んだ。

 だって。
 誰がどう望んでも、何を願っても、死んでしまえば終わる。途切れる。
 生きたかった、生きて欲しかった。
 そしてここで、それは叶った。

「……そのお礼、云いたかっただけだよ……!」



 結局、少女はそのまま走り去った。
 小さな背中が曲がり角の向こうに消えた頃、チッ、と、大きな舌打ちを、知らず彼はこぼしていた。
「――」
 苦虫を噛み潰したような表情で、じっと、彼女が駆けていった方向を見て、もう一度、舌打ちする。
「何が、礼だ」
 今の彼女のセリフでは、それを云うためだけに彼を生かしたと云っているようなものではないか。
 そんな独り善がりな感情のために、全滅した軍のなかでただひとり、自分だけが生き延びたのか――そう思うと、壁を叩きつけたくなる衝動に駆られる。
「……」
 なのに。
 なんだというのだろう、この胸を掻き毟るような感情は。
 後悔にも似た、あの娘への感情。
 問うてみても、是非はない。理由は、自分がいちばんよく判っていた。
「……大人げなかったか……あんな子供に……」
 人形のように立ち尽くして、ただ涙を流していた数秒間。それが、やけに鮮明な映像で、脳裏に焼き付いている。
「……」
 あんな、子供が。そうだ、おそらくは戦役にまともに参加していたはずがない。
 せいぜいがとこ、偵察に走っていただけではないかと想像はつく。
 あんな、子供を。
 ――それでも。
 仲間を失い、自分一人が死なずに。敵地に一人。
 そのことに対する焦燥と、己への怒り。
 それが最高潮に達したときにやってきたのだから、タイミングが悪いとしか云いようがない。……そう思う自分が、今、少し嫌だった。
 ぶつけてしまったことばは、けれど、消えることはない。
「……今度」
 来たら。と、つぶやきかけた口を止め、すぐ、首を横に振る。
 たぶん、いや、もうきっと、あの娘はここにはこないだろう。あんなに、傷ついた顔をしていたのだから。

 ――それに。

 しょせん自分は一兵卒。捕虜としての価値もない。交渉次第では、あの娘の意志も入り込む余地なしに、命を絶たれると。それは確信でしかない予想だった。

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