Episode61.
一撃で済んだ。それは温情なのか、ただ単に、時間をとられることを嫌ったためか。
自分でも、それはよく判らない。
娘はクロロの攻撃を回避しようとしていたようだが、それは予想のうち。先回りは腕を捻るより容易く――ちぎってもなお有り余るほどに。
コンクリートは水はけが良くないとかどこかで聞いた気がするが、それにしては、今あの娘の立つ足元に水溜りらしきものも出来ないのが不思議だ。
ぼたぼたと娘の体を伝って落ちる鮮やかな赤は、空気に触れた瞬間からどす黒く変色して、娘自身のまとう衣服とひび割れたコンクリートに吸い取られていた。
「…………」
丸っこい目をさらにまん丸く見開いて、娘は突っ立っている。
痛みはまだ脳に達していないのだろうか。
発狂しかねないだろうそれを予感した脊椎あたりが、その感覚をとどめているのでは、などとあり得ない事態を考える。
――考えて。
「――――っ、ぎ……ッ!」
にわかに血走った双眸が、ぎょろりと動いた。
獣じみたうめき声、それが悲鳴になるのも一瞬後のことだろう。
腕を落とした。
痛みに耐える訓練などしたこともなかろう娘では、果たして正気を保てまい。五分五分などとは云えない、一厘さえあるか否かだ。
悲鳴は煩いだろうな。
僅かばかりの嫌気とともに、クロロは考える。
いっそこのまま死なせてやるかとも思ったが、娘から得た能力は充分に使用価値がある。ならば殺すわけにもいかない。かといって、こんなふうに何かと帰せ帰せと突っかかってこられるのも面倒だった。
――娘の云う、娘の故郷。
クロロたちの知りえないという異世界とやらに、帰すつもりなど端からない。
そもそも、念というものがあちらでも通用するかどうか不明なのだ。それらしき修練があるだろうことは娘の話す端々から匂っていたが、こちらのように体系だてたものではないようだ。つまり、そんなわけの判らない場所に帰したことで能力が使えなくなるという可能性も充分にある。
試せば結果は出るだろうが、それきりだ。
使えるならいいのだが、使えないからと云って呼び戻す方法などない。馬鹿げた賭けだ。
仕方がない。嘆息。
マチあたりに、どこかへ繋いでおくように指示を出そうとして
「……?」
クロロはようやく、一瞬を越えた今になっても娘の悲鳴がないことに、気がついた。
そして見る。
娘がいつか夜より濃い黒だと感じたクロロの眼が、そこに立つ娘を見る。
落ちていない側の腕を持ち上げ握り締めた拳を口内にねじ込み噛み付き、いや、噛み千切らんばかりに食らいつくことで悲鳴を抑え、がちがちと合わぬ歯の根に削られる皮膚と肉の痛みで痛覚を拡散させ、落とされた腕の痛みを堪えている――堪えているのだ。あの娘は。
足はがくがくと震えている。
全身はがたがたと揺れている。
びっしょりと濡れているのは汗と、そして汗以外の体液。
とめどなく鮮血は流れている。
顔面など、生理的な涙と涎まみれ。
口にねじ入れた拳の皮膚はとうに耐久の限界を向かえ、淡い肉色と赤い血液が白い歯によってさらに削られていく。
殺しを知っている。
痛みを知っている。
だから彼らは彼ら足りえる。
知らないままに奪って殺しているような、安っぽい賊などではないのだ。蜘蛛――彼の率いる、盗賊集団。幻影旅団は。
「……」
知っている、からこそ。
クロロは、一生に数度もないだろうと断言出来る、茫然とした状態を味わうことになっていた。
ああ。
いつか自分で云ったことばを、ふと思い出す。
「――本物か」
偽物を追いかけて、壊れかけていた本物が。
本物を思い出して、立ち続けていた。
今頃水溜りの様相を呈してきた、赤黒い液体の中心で。