- ひょい、と傾がせたランサーの上半身があった場所を、ずあっと風が薙いでった。彼のマスターが、衝動昂じて立ち上がったのだ。 見上げた顔は真っ赤。かつ涙目。 ……あー。なんだかなあ。 何を思い出したのか一発で判ってしまうあたり、なんともはや。ランサー限定ではあるけども。 「え」 そして、セイバーの目はまん丸になる。 まさか二人が二人とも、意図せずサーヴァントとの関りを持ったとは思いもしなかったのだろう。ランサーにしてもアーチャーのマスターにしても、事前に聞いていなければ――片方は体験していなければ――何の冗談かと思ったに違いないのだから。 ……それをセイバーに教えなかった、もう一方の二人も二人だが。 「では……」、 震える声で、セイバーが問う。 「もしや、貴方も意図せずサーヴァントとの契約を行った……と?」 「そうらしいわ」 答えるのは、アーチャーのマスター。 いい加減疲れてきたのだろうか、ぐったりと腕を組んで投げやりに告げる。 「きょうだい揃ってサーヴァントと偶然契約しちゃうなんて、まったくどこの喜劇よ」 しかも! 「かたや最優のセイバー、かたやアーチャー追い詰めたランサー! うっわ、もうなんか腹立つわねあんたら! うちのなんか茶坊主やってたつーのにッ!」 前言撤回。元気余りすぎ、この嬢ちゃん。 「アーチャーに何したんだあんた」 「起きたらやってたのよ」 「…………」 さすがに呆れたランサーの問いに、アーチャーのマスターは真顔で答えた。 セイバーの顔色がどんどん悪くなっていく。 そこに、少年の声が割って入った。 「とにかくこんなの、はいそうですかって戦えるわけがない」 だいたい、遠坂はなんだってこんなバカげたものに参加してるんだ。 む、と。 責めるような視線を受けて、だが、アーチャーのマスターは揺るがない。その佇まいこそ、まさに魔術師。感情の起伏は努めてなくし、常に冷静に沈着に。 そうしてそのとおり、アーチャーのマスターは淡々と告げた。 「そりゃ、勝つためよ」 「――――は?」 勝つため? 「聖杯を得るためじゃなくて、勝つため?」 言外のそれを正確に読み取って、彼のマスターがつぶやいた。 「そう。隠すようなことでもないから云っちゃうけどね。私の目的は聖杯で何かを叶えることじゃなくて、魔術師同士の戦争に勝つこと」 「――えーと。それってつまり」 「ああ、だったら戦わなくてすむなんて思わないでね。あなたたちがマスターである限り、最後の一組になるまで私たちは戦わなくちゃいけない敵同士よ」 一瞬綻びかけた不本意マスターふたりの表情は、あっさり撃沈される。存外、楽しんでる節があるんでなかろうか、アーチャーのマスターは。 「その手に令呪がある以上、あなたたちはマスターよ。いくら戦いたくないって云っても戦わざるを得ないんだからね」 「……令、呪」 あえかに輝く紋様を、二人が呆然と眺めている。 少年は左手、少女は右手。 微妙に違いのある紋様は、彼らがたしかにマスターである証。彼らが知らずとも、それをサーヴァントは知っている。 ――立ち尽くしたまま声もなく己が手を眺めていた少女が、ちらりとランサーを見た。 「……あ……じゃあこれ、元のマスターさんに」 「やなこった」 そう来ると思っていた。 腕を伸ばして、むんず、と少女の手をつかむ。自分のそれより遥かに小さな手のひらは、それですっぽりとおさまった。 「ちょ、ランサー」 「サーヴァントにマスターを選ぶ権利はねえ。どんな嫌な奴でも喚び出されりゃそれまでだし、令呪使われりゃ命令には絶対服従だ」 令呪? 首を傾げさせたその疑問は、あとでアーチャーのマスターにでも解消してもらおう。 とりあえず、今優先すべきはこちら。 握りしめる手に少し力を込めて、ランサーは少女を引っ張った。元気に叫んではいたものの、あの戦闘からこちら、体力が回復しているはずもない。大した抵抗もなく、少女はぺたりと座り込む。 「――それでもな。俺はあのとき、かなり真剣に、あんたにこのままマスターになってほしいって思った」 「……なんで」 「前のマスターが死ぬほどいけすかねえ奴だったってのもあるが……そうだな、何でかって云われりゃ、あんたがかっこよかったからかな」 触れた手のひらから、伝わる熱。 体温だけではない、それは、ほのかに伝わる令呪の波紋。 “主替えに賛同しろ” 汚泥を舐めるようなその命令に、感謝するときが来るとは思わなかった。 「……あ……いや、違、あれは、その、必死だったから」 真正面から褒められることに慣れていないのか、少女はぷすぷすと煙をあげつつ目を逸らす。 ランサーは、彼女にこれ以上を告げる気はない。 彼女の手で令呪を剥がされた前のマスターのこと、そのマスターの手から守りきれなかった最初のマスターのこと。 ――そのとき、どれほどの衝撃が走ったか。 おそらくは彼の武器を分解しようとしたのだろう。伸ばされた虚の手は、けれど、そこに辿り着くより先に、彼の周囲にある彼以外の魔力に突っ込んだ。 それこそが令呪。サーヴァントとマスターを繋ぐ、どちらの存在にとっても外付けの異物。 落下の一瞬、少女はその九割を引きちぎった。聖杯によって用意された儀式の一端を、彼女は自身の力だけであらかた砕いたのだ。 ――そのとき、どれほどの期待が生まれたか。 残るは一割。 たかが一割でもラインはライン。放っておけばすぐに繋がりは修復される。 だから。 そのとき、どれほどあの命令に感謝しただろう。 そして、最後の一割を、命令を逆手にとって引きちぎったその瞬間。 死に体でなおも立ち上がろうとする、姿を見て。ああ、心から。どれほど、この少女に感嘆しただろう。 「俺は、あんたに俺のマスターでいてほしい」 に、と口の端を持ち上げてランサーは云う。 「もっとも、さっきも云ったとおり、マスターがそうしようって決めちまえばそれまでだ。――だがまあ、俺がそういう気持ちだってことは、今たしかに云ったからな」 それで。 おろおろとしていた少女が、ぱちくりと瞠目。 「な……ッ!?」 ハメられた。 沸々と沸騰してゆく眼差しに混ざるのは、そんな憤り。 ハメた自覚のあるランサーは、ただにんまりとそれを眺めるのみ。 あの戦いから、これまで。 見てきたこの少女は、他人の思いを無下にするような性格ではないと察したからこそ、彼はこのような手段に出たのだから。 ――が。 少女が再び爆発することは、残念ながら出来なかった。 「あー、ちょっといい?」 ぱたぱたと手を振って、半眼になったアーチャーのマスターが彼女の注意をひきつけたからである。 「何があったか知らないけど、ふたりの世界つくってないでとりあえず戻ってちょうだい。――それで。あなたたち二人とも、マスターを辞任したいってのに変わりはないわけ?」 「え。あ、う」 その問いに、彼のマスターは実にあからさまな動揺を見せる。 「いや、……それもどうかと思う」 そうして、その兄弟である少年が、意外にもそれを否定した。 「マスター?」 「違う、まだこの戦いに納得したわけじゃない」 セイバーのことばに、少年はさらなる否定を重ね、 「――でも、とランサーを見てて思ったんだ。それで確認したいんだが……仮に俺たちがマスターを辞めたとすると、聖杯戦争は規定の七組に満たない五組になる。それでも戦争ははじまるのか」 問いを投げられたアーチャーのマスターは、あっさりと首を左右に振る。 「その前提が間違ってるわ。令呪は聖痕でもあるんだから、本来そう簡単に辞められるものじゃない。それに、万が一あなたたちがマスターを辞めたとしても、ランサーとセイバーっていうサーヴァントは残るもの」 聖杯を求める魔術師は、何もこの近辺だけにいるわけではない。 そして、マスターは魔術師だけから選ばれるわけではない。 「聖杯がどうやってマスターを選ぶのか。それははっきりしてないけど、令呪の兆候がありながら選に漏れた奴だっているはずよ。中にはわざわざ冬木市にやってきて、その憂き目にあった奴もいるかもね」 「……つまり、俺たちが抜けたところで――」 「そう。別のマスターが彼らと契約し、新たな組が補充されるだけ。ただ、そんなのんきな話、そうそうないだろうけど。正式に戦いが始まる前でさえ襲いかかる奴がいることを考えれば、今、どういう状況かは一目瞭然だと思うけど?」 「だな」 その言に込められた意図に、同意を示す。 ランサーは、知っている。 「――7体のサーヴァントは、すでに揃っている」 そして、その当人であるセイバーが告げた。 アーチャーのマスターが、頷く。 「セイバーの召喚をもって、聖杯戦争の開始は宣言された。――放たれた矢は、もはや止まることはない。今はもうそういう状況よ」 明確に。強烈に。 否定する余地、欠片もなくして。 そのことばは、彼らに事実を突きつけた。 少女と少年の身体が、ぴり、と強張った。 |