- 夜も遅い。 部屋に戻って本を開いたものの――うつらうつらとしていたわたしは、襖を叩く音で覚醒した。 「士郎?」 四つん這いで入り口の方に移動しながら見上げた時計は、部屋に戻ったときからそんなに進んでいなかった。 風呂に入ると云ったわりに、士郎は、さっと汗を流すだけで終わらせたらしい。 襖を開ける。 部屋の灯りが、その開けた幅分、廊下にこぼれた。一部を遮るのは、その前に立った人影だ。 その影の主がしゃがむ。四つん這いのままのわたしと視線を合わせて、タオルをひっかけた士郎が笑っていた。 「なんだ、もう寝てたのか?」 「ううん、まだ」 そう云って、机の上に広げっぱなしの本を示してみせる。よだれが落ちてないよーに祈りつつ。 「士郎、今から鍛錬?」 バイトで疲れてるはずなのだが、もはや日課ともいえる魔術の鍛錬を士郎が怠るはずがない。 そしてそのとおり、彼はわたしのことばにこくりと頷いてみせる。 「片付けも終わったしな。遅くなったけど今からやって、そんで寝る」 ――は? 「士郎に付き合ってから寝る」 視線での問いに、立ち上がりながら答えた。 一度部屋に戻って、電気を消す。 そのまま、ふたりして縁側から庭におりた。 夜の闇に白い吐息を織り込みながら、向かうは土蔵。 夕方わたしがやった散歩も鍛錬といえば鍛錬だけど、士郎と一緒にやるときは、また別のメニューがある。 それに、多分これからしばらく、わたしが散歩に出ることはないだろう。あの男の人に云われたことばが、なんとなく気にかかるのだ。 前を行く士郎の背中を見る。 家族になった頃はわたしより背が低くて細っこい子だったくせに、今じゃ身長も身体つきも大きく離れてしまった。 男女の差といえばそれまでだし、立派(?)になってくれて嬉しいのはたしかだけど、なんとなく、置いていかれたような寂しさもある。 「?」 「あ、ごめん」 庭の途中で突っ立ってたわたしを、土蔵の前から士郎が呼んだ。 あわてて、彼のところに走る。 「ほら、閉めるから早く入れ」 駆け込んだわたしの背を抱くようにして、中に押し込まれた。朝は腹で夜は背か。――にしても、うう、腕もすっかり逞しくなってからに。 なんてぼやきを最後にして、意識を切り替えた。 士郎の鍛錬は、わたしのそれより遥かに厳しい。もっとも、魔術師でも魔術使いでもないわたしのそれと比べるのが、筋違いかもしれないが。 ともあれ、付き合うと云って来た以上、他に気をとられてしまっては失礼ということで。 そして灯る薄明かり。 床に転がるがらくたを避けて、ふたり、向かい合って座る。 士郎は無言。 わたしも無言。 数秒後。士郎の手が、床に転がる木刀を掴む。次に目が伏せられた。 ――はじまりだ。 「――同調開始(トレース・オン)」 これが、衛宮士郎の魔術。自身を、ただ魔術を成すための装置と化す、第一句。 呪文は合言葉のようなものだ。ことばはなんでもいい、自己の改変を行うに一番そぐうものであれば。 そして、士郎の呪文はこれ。 物質の構成を読み取り、材質を模倣し、そこに魔力を流し込む。 この最初の一歩として、これほどそぐうことばもないのではなかろうか。 「――、ぐ」 士郎の表情が苦痛に歪む。 イメージするのは灼けた鉄の棒なのだと、士郎は語る。 それをゆっくりと背中に突き刺し、外部の魔力を取り込んで体内に回路を生み出すんだと。 「つ……あっ……」 ぎちり、と、士郎の肉体が軋みをあげる。 魔力というものは、普通の、健常な肉体を持つ人間にとっては毒素でしかない。――その理屈で行くと、その魔力に殊更の苦労もなく馴染むわたしというのは、いったい何者なんだろう。 切嗣は、“そういう体質もあるんだよ”などと、至極お気楽にぬかしてくれたが。それでわたしが納得できないでいると、“大源は、人の身体で魔力として用いられるときに変質する。毒となるのはその状態になった大源なのであって、そもそも、大源自体は生命を脅かすようなものじゃないんだ”――最初からそう云ってくれれば、切嗣、わたしに蹴られずにすんだのに。 「――づっ」 士郎の額に浮かぶ脂汗。またたく間に、それは水滴となってしたたり落ちる。 ……イメージするのは灼けた鉄の棒なんだと、士郎は云う。 それをゆっくりと背中に突き刺していき、外部から魔力を取り込むのだそうだ。 脊椎に分け入っていく、灼熱の鉄塊。たかだか数ミリずれただけでも、その魔力は士郎の身体を灼き尽くす。毎日の鍛錬、なんて気軽に云っているこの行為は、常に死と隣り合わせにある苦痛と危険を孕んでいるのだ。 ――そうしてわたしは、その魔力の流れを見る。 士郎が鉄の棒としてつくりあげた魔力回路。そこに注がれた魔力が、彼の神経を苛みながら循環し、手に持つ木刀に注がれてゆくのを視覚する。 それは、わたしの馴染む大源とはすでに質を異にするもの。 人の身を介して生産されるくせに、その肉体をして拒絶反応を生み出す矛盾した力。 ただ、その流れを見る。 「――――」 一筋。 強化するために必要な量以上の魔力が、木刀に流れてしまった。 27個ある士郎の魔術回路、それが小さな火花を上げる。 直後、 ――ぱきっ、 軽い音をたてて、木刀が折れる。 強化失敗。 でも、日常で起こすミスみたいに、照れくさそうな笑みは出ない。自らの背中から魔術回路――鉄の棒を引き抜くまで、気を弛めるなんてことは出来ないのだから。 だからわたしも、普段のように茶化したりしないで、折れた棒とはじけた火花をただ眺めた。その前で、再び士郎が魔力を集め始める。 「――投影開始(トレース・オン)」 ――ああ。すぐに気づいた。あれをやるつもりなんだ。 折れた木刀はとうに床に放られて、今、士郎の手は空っぽ。注ぐ対象などないはずのそこに、魔力がゆっくりと集っていく。小さく弾ける火花、収束してゆく魔力。エネルギー体であるはずのそれが、徐々に実体をつくりだす。 「――同調解除(トレース・オフ)」 そのことばと同時に出来上がったのは、折れたものと寸分違わぬ木刀。 そうして、士郎は魔術回路を閉じる。使い終わったものは片付ける、そういうこと。入れるときと同じくらい、いや、それ以上の時間を要して、背中から鉄の棒が抜き出されていった。 「――ふう」 「お疲れさま」 「また失敗しちまったなぁ」 折れた木刀を眺めてぼやく士郎の手には、今しがた“出来上がった”木刀。シュールな光景である。 あらかじめある物質を強化するよりも、一から自分で作り出したほうが楽、とは、当の士郎の弁である。今おこなったことは、まさにそのことばを体言しているというわけ。 実際、士郎が最初に成功した魔術は強化ではなく投影。これならば投影の訓練からやれば、ぽんぽこ日用品の量産が出来て家計的にオッケイなのではないか――とか思われそうだが、あにはからんや。士郎の投影は、なんというか、“偏って”いるのである。 こないだビデオデッキを投影してみたときには、立派なプラスチックの箱が出来た。中身はすっからかん。 コップとか箸とか、そーいう単純なものなら成功率も高いんだけど、機械類とかはてんでダメ。加えて、魔力製ということもあっていつ壊れるか判らない。 それに、一々死ぬような思いをして作り出すより直素直に買い物したほうが遥かに手っ取り早いだろうし、効率的にはともかくとして、実用的には強化の訓練をしたほうがいい――そんな切嗣のことばもあったし。で、こうして現在に至る。 「ま、いいか」 ほれ、と、士郎が、つくりあげたばかりの木刀をわたしに寄越した。彼が魔力で編み上げたそれは、元々のものと変わらない質感と重量。 でも、 「――解析開始」 それが魔力で編みあがったものなら、わたしはそれを読み取れる。……そして、それがどんなに完璧な、一糸の乱れもない完成品であったとしても、 ――結点解明 遠い昔、ある人がわたしに教えてくれた。 それがたぶん、わたしの世界を創ったんだろう。 “すべてはひとつでひとつはすべて” 魔術師は、元素を操る。 代表的なもので、火、水、風、土。あと、光や闇。 だけど、その人が云ったのは。 もう、何がなんでもどれがあれでも、起源はひとつ、ってこと。 有機物も無機物も関係なしに、存在するものはすべて、細かく細かく解いていけば、大元のひとつに辿り着く、ってこと。 ならば。 ――離解開始 その網目をほどく。 破壊してしまわないよう、ゆっくりとほどく。 ぎっちりと編みこまれた魔力の糸を、丁寧に丁寧に解いてく。 「……っ」 魔力を読むということは、魔力に触れるということ。 さっきまでの士郎と同じように、ぎしり、と肉体が軋んだ。木刀に触れている手の部分が、特に激しい。――ほどいた魔力をそこに一時留めているんだから、当然なんだけど。 「く」 残念。一部引きちぎった。 解き損ねた木刀の欠片が、頬をかすって飛び散った。 ……偉そうなこと云っても、わたしは、その人が云っていた大元に辿り着けたわけじゃない。出来るのは精々、大元に近いモノであろう大源や小源に融和することと、すでに編みあがった魔力をほどくことくらい―― ――素材還元 木刀はすでにない。 その代わりというように、淡く輝く魔力の塊が、わたしの手のひらで漂っている。 それが消えてゆく。 夏の終わり、川辺の蛍の群れが、ひとつ、またひとつとその輝きを夜に溶かしていくように。波にさらわれて崩れる、砂の城のように。 士郎の編み出した魔力の造物は、大源に戻って大気に溶けた。 目を開ける。 そう強くない灯りの下でも、異物を通過させた手のひらが真っ赤になって異常を訴えてるのが見えた。じんじんと、発熱もしてる。 士郎の感じる苦痛に比べれば微々たるものだろうけれど、それでも、この感覚には決して慣れることは出来ないと思う。魔力量が少ないから手のひらだけですんだものの、もしも、伝説に曰くの大魔術の産物なんか分解したら、全身こんな目に遭うことになる。――まあ、今の世の中、大魔術が飛び交うような出来事なんて、そうそうあるわけもないんだけどさ。 「――ふぃ」 爛れた熱ごと最後の一砂を振り払って、ようやく一息。 「お見事」 顔をあげると、愛すべききょうだい様が、にっこり笑って拍手してくれた。 「いやいやいや」 士郎も結果オーライ。 「うわ、ひでえ」 照れつつも褒め返してあげたら、いたく傷ついた表情をされた。なんでさ。 ――とまあ、こんなふうに偏った魔術(しかも片方は魔術論理で行ってるわけじゃない)を使うのが、衛宮士郎と衛宮っていうきょうだいなのである。 たぶん、本家の魔術師……遠坂さんあたりから見れば、失望を通り越して絶望さえされそうな、もはや三流の人にさえ申し訳ない三流魔術師(以下)。 せめてもうちょっと長く、切嗣からいろいろ教えてもらっていたら。そう思うこともあるけれど、師匠も他の魔術師の知り合いもいないへっぽこ見習いが自助努力だけでこつこつと切り拓いた先にだって、きっと何かがあるはずさ。――遠回りになったって、気にしない。それが、衛宮の名をもらった、わたしたちが選んだこと。 家族になってから三年の間、魔術の基礎だけ流して教えてあとは年のほとんどを海外に出ていた切嗣への恨み言は、だから、たまーに思うだけ。 そんなこんなで鍛錬終了。 「おやすみ」 「おやすみー」 明日は寝坊するなよ、とわたしの額を軽く小突いて、士郎は自分の部屋に戻っていった。 ちょっぴりプライドが傷ついたけど、そこはほら、女の度量で流してあげることにする。まったく、もう少し心の機微ってものに通じなさい、士郎。 「あ」 布団に転がって、ふと。 まだ、士郎に遠坂さんのことを話してないって思い出した。 むむむ。 切嗣は土地の管理者にナイショで住んでる魔術師だったわけだし、もし遠坂さんが正規に許可とって住んでる魔術師だったら――って、九割方そうなんだろうけど。潜りの魔術師なんて、そうそうご近所にいてたまるか――、下手に薮蛇つついて切嗣のコトまで突っ込まれるのはちょっと面倒かもしれない。 「……むう」 でも、士郎に隠し事は気がひける。 「うーん」 それとなーく、外堀からじわじわと話題展開してみるべきか。 「んー」 となると、どこからとっつきを見つけるべきか。 「……」 などと考えているうちに、わたしの思考はだんだんと細切れになり、 「ぐー」 布団のぬくもりと睡魔のお誘いに、意識を手放してしまったのであった。 |