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 ――人間、理解出来ない現象は頭の隅に押し込んでおくに限る。
 どーせ結果の出やしない思考ループ、いつまでも繰り返すだけ無駄の一言。
 銀髪の女の子のセリフは、いろいろとかなり意味深で気になったけど、“またね”とか云ってたことだし、そのときには事情を教えてもらえるように心の準備をしておこう。
 と、一応の決着をつけた衛宮は、今、西日の差し込む台所にいたりします。
 夕食のメインが鍋に決定したおかげで、とたんにすることがなくなったのだ。
 弓道部の藤ねえと桜が来るのはまだ遅いだろうし、士郎がバイトを終えて帰ってくるのはもっと遅い。
 ……とりあえず、鍋に出汁だけ仕込んでおく。
 コンロを食卓の真ん中――ちょっとだけ、藤ねえの座る場所から遠目に置いて、ひたひたの出汁を満たした鍋をその上に。
 ざく切りにした野菜や肉、餅や山菜てんこもりのお手製巾着も、今のうちに出しとくことにした。どうせ冬である、冷蔵庫並の外気で、そうあっさり腐りやしないだろう。一応カバーはしとくけど。
「…………むう」
 それで。
 本格的に、やることがなくなってしまった。
 準備万端整った、食卓の上を見てしばし悩む。
 藤ねえと桜、第一陣がやってくるまでに、はて、何して時間を潰そうか――
「うーん」
 掃除。料理に埃が降る。
 洗濯。でかぶつまわすのは日曜の予定。
 料理。済んでる済んでる。
 ――結論。
 ちょっと散歩してこよう。
 うん、とひとつ頷いて、わたしはエプロンの紐を解く。
 外したエプロンを元の場所に戻して、居間を出た。サンダルをつっかけて、庭におりる。
 そのまま、だだっぴろい庭を横切って、隅っこに建ってる土蔵に足を踏み入れた。
「おーおー、またなんか増やしてる」
 戸を開けた先には、暗がり。
 西日のおかげでぼんやりと、そこかしこにがらくたが転がってるのが見えた。
 ストーブやら、ビデオデッキやら、工具やら。果ては鍋にフライパンまで。
 わたしや士郎が持ち込んだものもあるけれど、藤ねえが突っ込んでいったのもある。
 普通の民家なら、こんなんが転がってても別に不思議じゃないだろう。――ただ、うちに関しては、ちょっと違う。
 無造作に転がしてあるがらくたのひとつ、電卓を手に取った。正確に云うならば、電卓の形をしたハリボテを。
 からからと振る。重さはほとんどない。ハリボテだから当たり前。
 中身のチップだか計算機構だかを抜かして、表側だけ体裁を整えたプラスチックの箱。
 だからがらくた。出来そこない。
 この土蔵には、そんな代物が所狭しと散らかっているわけだ。
 今はこうして足の踏み場や作業のためのスペースが確保できているけど、数年前はすごかった。
 なにしろ桜が来るようになるまでは、士郎が作り出したがらくたで、言葉どおり埋め尽くされていたのだから。
 士郎もわたしも、人様に使わせる場所には結構気を使って掃除する。屋敷の方にある部屋なんか、驚くほど殺風景なのだ。
 けど、本当の意味で自分たちしか入らない場所には実に無頓着。このへん、ふたりして切嗣に影響されたかな、と思う部分もある。
 そして、そんな場所のひとつがこの土蔵。
 何しろわたしと士郎は、ここで切嗣に魔術の鍛錬を受けていたのだから――


“僕は魔法使いなんだ”

 そう、茶化すように――だけど目だけは真剣に。
 病室にやってきた切嗣は、わたしに云った。
 彼の傍らに立つ、まだ幼い少年――小さい頃の士郎――が、わくわくした神妙な表情で頷いてたのも、ひどく記憶に残ってる。


 土蔵の扉を閉めて、床に腰を下ろす。
 弱々しいながらも差し込んでいた太陽光を遮断したせいか、なかの冷気が一段と強くなった気がした。
 だけど、おかげで意識が覚醒する。
 身体の隅々に冷気を感じて――風を感じる。わずかに開けておいた扉から、風が一筋やってきた。

 ――さて、呼吸を始めよう。

 吸う。
 大気を身体に取り入れる。
 取り入れた大気は丹田に留める。
 吐く。
 留めた大気を逃がさないよう、体内の不純物を逃がす。
 逃げた分だけ、大気を溜める容量が空く。
 吸う。
 大気を取り入れる。丹田に満ちる大源。
 吐く。
 不純物を逃がす。障害のなくなった器に、大源がここぞと満ちていく。
 ――吸う。
 大気からなんてまだるっこしい。
 満ちる大源が大源を呼ぶ。
 ――吐く。
 そのために、不純物を追い出す。
 それは大源の浸透を阻害する、わたしに満ちる小源。

「…………同調」

 つぶやく。
 瞬間、意識が切り替わる。
 この身に満ちる大源は、世界に満ちる大源。
 それはわたしの意識を満たし、個としての意識を溶解させる。
 ――解ける。溶ける。
 この瞬間、わたしは人ではなくなって、ただの世界の部品のひとつ。
 床の冷たさも、周囲の冷気も、差し込む一筋の光も、すべてわたし。
 人と物。
 生命と非生命。
 そんな区切りはない。
 境界線などどこにもない。
 何故ならこの瞬間、わたしは衛宮という個人ではなく、人間という生き物でもなく、――世界に満ちる大源に溶け込んでゆくのだから。


はたぶん、魔術を行使する者じゃない”

 大好きな切嗣にそう云われて、わたしは、茫然自失ってこういうものなんだと知った。
 同じく不向きだと云われた士郎が、それでもやり方を教わったのに、どうしてわたしはだめなのか、って。
 うん、あれは本当にショックだった。
 何しろ、士郎の料理の味が、全然判らなかったくらい。後にも先にも、あんなことは二度と経験しないだろう。
 真っ白になったわたしを見る切嗣の目が、申し訳なさそうで――ちょっとだけ嬉しそうだったのは覚えてる。
“なんでさ、ジイさん”
 そりゃ俺は下手くそだけどがんばってるし、だってきっとがんばれるぞ。
 士郎の援護は嬉しかったんだけど、それでも切嗣はかぶりを振った。
“頑張ることはいいことだよ。でもね、人には向き不向きがある。たとえば士郎、僕が君に強化の魔術を勧めたのは、君がその方向に特化しているからだ”
 理屈はわかった。
 つまり、わたしは根本的に魔術と相容れないのだと切嗣は云いたかったわけだ。
 ――まあ、当時幼かったわたしに、こんな難しい思考ができたわけはない。
 結局――衛宮は魔術師ってものにはなれない、そう断定されたのだと察することだけは出来たのである。


 意識は大源に溶けてゆく。
 大源は大気に満ちており、そこにわたしという存在が溶けてゆく。
 身体はここに、この土蔵に。うち棄てられた人形のように、ぴくりともしないまま存在している。
 それを外側から見るのだ。いつ見ても、なんというか、おかしい。
 だけど、わたしは動く。
 外から見ているわたしの視線を感じながら、外からわたしを見下ろしながら、わたしはわたしの身体を動かす。
 さあ、唇を持ち上げろ。
「――融和」
 満ちよ。
 満ちよ、満ちよ。
 世界に満ちる大源よ、この虚に満ちよ。
 空櫃に満ちよ。
 虚ろなるこの器を満たし、境界を溶かし、わたしはあらゆるモノとの境を失くす――――


 切嗣は云った。
 ある夜、縁側に腰かけ、両側の子供たちの体重を預かりながら、その子たちに云った。
“士郎は僕に逢うまで、何の訓練も受けてなかった。魔術の才が――ほんのちょっとだけど――たしかにありながら真っ白な状態。だから、僕がその手をとってやることが出来た”
 でも、と、彼は続けた。
 夜空にぽっかり浮かぶ、まあるいお月様を見ながら、うたうようにつぶやくように。
は違う。僕に逢う前から、君の力は、もう方向性が決まっていたんだよ”
 片側の子供の周りに踊る風の動きを見て、彼は目を細める。
 衛宮が衛宮でなかったころ、受けた手ほどき。それが、風の理由。そして、切嗣の笑みの理由。
“魔術というのはね、大源や小源を制御……従わせて成すものだ”
 士郎が首を傾げる。
のちからは違うのか?”
“引き込むものは同じだよ。だけど、そのあと作る形が違うんだ。だから――”

 ――だから僕はね、は制御する者じゃなくて、調和する者になればいいと思うんだよ。


 切嗣が教えてくれたのは、衛宮が『風』として認識していた『大源』を呼び込み、身体に満たすことだった。
 基本的に、その、大源に触れるというのは魔術でも同じなんだという。
 で、その先につくるカタチを、魔術と違う何かを、見つけろと。
 そして、出来れば、ここから先の力のつくりかたは自分で見つけろと。
 もちろん、魔術師である切嗣にそれが教えられるわけがない。
 と云って、はいそうですかと見つけられるほど、わたしは天才さんだったわけじゃない。
 故に。
 わたしの魔術――正確には違うんだけど、最初の一歩だけは同じだからそう云うことにしてる――の鍛錬はというと、士郎の横でひたすら、周囲の大源や彼の小源とそこに生まれる魔術回路の流れを読むことばかりだった。
 こんなふうに、満たした果てに世界に溶け込むような感覚を得られるようになったのは、ほんの1、2年前のこと。
 切嗣が亡くなった今では、これがどれほどの進歩なのか判らない。
 判らないけれど、なんとなく、二次元で平面の意識が三次元という多面体を構築して広がっていく感覚が好きだから、まあいいかと思う。
 それに、これにはなかなか楽しい一面もあるのだ。
 目を閉じたままのわたしが、くすりと口の端を持ち上げた。
 さあ、最後の一文を紡いで散歩に行こう。
「――飛泳」
 パチリ。
 意識が切り替わる。
 まるでドラマの場面転換みたいに、わたしの見ているものが脳に直接投影される。


 そこは、うそ寒い野原だった。
 ああ、もう夜なんだ。
 闇の帳に包まれた空や、そこにまたたく星。天上のそれをかき消さんと溢れかえるのは、地上で輝く人工の光。
 草と枯れ木の向こうに群生しているビルの屋上から、光が一定の間隔をおいて点滅している。
 だけど、その光の大群でさえ、この場所には侵蝕できず、あえかな灯りを提供するのみ。
 新都の中央公園。
 かつての大火事で焼け野原になった一帯を整備して出来たのが、この公園だ。
 そのわりに、昼間でも人の姿があまりないのはこれいかに。
 単に広すぎて閑散とした印象が強い、というのもあるんだろうけれど――
 ……むう。
 それにしても、と、わたしは、ない腕を組む真似をしてみた。
 こうやって切り替えた意識で、わたしはこうして散歩をする。もちろん瞬間移動なんて出来るわけはないから、肉体は衛宮家の土蔵にほったらかしたままだ。
 具体的にどういう理屈なのかわからないけど、まあ、幽体離脱に近いものがあるんではないだろうか。
 柳洞一成のお父上である柳桐寺の住職さんのところに行ったときには気づいてもらえなかったから、やっぱり微妙に違うんだろうな。
 いや、それはともかく。
 寒々しい薄闇を見渡して、わたしはため息をつく。
 昼間でさえ――いやもう出来ることなら出来る限り――近寄らないようにしているこの場所に、なんで今日に限って来ちゃったんだろう。
 ここは……この場所は、好きじゃない。
 何故なら、この一帯にはかつて、わたしの家があったのだ。
 ……
 …………
 ――おっと、いけない。
 過去の記憶に――それを保有する肉体に――引きずられそうになった意識を振り払う。
 せっかくうまく漂ってるのに、気に入らない場所に来たからって戻っちゃうのは、なんか悔しい。
 故に、わたしは早々にこの場を離れることにした。
 ――そういえば、士郎、今ごろ店にいるのかな?
 時間が時間だし、ちょっと士郎の仕事振りを見学に行くのも悪くないかも。
 うん、そうしよう。
 いざゆかん、輝く人工の光のなかへ。
 くるりと、肉体の感覚で云うなら身を翻す。景色が動く。わたしが動いてるはずなんだけど、その感覚はなく、電車に乗って移り変わる景色を眺めてるような感じ。
 よしよし、ゴーゴー。
 スムーズな移り変わりに上機嫌。意味もなくかけ声を思ってみて、直後、わたしは移動を止めた。

 走馬灯めいた景色の残像のなかに、印象的なひとたちがいたのだ。

 赤。赤。赤。
 真っ赤っか。
 これほど、赤が似合うひとたちっていうのもいないんではなかろうか。
 艶やかな黒髪を夜風になびかせ、颯爽と歩く少女。
 その傍ら。まるで彼女の護衛みたいについてゆく、あきらかに人ではないと思われる、褐色の肌の男性。
 この状態のわたしっていうのは、ひどく感覚が研ぎ澄まされる。意識だけで散歩してるようなものだから、っていうのもあるけど、大源に触れるものはたいていそれを通してみることが出来るのだ。
 例えば、普段なら決して見ることのない霊的存在とか。
 あの褐色の男性は、その部類だ。……おそらく、ただの霊ではないんだろう。
 人の身では制御することさえ難しいだろう、それどころか十割中九割九分九厘の確率で肉体を四散させかねない魔力が、彼の身体の隅々にまで満ち溢れている。
 彼を構成する大源に溶けてるからいいようなものの、生身で対峙なんかしたら、魔力に中てられて馴染むのに時間かかりそうだ。馴染む機会があるのかは、謎だけど。
 ――……
 士郎のお仕事見学は、中止。
 わたしは、道を行くそのひとたちに、こっそり並んだ。
 なんでそんなことしたかっていうと、理由はひどく簡単。
 何しろ、男性のほうはともかくとして、長い黒髪をなびかせる彼女のほうは、わたしの知っているひとだったのだ。

 ――彼女の名は、遠坂凛。いつか桜と話した、わたしの憧れてるひと。

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