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 “殺させねえぞ”
 “殺してみせるさ”

 ――蒼い槍兵の問いに、赤い弓兵は、そう、答えた。

 誰を? ――ダレカを。



 ……時刻は、ほんの少し遡る。
 凛に引きずられるようにして連れ帰られた、遠坂邸でのやりとりだ。
 帰り着くなり着替えもせぬまま、身の回りの品や魔術に使う宝石などをかばんに詰め込み始めた凛を見て、正直、アーチャーは気が抜けた。
 先刻、衛宮士郎に対して吐いた暴言の“仕置き”が来るかと、ほんの少し覚悟していたからだ。
 帰り道々凛は黙ったままだったし、ああ、これは屋敷に着いてから大爆発だな――と、思っていたのだが。この当ての外れ方は、果たして良かったのか悪かったのか。判断つかぬまま、アーチャーは、せっせと宿泊の準備をしている凛の後ろ姿を眺めていた。
「何ぼっとしてるのよ。暇なら戸締り確認してきて」
 ぱ、と振り返った凛がそう告げる。その間も彼女の手は忙しなく動いていて、準備は着々と進行中。
「――う、うむ」
 仕置きはいいのかね、と薮蛇つっつこうとした己の口を戒めて、アーチャーはそれだけ頷くことに成功した。
 が、彼女は、サーヴァントのその程度の心情、お見通しだったようだ。
「お仕置きがなくてほっとしてるでしょ」
 ……別にほっとはしてないが。
「さてね。君の出来る仕置きなど、たかが知れているからな」
 呆れを別の色のそれに変えて、ゆっくりと肩をすくめた。すでに部屋を出るために身を翻していたため、凛がそれを見てどんな表情をしたかは判らない。
 判らない――が、ぴり、と空気に電離帯が出来たのは感じ取った。
「そ。なら女装して町中練り歩いてこいって命令出しちゃおうかしら。――長期有効の令呪って便利よねぇ?」
 ああ、それでこそ遠坂凛。
 夏の太陽かくやの眩しい笑顔にどろどろ黒々渦巻きのバックを背負い、燦然と輝く令呪をかかげている様が目に見えるようである。
 ……振り返れば見れるだろうが、アーチャーは賢明にもその好奇心を抹殺せしめた。
「やめておけ。サーヴァントの動きが鈍くなっては、やられて困るのは君だぞ。それがそんなくだらない理由でとなったら、情けなさ倍増ではないか」
「ええ。だから出す命令は別のやつよ」
「なに?」
 ぐうと黙り込むかと思えば、凛の声音は変わらない。負け惜しみなどではない、普段どおりの声で淡々と告げる。
「令呪の命令じゃないわ。だから、反しようと思えば反することが出来る」
 それでも――遭遇初日に凛が出した“お掃除命令”に反対しようとしたときのように、身体が重くなることは否めまい。まったく、マスターが優秀すぎて逆にサーヴァントが困るというのも珍しい。
「やれやれ。それで、命令は何かな。マスター?」
 ここまで来れば、その命令を出すこと自体を拒否しようとしても無駄だろう。
 なるほど、これが先刻の仕置きか、と、おそまきながらにアーチャーは思い至った。
「簡単よ」
 そう前置きして、彼のマスターは継げた。

「“遠坂凛が彼らを敵だと見なさないうちは、衛宮のふたりとそのサーヴァントにいかなる類の攻撃もしてはならない”」

 ――きちり、と、見えない糸が絡みつく幻影。
 今のことばに反した行動をとれば、その糸は間もおかずにアーチャーを縛るだろう。罰というほどの大げさなものではないが。本来は10飛べる高さを9しか飛べぬことに対しての、違和感と不快感は拭い去れない。
「どう、簡単でしょ」
「……それは、攻撃というか、口撃をするなということか」
「主にそうね。――だいたいね、ああいうものは本人に云っても意味がないのよ。反発して、余計にその道に驀進しちゃうんだから」

 ――――なるほど、それはいい。
 そうでなければ、オレが奴を殺す理由がなくなってしまう。

「それに、他人の理想を貶すのって、まず私が我慢ならない。アーチャー、あなた私のサーヴァントなら、マスターの矜持を傷つけることはしないで」

 それは、紛れもない遠坂凛の真情。
 彼女は衛宮士郎が貶されたことを不快に思っているのではない。誰かが誰かの理想を貶める、そんな行為そのものを疎んじているのだろう。
 ――彼女自身が、譲れぬ理想を抱いているからこそ。
「凛」
 だが、だからこそ気になることがある。
「ひとつ訊いてもいいかな」
「なに?」
 再度荷造りに取りかかったのだろうか、凛の声は少しくぐもっていた。
 ノブに手をかけた体勢のまま、アーチャーは、構わず問いかける。

「魔術師たる魔術師を目指す君が――何故、ああもあっさりと衛宮士郎たちの誘いに乗ったのだ?」

 戦争だからって戦ったりしない。
 サーヴァントを生贄にした聖杯なんて出現させない。

 そんな荒唐無稽な主張を声高に放つ、身の程を知らぬ古生代マスターに。
 何故、遠坂の魔術師たる彼女が、昨夜、条件付とはいえああもあっさりと頷いたのか。
 それは、遠坂の魔術師としての在り方や彼女の理想からは逸れた道ではないのか。
 遠坂の魔術師ならば、そこに何があっても勝利を得、聖杯を獲得するのが道理ではないのか。

 だが、そんな諸々の疑問のこもったアーチャーのことばに、凛はこともなげに返答した。
「なんだ、そんなこと?」
 ――と。
 それから、

「ほっとけないのよ。なんとなく」

 実に、彼女らしいことを、彼女らしくないごにょごにょとした口調でつぶやいた。
 その耳がほんの少し紅に染まっているのを、振り返ったアーチャーは見てしまったが……とりあえず、黙っておくことにしたのであった。



 そうして時間は戻る。
 アーチャーは衛宮邸の一室、割り当てられた部屋に佇んでいた。
 ……まるで、夢を見ているようだと思いながら。
「ああ――本当に、誰かの夢ならな」
 事実そうなら、どんなにいいか。
 夢なら目覚めれば終わり。いかに緻密に築き上げられた楼閣であろうと、その瞬間に霧散する。
「“この家で暮らす”のか」
 深い自嘲混じりのつぶやきは、誰に届くこともない。
 しっかりと実体化している己の身体を見下ろしたあと、何気なく視線を転じる。
 ここは客室だ。
 遠坂凛に貸し与えた部屋の隣、あの時分には閉ざされたままだった部屋のひとつ。
 無駄に広いこの家は、十人程度の団体が泊まりに来たとしても、まだ余裕があるだろう。――マスターとサーヴァントがここに勢揃いしても問題はないくらいだ。
 ――ああ、だがバーサーカーは少々難があるか。
「…………くだらん」
 知らず浮かんだ空想を、瞬時に彼は否定した。
 それから、は、と呼気を吐き出す。
 この家の空気は危険だった。――殺す殺されるの殺伐としたものではない、むしろその逆。だが、だからこそ危険。
 ほぐされる。
 ほだされる。
 錆びついて磨り減った鉄を、この家に流れる空気はやわらかく撫でてゆく。
 ――危険だった。
 磨耗して磨耗して、それで生じた錆が周囲に凝結し、もうこれ以上磨耗することもないはずの鉄。
 錆でがちがちに固められたそれが柔らかくなれば、また、磨耗が鉄を襲う。
 そうなれば壊れる。
 最後に守ろうと錆の奥に押し込めたものが、今度こそ、磨耗の風にさらされてしま――――
「……守る?」
 何を守ろうというのだ。
 そのまま、浮かんだイメージを棄却した。

 だってもう、守るものなんてない。
 この身はただの掃除屋、守るどころか殺し尽くすだけのモノなのだから。



  †††



 ――それでも。

   命なき鉄塊が君臨する風と炎の荒野には。
   錆びついてがちがちに固まった鋼の中には。

   君も気づかぬ何かがまだ、小さく瞬いているのだけれど。

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