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lll 始まりのうた 2 lll




 それからしばらくの時間が経ったのち、彼女は迷っていた。
 気にしてはいたのだ。
 あの悲劇の起こった森を、弱気に負けて長い間放置していたことを。
「……行ってみようかな」
 凛と。強く。
 外敵を退ける、彼女の強さはそこにはない。
 今の彼女は、肉体の年齢相応の、幼い途方に暮れた表情をしていた。
 ――今の身体に生まれて、早十数年。
 その前の前――もういくつか前の身体のときに――最初の自分だったときに、あの悲劇は起こった。

 それだけの時間、放置していたそのことが、今さらになって心を苛む。
 バルレルが持ち出したのがきっかけだけども、たしかにそれは、積もっていた懸念ではあったから。

 皮肉にもあの悲劇が起こったことで、ここしばらく、異界からの侵略は手控え感が強い。数こそ以前と変わらないが、様子見だろうか、その質は落ち気味だ。
 つまり、手を空けようと思えば空けられる。
 少しばかり自分のために動く時間くらいは、とれる。

「……うん」

 そう決意した表情を、彼女がつくった瞬間。
 サァ、とどこからとなく風が吹き、白い陽炎を飲み込んだ。



「わっちゃあぁ、やってくれちゃってるわねぇ〜」
「うーん……まさかこれほど強力だったなんてね……」

 胸元が大きく開いた赤い服をまとう女性が、ちょっと大げさな印象を与える声をあげた。
 それを横で聞く彼女は、友人が傍にいる気安さもあってか、少しばかり苦笑する。
「天使の哀しみが、本来魂が抱いた力を増幅させたのね。……純粋なサプレスの魂が、結界を構築してる」
「へぇ? さすがのアナタでも解けないってコトなんだ?」
「うん。リィンバウムの干渉が一切ないもの――それを上回る魔力か、本人でないと解けないでしょうね」
 どっちにしても、砂浜から一粒砂金を探すくらいには難しいでしょうけど。
「なんだか安心しちゃうわねぇ。守護者にも出来ないことがあったなんて〜」
「茶化さないで、メイメイ。わたしは万能じゃないんだから」
「にゃっははは」
 メイメイと呼ばれた赤い服の女性が笑うたび、おだんごにまとめた髪から覗く角が、動きに合わせて小さく揺れる。
「単純に守護者ってだけなら、貴女のつくった鏡のほうがよほど優秀よ。あれを打ち破れる底力の持ち主なんて、そうそういないでしょ?」
「何を云ってるかなぁ」
 彼女のことばに、メイメイが、赤い頬を少しふくらませる。
「その鏡を今まで一度も働かせてないアナタのセリフじゃないわよ〜? まったく。たまには手抜きぐらいしなさいよ」
「障害は極力外周で排除するのが、王道だと思うんだけど?」
「あ〜、はいはい。そうね。出来れば鏡に到達するよーなヤツなんて、出てきてほしくないわよね〜」
 そのときは、アナタが死ぬか殺されるかしたかの空白の期間だろうから。

 友人の優しいことばへ、彼女は困ったように笑うしかない。

「で、ど〜すんの? 干渉は出来ないだろうから、このままほっといちゃう?」
「そうね。そのうち時間が綻びをくれるかもしれないから、それまではね」

 少しばかり安堵を覚えて、彼女はメイメイの提案に乗る。
 それでも、あの悲劇以来初めて訪れたそこを立ち去り難くて、先に戻るという友人の背を、ひとり佇み、見送った。
「――」
 完全に友人の姿が消えてから、ひとつため息。
 振り返った視線の先には、常人には見えない薄い障壁がある。
「……」
 パシ、と。
 触れた指先から伝わるのは、結界という形を成した天使の、魂の嘆き。
 守ろうとした人間に捕えられた瞬間。
 機械に繋がれ、自我をなくした瞬間。
 己の意志を無視して暴走する肉体に、絶望した瞬間。
 それは天使の記憶。

 今ははっきりと訴えかけてくるそれは、いずれ形さえなくして、おぼろげな輪郭だけになるんだろう。

 この地に哀しみを残したまま、魂は在り続けるのだろう。

 いつか長い時間が過ぎたとき、それが癒されることはあるだろうか――
 罪人と呼ばれる一族の血は、幾度となく転生を繰り返すことにしたこの身体には、もう残っていない。彼女が保ちつづけるはその魂。肉体は、いつも、そのたび見知らぬ誰かの胎で養われる。
 それでも、いや、だから。魂がそれを覚えている故に、彼女は天使へと謝罪する。
 謝罪しか……出来ない。

「ごめん、ね」

 うなだれて。つぶやいた。

 ――そして。

「だれ?」

 持ち上げた顔、その双眸は鋭く細められている。

 枝を。草を。
 踏みしだく足音。

 サプレスの力に満ちたこの森のなかでも、ひときわ異彩を放つ気配。
 ――いや、それは間違いもなくサプレスのそれなのだけれど、ひどく禍々しいものを内包していた。
 バルレルと同種の――それよりももっと旧く、強大な、存在だった。
「……」
 戦うか否か。
 答えは当然前者。
 そのはずだけれど。
 杖を持つ手に、支える以上の力がこめられることは、結局、なかった。
 つまりは後者を選択した彼女はそれでも、油断だけはしないように振り返る。

 ――ここもまた、道の分岐点。

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