Episode60.

 お姉さんのことを、わたし、名前と少しのお話で知っている。
 名前と、少しのお話しか知らない。
 学校で家族について作文を書くようにって云われたこと、ある。ちょっと困った。お姉さんのことはそのことしか書けないし、それに、別の世界に行ったっていうことはあんまり他の人に知られていいことじゃないって思ったから。
 おうちに帰ってお父さんとお母さんに相談した。
 そうだね、って、お父さんとお母さんは云った。

「あの子のことを知っている人は、もうあまりいないから。――書かなくていいわよ」

 寂しそうに。
 諦めたように。
 お父さんとお母さんは、わたしに云った。

 ……お姉さん。

 わたしは、お姉さんのことを書かないまま、作文を出した。発表会で朗読した。
 先生も、クラスの人も何も云わなかった。
 だって知らない。
 みんなお姉さんを知らない。
 誰もお姉さんを知らない。

 きっともう。
 わたしたち以外でお姉さんの名前を知っているのは、市役所にある『こせき』とか『じゅうみんひょう』っていう紙切れだけ。

 ……お姉さん。

 名前と少しのお話しか、わたし、お姉さんを知らない。
 みんなより知っていても、みんなが家族を知ってるより、お姉さんについて知ってることって少なすぎる。

 やだ
 そんなの、いやだ

 逢いたいよ
 お姉さんに逢いたいよ
 お姉さんを知りたいよ
 お姉さんのこと、作文に書きたかったよ

 ――だから、
 風のびゅうびゅう吹いていた、あの場所に行ってしまうまで、
 わたしのいちばんのお願いは、いつかお姉さんに逢うことだった。

 それはつまり


 別の世界に行きたい


 ……そういうことだった。


 そこにどんな、何が、動いてそうなったのか、わたしは知らない。
 でもきっと、その一部は、そういうふうなお願いを持っていたわたしの気持ちだったってこと、もうちゃんと、わたしは知ってる。
 今も、それは変わらない。
 でも。
 でも――でもね。
 それとおんなじくらい、わたしは、お父さんとお母さんに笑っていてほしいの。

 たぶんそれは、たったひとつだけ、わたしがお姉さんに勝てることだと思うから。

 泣かせないで。
 笑っててもらうの。
 わたしが、お父さんとお母さんのそばにいるの。

 お姉さんをお話でしか知らないわたしだけど、お姉さんのしてったことで知っていることもある。それはノートを残してくれたこと。そして、お父さんとお母さんのそばにいることはできなかったっていうこと。
 だから、わたしがそれをする。
 そばにいないからケンカも出来ないお姉さんの、してったことに、そうしたら勝てることがひとつだけできる。
 ――お姉さんの、していったこと。
 ――それに、触れること、できるから。
 ――それを、追い越せる、かもしれないから。
 お姉さんのできなかったこと、お姉さんのしなかったこと、それを、わたしがする。
 それでお父さんとお母さんが笑っていてくれるなら、いっせきにちょう、っていうんだ。

 思うこと、いっぱい。
 叶えたいお願い、いっぱい。
 わたしはわがままで、自分勝手で、そんなふうに叶ったら正反対になっちゃうお願いを持っていたから、こんなことになっちゃった。
 お姉さんに逢いたいことと、お父さんとお母さんのそばにいることって、同時には叶えられないお願い。
 ……そして、お姉さんに逢いたいっていうお願いは、別の世界に行かなくちゃ叶わない。そしてわたしはここに来ちゃった。
 でも、なんとなくだけど判る。
 ここは、お姉さんがいなくなった先の場所じゃない。

 そして、はっきり判った。
 わたしが叶えたいお願いは、ぐるりとまわって最初にもどる。

 わたしは、お父さんとお母さんと一緒に、わたしの生まれた世界で生きてゆく。

 ――お姉さんとおんなじことはしない。
 ――それじゃお姉さんに勝てないもの。

 いつか逢ったとき、お姉さんに怒るために。そしてケンカするために。姉妹でしかできない、それ、するために。わたしは、それを。お姉さんに勝ちたい。
 そうしてそれ以上に、家族がいなくなるっていう悲しいことを、もう、お父さんとお母さんに感じさせたくない。

 だからわたしのお願いは、
 もといた世界に、帰ること。

 もう見つけた。
 もう決めた。
 こればっかりは、どんなことがあったって、どんな人がジャマしたって。
 ぜったいに、絶対に叶えるの。

「……」
「……」

 クロロさんは何も云わない。

 わたしも、何も云わない。
 云うことはみんな云ったもの。あとは、クロロさんのお返事を待つだけ。根競べなら負けない。……さっきも思ったけど、クロロさんってきっと気が短いもん。あと、わたしがクロロさんの持ち物だっていうなら、その持ち物から逃げるとか、そういうのもあんまり好きじゃないと思う。
 うん。 
 だから、わたしは、ゆっくりと風を自分の周りにおいとくことに集中する。
 いつクロロさんが力ずく、とかしにきてもいいように。最初の一回くらい、きれいによけたりできるように。そしたらきっとクロロさん驚く。その何秒もないかもって間に、一回くらい――うん。
 その後は。
 ……考えてないけど。

 ――なるように、なるよ。
 うん。
 ――なるように、するよ。

 成るために。
 わたしは、そうするよ。
 そうするために。
 わたしは、絶対に、負けない。

 黒い風が、
「!」
 音もなく声もなく――動いた。

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