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lll 始まりのうた 1 lll




「……どう? 今日はもう降参ですよね?」

 シャン、と杖をひとつ鳴らし、彼女はたった今打ち倒した悪魔に告げた。
 白い、白いその杖は、別に空気に霞がかっているわけでもないのに、輪郭がぼんやりと霞んでいる。
「やかましい! まだオレは死んでねぇぞ!!」
「あのね、死なせる気がないんだから当たり前でしょう」
 地面に仰向けに倒れていた悪魔は、がばっと起き上がって抗議の声をあげたものの、軽くいなす調子の彼女のことばに、すぐ、ぐっ、と口をつぐんでしまう。
 身体中傷だらけで、満身創痍と云ってもいいほどのくせに、なかなか元気な悪魔である。
「……クソッ、狂嵐の魔公子がなんてェありさまだよ……」
 実に悔しそうにぼやくその表情にも口調にも、昏いものは感じられない。
「ふふ」
 だから、彼女は彼を気に入っていた。
 サプレスの悪魔といえば、陰険で根暗くて相手を欺くことにかけては天下一品。
 そんな彼女の評価を、この悪魔は出逢った当初から、あっさり打ち砕いてくれたから。

 ――額には第3の瞳。
 身体に刻まれた紋様と、少し乱れた赤い髪。

 まだ表情に幼さの残るその悪魔の名前は、バルレルという。


 ちょっと前――といっても数十年のスパンだが――、リィンバウムに攻め込もうとしたところを彼女が迎え撃ったのが、最初の出逢いになる。
 後退を余儀なくされた彼は、それから、何度か彼女に挑んできた。
 ただし、何を考えているのやら、自分ひとりでだ。
 もっとも、例え軍を引き連れてきたところで、一番最初のそのときのように、白い雷光で薙ぎ払われるのがオチではあるだろうが。
 ――が。
 余計に勝利の確立を減じさせていることを判っていてそうしているのだから、彼女としては呆れるしかない。
「珍しい悪魔ね。本当に。わざわざ敵の陣地で戦いを挑んでくれるなんて、人間だってあんまりやりませんよ」
 リィンバウムの力を引き込んで行使する、というある意味離れ業的能力を有する彼女にとって、リィンバウムはある意味無敵のフィールド。
 それをバルレルも重々承知しているだろうに、彼女に戦いを挑むのは、何故かいつもこの世界だった。
 しかも決まって、この荒野。
 でも、後者には、ちゃんとした理由があったりする。
 どういうからくりがあるのか知らないが、この荒野は比較的サプレスとの門がつながりやすいのだ。
 つまり、彼女が重点的に監視している場所でもある。
 で、バルレルは素直にそこを通ってリィンバウムへ侵入しようとして――というかむしろ戦いに来て、その結果、もう何度目かわからないが、こんな事態を迎えているのだった。
「テメエこそ」
 ぶう、とむくれてバルレルは云う。
「いちいちバカ正直に迎えうってんじゃねーよ。トラップぐらいかけとけっつーんだ」
「だって、あなたと戦うのは楽しいですし」
「……テメエな! オレは本気で戦ってんだぞ!?」
 ころころ笑う彼女に、三つ目の悪魔は怒り爆発の態で起き上がった。
 とたん。
「イテ……」
 治りきっていない傷が開いて、そこから血が流れ出る。
 乾いた荒野が、貪欲にそれを吸い取っていく。
「あらら。元気なんだかおバカなんだか」
 くすくす笑って、彼女は虚空に手を伸ばした。

「リプシー。ちょっと来てください、このひとの傷を診てくれる?」
「よけいなコトすんなテメエッ!」
「死にたくないでしょ?」
「……」


 ちくしょう。
 悪魔はぼやく。
「テメエと話してると、自分が生まれたてのガキになった気がすんだよなぁ」
「当然。だって、わたしの方がずっと年上なんですから」
「……笑って云うな、ンなコト」
 知ってる。
 リィンバウムを外敵の侵略から守るために、戦いつづける白い陽炎。その存在は、ニンゲン以外の誰もが知ってる。
 バルレルが生まれたとき、すでにその姿は、界の狭間で舞っていた。
 こうしてリィンバウムに攻め込むくらいの力をバルレルがつけた今になっても、それは変わらない。
 転生と云えない転生を繰り返し、白い陽炎はずっと、世界を守っている。

 彼女は無敵というわけではない。
 斬られれば血が出るし、殺されれば死ぬ。
 でも。
 その痛みも死の感覚も抱いたまま、すぐに彼女は『生まれ変わる』。

 どんなに姿が変わっても、魂だけは変わらない。

 だからバルレルは、いつも彼女を見つけて挑む。
 たった一度だけではあったけれど、殺したこともあった。
 そこで、好機とばかり攻め込もうとしたところ、シルターンの竜神の親戚とか彼女の友人とかほざく女が割り込みあそばされやがり、それに手間どっているうちに、世界が彼女を再生し――でもって結局最後には、彼女に退けられたというわけだ。
 なんともはや、無敵でなくとも無敵である。

 だけど最近、そんな鍔迫り合いの繰り返しは減っていた。

 理由は実に簡単だ。
 リィンバウムに攻め込む意志が弱まってきたのを、バルレル自身がちゃんと自覚しているから。

 だけど最近になっても、彼女との戦いは続く。

 理由は実に簡単だ。
 リィンバウムの支配がどうでもよくなっても、彼女と戦えることはどうでもよくないから。

 ――たぶん彼女は笑うだろう。
「珍しい悪魔ね」
 とかなんとか云いながら。
 実際、今、笑ってるし。

 彼女の頼みを終えたリプシーが、サプレスへと還る。
 それを見送って、彼女はバルレルに向き直り、
「さて。どうします? 今日はもうおしまい?」
 判りきっていることを訊いてきた。
「あー、しまいだしまい。ちくしょう、次は殺すからな」
「はいはいはい。それじゃあ次までに、わたしも鍛えておかないといけませんね」
「それ以上鍛えてどーすんだよ。嫁の貰い手なくなるぞ」
 げらげら笑う。ニンゲンみたいな笑い方。ニンゲンみたいな会話。
 彼女と戦うようになって、覚えた。
 そこらじゅうで有象無象と暮らす奴等には軽蔑しか覚えないけれど、こんなふうに、彼女とバカみたいな話をするのはけっこう好きだった。

 ――ずっとずっと時が過ぎて。
   その感情の名を知ったとき、はらわたが煮えくり返るかと思ったほどには。

「お嫁さんかぁ」

 けれどもまだ、そのときは、しあわせだった。
 バルレルも彼女もまだ――そんな他愛のない会話で、充分、笑いあっていられた。

 だから、今の彼女もまだ。
 頬に手のひらを当てて考える、その仕草だけは、普通の女性と変わりない。
「そうですねー。一度でいいから純白のウエディングドレス! 着てみたいかも」
「ま、その前に守護者辞めねーとムリだろーけどな」
「うう。それは云わない約束……」
 彼女は待っている。
 自分に匹敵する、強い力を行使出来る存在が生まれることを。

 調律者の――最強と謳われた一族が滅びてもなお、ほんのかすかな奇跡を願っている。

 世界を守るために、彼女は世界と約束した。
 この自分に代わる存在が生まれるまで、わたしはあなたを守ります。

 その約束を終える日がくることを――願っている。

 そして彼女は知っている。
 自分に比肩するような者は――そうなり得る一族の血は、もう絶えてしまったことを。

 きっと来ないと諦めていても。
 もう在り得ないだろうと悟っていても。
 ……彼女も、繰り返す今日ではなくて、それまでと違う明日を願っていたのだ。


 ひとつ息をつく。頭を振って、こびりついていた砂を落とした。
 ふさがった傷の上に居座りつづけるかさぶたを爪で引っかいてとりながら、バルレルは彼女に語りかける。
 来るか来ないか判らない未来の話なんて、いつまでもするものじゃない。
 特に彼女に関しては。
 ――だから話題転換。
「なぁ、そういえば」
「はい?」
 その割に意地悪な話題を選んでしまうのは、根っから彼が悪魔だという証拠なんだろうか。
「なんだっけか、ヤツ。メルなんとか云ったっけ? アルミネと調律者どもに封じられたバカ」
「うわー。またイタイ話を。性格悪いですね」
「オレは悪魔だっつーの」
「そうですけどね」
 苦笑い。
 それから彼女は、首をかしげる。
「そうですよ。メルなんとか。そいつ、見事に人を別の場所にひきつけて……うん、それはさすがと云えばさすがですよね。裏かくことなら大得意なんだから、悪魔ってば」
「オイ、愚痴になってるぞ」
「愚痴りたくもなるわよ。で、そんなして本隊丸々リィンバウムに特攻していったみたいだから、顔は知らないけど……」
 思い出しても悔しいのなんの。
 おかげでアルミネは消えてしまうし、人に隠れて嫌な実験してた調律者一族は滅亡の憂き目にあうし。
 あまつさえ、それが原因となって、リィンバウムは異世界の友の助力を失った。
 彼女の負担がそれまで以上に増えたのは、そんなトコロにも原因がある。
「今はたしか」、けど、で切ったことばを続ける彼女。「禁忌の森にアルミネの魂と封じられてるのかな……? 静かなものですよ」
「へー、やっぱバカだな。ってそのバカ、リィンバウムに封じっぱなしにしとくのかよ?」
 いや別に、バルレルはリィンバウムを心配しているわけじゃない。
 ただ。自分も狙いをつけてた世界で他の奴がぐーすか寝てるというのが、ちょっと気に入らないだけ。
「そうね。解放してサプレスに送り返してもいいんだけど」
 むしろ、そうしたいんだけど、と、彼女は云った。守護者としては当然のセリフだろう。
 だが次に続いたのは、守護者としてでなく、彼女自身の感情に基づいたものだった。
「でも……あんまりあの森、近寄りたくなくて」

 かつて自分を生み出した一族が犯した罪も。
 そのために犠牲になった天使の嘆きも。
 滅びた一族の慙愧や後悔の念も。
 封じられた悪魔の憤りも。

 まだわずかも減じることなく、閉ざされた森に漂いつづけているから。

「もう少し、ね」
 彼女の決断は、
「待ってみるつもりだったんです」
 先延ばし。
「……時間がいつか、彼らを昇華してくれるかもしれないから」

 そんな――いつになく控えめな彼女の選択が、おそらく、この後の運命を決めた。

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