それからしばらくの時間が経ったのち、彼女は迷っていた。
気にしてはいたのだ。
あの悲劇の起こった森を、弱気に負けて長い間放置していたことを。
「……行ってみようかな」
凛と。強く。
外敵を退ける、彼女の強さはそこにはない。
今の彼女は、肉体の年齢相応の、幼い途方に暮れた表情をしていた。
――今の身体に生まれて、早十数年。
その前の前――もういくつか前の身体のときに――最初の自分だったときに、あの悲劇は起こった。
それだけの時間、放置していたそのことが、今さらになって心を苛む。
バルレルが持ち出したのがきっかけだけども、たしかにそれは、積もっていた懸念ではあったから。
皮肉にもあの悲劇が起こったことで、ここしばらく、異界からの侵略は手控え感が強い。数こそ以前と変わらないが、様子見だろうか、その質は落ち気味だ。
つまり、手を空けようと思えば空けられる。
少しばかり自分のために動く時間くらいは、とれる。
「……うん」
そう決意した表情を、彼女がつくった瞬間。
サァ、とどこからとなく風が吹き、白い陽炎を飲み込んだ。
「わっちゃあぁ、やってくれちゃってるわねぇ〜」
「うーん……まさかこれほど強力だったなんてね……」
胸元が大きく開いた赤い服をまとう女性が、ちょっと大げさな印象を与える声をあげた。
それを横で聞く彼女は、友人が傍にいる気安さもあってか、少しばかり苦笑する。
「天使の哀しみが、本来魂が抱いた力を増幅させたのね。……純粋なサプレスの魂が、結界を構築してる」
「へぇ? さすがのアナタでも解けないってコトなんだ?」
「うん。リィンバウムの干渉が一切ないもの――それを上回る魔力か、本人でないと解けないでしょうね」
どっちにしても、砂浜から一粒砂金を探すくらいには難しいでしょうけど。
「なんだか安心しちゃうわねぇ。守護者にも出来ないことがあったなんて〜」
「茶化さないで、メイメイ。わたしは万能じゃないんだから」
「にゃっははは」
メイメイと呼ばれた赤い服の女性が笑うたび、おだんごにまとめた髪から覗く角が、動きに合わせて小さく揺れる。
「単純に守護者ってだけなら、貴女のつくった鏡のほうがよほど優秀よ。あれを打ち破れる底力の持ち主なんて、そうそういないでしょ?」
「何を云ってるかなぁ」
彼女のことばに、メイメイが、赤い頬を少しふくらませる。
「その鏡を今まで一度も働かせてないアナタのセリフじゃないわよ〜? まったく。たまには手抜きぐらいしなさいよ」
「障害は極力外周で排除するのが、王道だと思うんだけど?」
「あ〜、はいはい。そうね。出来れば鏡に到達するよーなヤツなんて、出てきてほしくないわよね〜」
そのときは、アナタが死ぬか殺されるかしたかの空白の期間だろうから。
友人の優しいことばへ、彼女は困ったように笑うしかない。
「で、ど〜すんの? 干渉は出来ないだろうから、このままほっといちゃう?」
「そうね。そのうち時間が綻びをくれるかもしれないから、それまではね」
少しばかり安堵を覚えて、彼女はメイメイの提案に乗る。
それでも、あの悲劇以来初めて訪れたそこを立ち去り難くて、先に戻るという友人の背を、ひとり佇み、見送った。
「――」
完全に友人の姿が消えてから、ひとつため息。
振り返った視線の先には、常人には見えない薄い障壁がある。
「……」
パシ、と。
触れた指先から伝わるのは、結界という形を成した天使の、魂の嘆き。
守ろうとした人間に捕えられた瞬間。
機械に繋がれ、自我をなくした瞬間。
己の意志を無視して暴走する肉体に、絶望した瞬間。
それは天使の記憶。
今ははっきりと訴えかけてくるそれは、いずれ形さえなくして、おぼろげな輪郭だけになるんだろう。
この地に哀しみを残したまま、魂は在り続けるのだろう。
いつか長い時間が過ぎたとき、それが癒されることはあるだろうか――
罪人と呼ばれる一族の血は、幾度となく転生を繰り返すことにしたこの身体には、もう残っていない。彼女が保ちつづけるはその魂。肉体は、いつも、そのたび見知らぬ誰かの胎で養われる。
それでも、いや、だから。魂がそれを覚えている故に、彼女は天使へと謝罪する。
謝罪しか……出来ない。
「ごめん、ね」
うなだれて。つぶやいた。
――そして。
「だれ?」
持ち上げた顔、その双眸は鋭く細められている。
枝を。草を。
踏みしだく足音。
サプレスの力に満ちたこの森のなかでも、ひときわ異彩を放つ気配。
――いや、それは間違いもなくサプレスのそれなのだけれど、ひどく禍々しいものを内包していた。
バルレルと同種の――それよりももっと旧く、強大な、存在だった。
「……」
戦うか否か。
答えは当然前者。
そのはずだけれど。
杖を持つ手に、支える以上の力がこめられることは、結局、なかった。
つまりは後者を選択した彼女はそれでも、油断だけはしないように振り返る。
――ここもまた、道の分岐点。