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 あ――ん、あ――ん
 え――ん、え――ん
 あ――ん、あ――ん
 え――ん、え――ん

 ……懐かしい泣き声だ。そう思うと同時、一成は、己が夢のなかにいるのだと解釈した。
 むむむ、いかん。
 座禅中だというのに、何を居眠りこいているのか。不始末が見つかれば即一喝されることは判っていたため、さっさと目覚めようとするも、なかなか出来ない。
 ――む。
 いや、これも一種の禅であるやもしれんと思い直す。
 何しろ、周囲の僧や堂内を歩いている住職の気配はきちんと感じているのだ。居眠りならばこうはいくまい。
 ならば――これは自身の裡に埋没する、という側面のひとつではなかろうか。
 でなくば説明がつかない。
 とうの昔に忘れていた、記憶の底にうずもれていた、あの日の泣き声を急に思い出すなど――そのようなもの、深く深く沈んだ先にしかないのだから。

 あ――ん、あ――ん

 閉じた瞼に感じていた薄暗がりが、不意に開けた。
 開眼したわけではない、網膜に映像が映っただけ。――もう十年以上も前の、この寺の風景。あまり変わり映えせぬと云われることしきりの柳桐寺だが、四季折々の景色は勿論、育ってゆくものも絶えてゆくものも当然ある。ここで暮らす者たちならば、同じ場所を撮った複数の写真を指してどれがどのころだ、と云うことも容易い。
 だから、判る。
 これは十と三年前。
 おぼつかない足取りで進むこの視線の主は、当時の一成自身。
 だから、読める。この先が。
 寺に続く階段の脇、鬱蒼と茂った木々の奥。
 ――その先に。

 あ――ん、あ――ん……

 泣きじゃくる、小さな子供がいた――



 別に隠すことじゃなし。
 そう、彼女は笑って云う。
 けれど一成にとっては、やはり、気にかけるべきことなのだ。
「どうかしたか、柳洞」
「――あ、いいえ、少々考え事を」
 柳洞の休日は修行一辺倒じゃないのかと笑う者もいるが、そういうわけでもなく、昼食後のあと少々の務めを終わらせれば、夕食のしたくまでは自由時間だ。
 この間に、彼は学校の課題や持ち帰った生徒会の仕事を終わらせている。そういう意味では本当に自由時間かどうかあやしいが、そもそも自由に使える時間であるという前提が自由時間なのだからこれもやはり自由時間だということになり――――以上、閑話。
 その一成、本日はめずらしく堂の廊下に、湯のみ抱えて腰かけていた。
 課題や持ち帰り仕事がなかったということもあるが、人間、たまにはこうやって何をするわけでもない時間も必要だろう。――特に今日は、禅中に生じた古い記憶が、そうするべきだと云っているような気もしたのだ。
 通りかかった人影は、ふむ、と顎に手を添える。
「悩み事か? それなら藤村先生に相談するといい、一撃で吹き飛ばしてくれると思う」
「……遠慮します」
 一瞬、毎朝の恒例行事がフラッシュバックした。そう、遅刻寸前で駆け込んでくる藤村先生の姿だ。たしかにあれならば悩みだろうが悪の組織だろうが一撃で吹っ飛ばせそうだが――その後相談した自分の身さえも吹っ飛ばされそうで、実に恐ろしい。
 遠い目になってそう応じ、一成は、傍らに置いていた急須を引き寄せた。
「ご一緒にいかがですか」
「――いや、遠慮しておこう。一人のほうが考えも進もう」
 いつもと変わらぬ淡々とした辞退に、一成も、そうですかと急須から手を離す。
 身を翻した背中を、何をするでもなく見送ろうとし――
「すまんな」
「はい?」
 唐突なそれに、首を傾げた。
 その背中は振り返らぬまま、やっぱりさっきと変わらぬ口調で謝罪の理由を一成に告げる。
「女人禁制のこの寺に、女をつれていつまでも長居していることだ。和尚はともかく、年頃の僧やおまえには何かと刺激が強いのではないか」
 女――とは、背中を向けている人物の婚約者だ。
 ひょっこりと寺に現れた彼の後を追うように、やはりひょっこりとやってきていた女性。離れを一室都合しているものの、僧の中には気がそぞろになる者がいる。――まあ、それほどの美人だということなのだが、それ以前に女人が同じ敷地内で寝泊りしているというのが刺激的なのだろう。
 ……生憎、一成はそれに当てはまらないが。
 故に、
「俺は構いません。これも平常心を保つ修行の一環です。――それに」、
 云っていいものかどうか、少し迷って。
 まあ、個人名を出すわけではないし、と、思い直した。
「十年以上も前ですが、そのときも女子はおりました」
「ほう」
「といっても俺と同じ年ですから、刺激も何もあったものではないですが」
 十年以上前といえば、一成の年齢はまだ一桁。
 同い年であるその女子の年も当然、一桁である。
 ――そりゃあ、よほど特殊な趣味の持ち主でない限り、刺激も何もあったものではなかろう。
「そうか」
 だが、その背中は小さくため息をついて、
「その幼女が、今、寺にいなかったことを幸いとしよう」
「……?」
 むしろそちらが悩み事があるんじゃないか、と一成に思わせるだけ思わせて、すたすたと歩き去っていった。
「……そういえば」
 今の人と婚約者のいる一室は、たしか、当時あの女子に与えていた部屋であったな、と、今さらながらに一成は思った。

 ――片付け忘れられていた小さな女の子の服を発見した婚約者が、鼻歌混じりにレースやコサージュをこしらえてそれらの衣服を装飾しまくっていることを、幸い、彼は知らない。

 やれ、それにしても。
 生じた疑問はさておいて、一成は、十数年前に自分が歩いた景色を思い返す。
 緑をかきわけた先にあった、泣き喚く小さな女の子をも。
 ――そんな、懐かしくも衝撃的な過去を思い出したせいだろうか。しばらく寺で暮らした彼女が、柳洞縁の夫婦に養子としてもらわれていった朝のこと、再び修行のために放り込まれてきた日のこと、……火事で行方不明だと知ったときのこと、無事合格した学園で衛宮士郎と一緒に笑っている姿を見たときの驚愕――そんな諸々のことまでもが、記憶の引出しから溢れ出してきた。
 そうして、最後のそれで洪水をとどめ、一成は小さく息をつく。
「――それも大概にしてやってほしいものだ」
 今ごろきっと、日の当たる自分の家の縁側で茶をすすっているだろう、きょうだいの姿を思い描いてつぶやいた。

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