Episode62.

 夢は見ない。
 お父さんとお母さんの夢も、お姉さんの夢も、――わたしがいた世界の夢も。
 わたしは見ない。

 夢なんか、見ない。
 わたしの頭がつくる、都合のいいものなんか見ない。
 わたしが見なくちゃいけないのは、わたしの目の前にあるものだ。
 わたしが引き起こしたことと、そして降りかかってきた痛みのことだ。

 いたみ?
 ううん、あつい。
 熱い。

 痛い。

 熱い痛い熱い熱い熱い痛い痛い熱い熱い熱い熱い熱い熱い――

 ううん。さむい。

 だから何?
 熱くて痛くて寒くて、だから、それが何だっていうの。
 知りたいのは、こんなんじゃない。
 知りたいのは、負けなかったかどうか。
 勝てたかどうかじゃないんだよ。――負けずにいられたか、どうかなんだよ。
 黒くて深くて強い、あの風の持ち主に、クロロさんに――負けやしないんだってとこ、見せられたかどうかなんだよ。

 知りたい。
 知るためには、こんなよく判んないもの、見てるばあいじゃない。
 起きなくちゃ。
 目を開けて。
 瞼についた汗は、またたきで散らして。
 からからの喉は、唾で濡らして。

 ――起き上がれ。

「…………」

 最初に見たのは、どっかりと、わたしの寝かされたベッドの縁に腰かけたクロロさんの、真黒いコートの裾だった。
「……」
 ちょっと目を上に向ければ、首のところのふかふかした毛皮と、その上の黒い髪が見える。
 わたしに背中を向けてるから、どんな顔してるのかは見えない。少し前かがみになってるから、もしかして何かご本を読んでいるのかな。
「……」
 きっと。
 わたしが起きたことに、気がついているんだろうに。
 クロロさん、向こう見たまま。気づいてないふり、というか、こっち見ようとしない。
 ……怒ってるのかな。
 そういう風じゃ、なさそうだけど。
「…………」
 風は静かだ。
 星もない夜みたいだ。
 見上げる背中は、ぴくとも動かない。
「どうだった」
「え」
 声をかけていいのかどうか。
 目を覚ます前までの勢いを忘れて考えたわたしに、クロロさんが先手を打った。
「放っておけば死ねたよ」
 山小屋で男達に受けた暴行より、それまでの訓練なんて名目の生易しい刺激より、濃く。強く。みっしりと追い詰める。
 暗がりに。
 喪失に。
 存在を消し得るに足る、あれが死に近い痛み。
 わたしの今までで、いちばん、死ぬことに近づいた感覚。
 ――ああ、あれが。

 あの男の人たちに、感じさせてあげれなかった、人間としての最後の感覚。

「……」
 そして、ふと気がついた。
「死なせないでくれた、んですか」
「マチが怒った」
 そこで初めて、クロロさんがこっちを振り返る。
 いつものような無表情――じゃなくて、ちょっと眉が寄ってる。ご機嫌悪そう。
「帰りたいのか」
「はい」
 そのまま訊かれた質問に、すぐ頷く。
「帰りたいです」
「自分でなければ嫌か?」
「?」
 その質問の意味は、ちょっと判らなかった。
 寝たまま首を傾けようとしたら、ぐき。と骨が鳴った。いやな音。ついでに肩までそれが響いて、「いた……っ」たったの一撃で吹っ飛ばされた腕の付け根が、みしりときしんだ。
 ?
 付け根?
 腕、は?
 持ち上げようとして、その先の感覚がないことに気がついた。
「……」
 顔の向きを、クロロさんのほうから変える。
 左腕は――なかった。

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