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 それは、本当に唐突に、彼の身に襲いかかってきた。
「――――何……!?」
 自室にて一人、書をめくっていた彼を襲ったのは、彼が得意とする心霊医療のそれに酷似していた。
 内側から手を突っ込まれ、引っ掻き回されるような感覚。
「ぐ――!?」
 二本あるラインのうちの一本から、それはやってきていた。
 みちり、と、肉を掻き分け神経を押しのけ、その手はラインの基点へと進んでいく。
 強固に編まれてた魔力の糸――彼と従者を繋ぐラインを、その手は自らが傷つくことを塵ほども厭わず、つかみ、引きちぎっていく。
 心霊医療などと上等なものではない。
 これは、ただ、力任せに剥ぎ取っているだけだ。
 だが、それだけに抗い難い。
 たかだか一筋の糸を通じて、その手は、彼の腕にある印を剥がしていこうとしているのだ。
「――ランサー、何をしている……!?」
 糸は、すでに半分以上が切断されている。
 びくんびくん、己の意思を無視して跳ね上がる腕を抑え、彼は低くうめいた。 
 繋がりは相当薄れているらしく、それに応えるはずのかの従者の声は彼に届かなかった。いや、応えたかどうかも定かではない。
 何しろ、従者は、彼を蛇蠍のごとく嫌っているからだ。
「――く……ッ」
 近辺に、この力任せの攻撃を行っている相手がいるのならまだしも、所在もはっきりとしないのでは、彼の出来ることといえば、印を剥がさせぬよう抵抗することのみ。
 だが、引きちぎられていくライン、そして印を抑えこもうと腕に意識を集中した瞬間。

 ――そういや、こういう命令があったな。

 十のうち、残り一。
 それだけ残ったラインを通じ、従者の零したつぶやきが彼に届いた。

 ――“主替えに賛同しろ”……令呪の絶対命令。

 百年の仇敵を討ったときのような、そんな晴れやかな声。

 ――ああ。それじゃあ仕方ねえよな。今回の主替え、賛同してやるさ――!

 そのことばが、おそらく決め手。
 届いたそれの残滓が消えるより先に、彼の腕から、最後に残った接点が引きちぎられる――その先にある印ごと。
 どこの何者とも知れぬ手が、戻ってゆく。
 が、彼にそれを追うすべはなかった。
 ラインが繋がっているときならまだしも、千切られた今となっては、遠ざかってゆくその気配の方向を確かめるだけで手一杯であった。

「……戯けが……」

 いつの間にか額ににじんでいた脂汗を拭い、彼は、壁に背中を預けた。それでも膝を屈さないのは誇りか、それとも別の理由か。
 荒い息を数度繰り返し、彼は、知らぬうちに蹴倒していた椅子を立て直すと、そこに腰を落とす。
 そうして初めて、部屋の戸口を――そこに立つ、顛末を眺めていた男を振り返った。
「いつ来た。……見ていたのか」
「まあな。や、なかなかに面白い見世物であった」
 苦々しい彼のつぶやきとは正反対に、その男は、くつくつと喉を鳴らして笑う。普段は滅多に表情を見せぬ鉄面皮が、こうまで焦ったのだ。面白くないわけがない。
 だが、一度は崩れたかに思える鉄面皮はやはり健在だった。
 彼は小さなため息と引き替えにそれを取り戻し、戸口に立つ男を改めて一瞥する。
「笑い事か――サーヴァントを介して令呪を辿られ、挙句奪われたのだぞ。キャスターがランサーに肉迫出来るはずがない、となれば必然的に第二の契約解除者が存在することになる」
「ふむ。それはそうか」
 頷きつつも、だが、男の笑みは消えない。
「が、サーヴァントどもの戦力確認という点において、目的はほぼ果たしていたはずだ。今さら、あの程度の者が離反したところで何の支障がある?」
「支障はないな」
 そのことばに、あっさりと彼は頷いた。「そうであろう」と、男も満足げに目を細める。が、
「ない、が――」
 続く彼のことばに、またたく間に不機嫌になったらしい。眉宇が顰められ、視線が険を増す。
「ないが? が、何だと云うのだ」
「……解せん」
 彼は自らの腕を、男に見えるように掲げ上げる。
「遠慮も加減も知らん、実に乱暴かつ暴虐かつ有無を云わせん暴れ方でラインを切られた。令呪を剥がされた。――にも関らず、過ぎてみれば一筋の傷もない」
 肉体ではなく、霊的な面へ触れることになる心霊医療は、細心の注意と極限の集中、隙を許されぬ技術を必要とする。それをもって初めて、肉体を損傷させずに霊的因子のみへの干渉を行うことが出来るのだ。
 それを技とする彼だからこそ、この矛盾は見過ごせない。
「ここまでされれば、腕としての機能が失われても不思議ではない。だが、今回においては一切の後遺症が残っておらん。散々暴れておいて、結局はそのまま。実に矛盾している」
「それで?」
「しかし矛盾しておらんのだ。あの手は、私の腕に本来はない外付けの異物――この場合は令呪だな――を剥ぎ取っていっただけなのだと、そのためだけの嵐であったのだと考えると、この結果こそが当然なのだろうと思うのだよ」
「つまり何か。わけの判らぬモノにわけの判らぬ方法で下僕を奪われた、そう云いたいのか?」
 つまらなさそうに説明を聞いていた男だが、続く彼のことばに、表情を改めた。
「世界のようだと云いたいのだ」
「――世界?」
「云うなれば天災のようなものか。地震、噴火、嵐――様々に暴れ狂うあれらは、だが去ったあとを見てみると世界には傷をつけておらん。甚大な被害を受けるは、その上に蠢く人間どものみ。この腕の異物のみを奪い、それ以外は何も影響を与えず去っていったあれは、それに似ていると思った」
「……自然である、ということか」
「ふむ」
 その喩えが適切かもしれん。
 そう云って、彼は腕を組む。
「――が、それではその手の主はどうあっても魔術師として存在しているわけがない。ならば何を理由にランサーがそれに接触したのか……」

 ともあれランサーを奪われたのは確かなのだ、今後の動きを少し見直さねばならん――

 そうつぶやいて考え出した彼を一瞥し、男は部屋を後にした。
 特に用があったわけではない。何の気なしに足を向けてみただけだったのだが、それなりに面白い見世物を観ることが出来た。判じ物めいた言動に対して覚えた苛立ちは、それで帳消しにしてやろう。
 ――それに。
「…………矛盾なき自然か」
 中庭に踏み出した男の髪を、夜風がふわりと舞い上げた。その道筋を辿るように視線を動かし、夜空を見上げる。
「自然に矛盾として留まり舞う風なら――――記憶にあるな」
 一所に留まるなど、ありえない風が。
 そここそが居場所なのだと云うように、矛盾を矛盾と感じさせない自然さで留まっていた。
 閉じた瞼に映るのは、夜の闇に囲まれた中庭の残像ではなく、赤く盛る業火。黒く爛れてゆく大地、呪いと怨嗟に塗れた大気、泥に飲まれる己。
 そのなかを。

 ――駆けてきた、あれは――――

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