Episode6.
「起きたか」
「あ!」
それで、わたしも我に返る。
いけない。ちゃんとご挨拶!
「あ、いいです、座っててくださいっ!」
立ち上がろうとしたクロロさんにお願いして、わたしは自分のほうから近づくために走り出した。
床にいろいろ散らばってて、ちょっと走りにくい。転ばないように足元を注意しながら、なんとかクロロさんの近くまで行くことに成功した。
う。息が荒くなっちゃった。これはこれで失礼だ。
なので深呼吸。
最後の一歩を踏み出す前にすーはーやり出すわたしを、クロロさんは別に何の表情を浮かべるでもなく眺めてる。えーと、こういうのポーカーフェイスっていうんだっけ。やっぱりポーカー強いのかな。
「あの」
「ああ」
やっと呼吸が落ち着いて、わたしは、最後の一歩分の距離を縮めた。
ぺこり。お辞儀。
「寝かせてくれて、ありがとうございました」
「…………面白いところから入るな、おまえは」
そ、そうなのかな。
起こさないで三日ずーっと寝っぱなしにさせてくれてたっていうのは、とてもありがたいことだって、わたしは思うんだけど、もしかしてこれでお礼を云うって間違ってたのかな。
ちょっとどきどきしたけれど、クロロさんは、それ以上なにも云わないでわたしを見てる。だから、先をつづけることにした。
「殺したり、放り出したり、捨てたりしないでくれて、ありがとうございました」
「――どういたしまして」
あ。
今度はうなずいてくれた。
ちょっと嬉しい。
……殺すって普通に口に出来るんだから、きっと、実行だって普通に出来る人たちなんだって、思う。でも、そうしないでくれたから、わたしはたくさんのご恩をもらってる。
云うだけじゃ全然お礼に足りてないけど、こうやって、応えてくれるのは嬉しかった。
「鍛えてくれたり教えてくれたりを、お世話にな」ります、と、続けようとしたけれど。「――なっても、いいですか?」
そう云い直した。
ちゃんと確認できてなかったし、それだったらいきなり決め付けるみたいなのはいやかなって思ったから。
「それが条件だからな」
それが正解だったのかどうかは判らないけど、クロロさんは特に機嫌を悪くしたようでもなく、手に持ってた本をわたしに見せる。
「あ」
――社会科の教科書。
そういえば、とられたままだった。
びっくり。
もしかして、もう読めるようになったとかなのかな。
え。
そうなったら、わたしが教えてもらうお返しっていうのがなくなっちゃう?
「少し目を通してみたんだが」、クロロさんは、ふう、とため息。「前知識がないものだから、まったくの意味不明だったよ」
「……そ、そうですか」
よかった、って、思うのはちょっと変だよね。
でも、これがないとわたしがお返しできなくなる。
こっそりほっとするわたしを、クロロさんはちょいちょいと手招いた。
「とりあえず、このページだけ朗読してくれ」
「えっ?」
「そこに座って構わないから」
「は、はいっ」
云われるとおり、わたしはソファに近づいた。
渡される教科書を受け取って、クロロさんと向かい合う形においてある、というかほったらかされてる? コンクリートの塊みたいなのに、すとんと座る。
いざ! と力んでページをにらみつけると、
「そこじゃない」
少しあきれた声がした。
「え?」
「書き取りたいんだ。オレにも文字が見えないと意味がないだろう」
そう云うクロロさんの手には、いつの間に取り出したのか、小さなノートみたいなのとペンが握られてた。
で、もう片方の手は、クロロさんの座ってるソファを指差してた。
「ご、ごめんなさい!」
だもので、わたしはあわてて立ち上がって、指差されてるソファへ……座る前に、ぴたりと一時停止。それから、そろそろと。
なんだか深々と座るのはもったいない気がして、ふちの、固いところにおしりを置く形。
ちらりと確認する。だいじょうぶ、膝に広げたらクロロさんからも字が見える。
よし、いざ!
「頭が邪魔だ」
ええ!?
「あ、頭がないと読めないです」
「だから――」
ぐい、と、服の首元を引っ張られたわたしは、そのまま、ぼすっとソファの真ん中におしりを落としてしまう。背中は背もたれに沈んじゃった。
それでも教科書を離してなるかって、がんばったわたし、ちょっとだけ偉い。かもしれない。
「これでいい」
「は……はい」
う、うわあ。
このソファ、ふかふかだ。気持ちいい。
えらい人だと、こういうのをどーんって独り占めできるんだ。すごい。すごいけど、わたし、こんなのに座らせてもらっちゃっていいのかな。クロロさんがいいって云ってるから、いいのかなあ。
訊いてみようと思ったけど、たぶん、それより早く教科書読んだほうがいいかなって考え直した。
姿勢を正して、うん、今度こそ。渡されたページは、もう授業でやったとこだったから、あんまり詰まらずに読めると思う。
まずは、ページのタイトルから――
「“2、水産業の」ふと気がついて、文字を一つ一つ押さえて読むことにした。「さかんな地域をたずねて”」
こくり。ノートに何か書きながらうなずくクロロさん。
続きを読んでもいいんだってことだと思って、わたしは、説明の文章に入る。
「“みなさんは、魚の名前をどのくらい知っているでしょうか。また、食べたことのある魚にはどのようなものがありますか”――――」
――――――――
――――――
――――
で。
クロロさんは、あっさり、ひらがなとカタカナと漢字というものがあり、この世界で普通に使われてる文字はひらがなかカタカナで置きかえられるっていうのを見つけたのだった。
だもので、ほんの何ページか読んだだけで朗読はおしまい。
いや、本当は一ページだけのはずだったんだけど、クロロさんが熱心に聴いててくれるし、なんだか調子に乗っちゃったのだ。
そんなこんなで、わたしは、フィンクスさんが待っててくれた部屋に戻って、ランドセルを持ってって、ノートにひらがなとカタカナの五十音の表を書いてクロロさんに渡した。
その代わりに、わたしは、こっちの世界の文字表をもらった。
そして、今度は向かい合うわたしとクロロさん。
「“あ”」
「“い”」
「“う”」
ひとつひとつ。
発音して、相手の持ってる紙の文字を指差す。
で、指差された方は、指差された文字に、自分の読める文字で読み仮名をふっていく。
「……団長。笑っていいか?」
「好きにしろ」
と云われても笑えるか、と、ガマンしてるのか何なのかよく判らない表情のフィンクスさん――ランドセルをとりに部屋へ戻ったとき、そんな動くと危ないだろってついてきてくれた――を余所に、わたしとクロロさんのお勉強会は、結構な時間つづいてたのだった。