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 それは、彼にとってひどく奇妙な感覚だった。
 マスターである彼女に、聖杯戦争の舞台となる冬木市を案内されながら、アーチャーは我知らず笑みを浮かべていた。
 彼がまだ人間であったころ。
 彼がまだ理想に裏切られる前。
 ここにたしかに彼はいて、笑い出したくなるほど馬鹿げた理想を掲げていた。
 磨耗しきったはずの記憶が、マスター――凛と名前の交換をした瞬間、堰をきったように鮮やかになって。
 故にこの街を知っていると思う反面、自分ではない自分がここに在るということから、初めて冬木市を訪れたような感覚も同時に覚えている。
 その矛盾に笑う。
 だが、これくらいならかわいらしいものだ。

 何故なら彼は此度の召喚において、遥かに強大な矛盾を生み出そうとしているのだから。

 それは願い。
 人の身より英霊に昇華し、霊長の抑止力としてただ動いてきたアーチャーの抱く、唯一の希望。且つ絶望。
 だが、と。アーチャーは凛を見る。
 磨耗した記憶のかけらには、彼女に対して抱いていた感情もが含まれている。
“ええ、後悔させてちょうだい、アーチャー”
 絶対服従、など無茶な命令で令呪をひとつ消費した挙句、彼の挑発にあっさり笑顔でのってみせた彼女。遠坂凛。
 鮮やかなその笑顔、そしてまた今、真っ直ぐに前を見て歩くその姿。
 ――ああ、そうだな。彼女が、私の憧れだった。
 聖杯戦争は、まだスタートしていない。
 そんな感傷めいた感情に、今くらいは、浸っていたところで罰など当たるまい。
 この身には、罰などすでに、むせ返るほどに浴びせられている。
 ともあれ――と、アーチャーは思う。
 姿を消してついていたのは幸いだった。
 弛む表情を、凛に見られずにすんだのだから。
「――ム?」
 だが、それも一瞬。
 親愛のこもった微笑は、またたく間に、敵の襲来を察した戦士の表情になる。
 凛。
 呼びかけようとして、留まった。
 何の前触れもなく横に並んだ気配には、敵意が含まれていないことに気づいたからだ。
 いや、敵意どころか警戒もない。
 なんというか、好奇心剥き出しの小動物にまとわりつかれているような感じなのだ。
 けれど、アーチャーは首をひねる。
 その小動物めいた気配の主が、どこにも見当たらないのだ。
 この身は霊体であり、サーヴァントである。
 ならば同じサーヴァントの存在は感知できるし、そこらに漂う雑多な霊たちをとなれば、それ以上に容易い。
 人の手の及ぶ範囲を大きく超えた存在、そのサーヴァントをして存在を知ることの出来ない相手とは、何者か。
 怪しい。
 非常に怪しい。
 本来ならここで警戒線を発動すべきだろうが、アーチャーにそれは出来なかった。
 楽しい。
 意外。
 嬉しい。
 何々?
 おもしろそう。
 彼と凛の周囲に漂う気配は、ただそれだけを抱いて彼らに併走しているのだから。――気も抜けようというものだ。
 ……やれやれ。
 今の自分になってからこっち、初めて浮かべるであろう苦笑。
 表情はそのままに、アーチャーは、隣を歩む気配に語りかけた。
「どこの誰かは知らんが――夜の散策に付き合うのなら、姿を見せんというのはいささか失礼じゃないかね」
 気配が、ぱちくりと目を見開いた。見えたわけではないが、本当にそう感じたのだからしょうがない。
「どうかしたの、アーチャー?」
「いや、なんでもない」
 ほとんど呼気だけの囁きだったが、僅かに凛にも届いたらしい。
 小さな声で問う己がマスターに応え、アーチャーは、ク、と喉を鳴らした。

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