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- 少年と迷子の事情 3-



 慣れている。
 この程度の傷も、鬼の子だと詰られることも。
 慣れている。
 この冷たい床も、ぎちぎちと軋む心臓も。
 慣れている……から。
 どうして、おねえさんがそんなに怒るのか、判らなかった。

 視界は赤くぼやけている。
 身体中の力が抜けている。

 背中には、ひんやりとした壁の感触があった。
 女性と、使用人と、今どこからか出てきたおねえさんが、怒鳴りあってるのは聞こえていた。
 痛い。
 女性の叫びがではない、おねえさんの怒鳴り声が、痛い。
 慣れている。
 女性が叫ぶ内容は、もう、繰り返し繰り返し聞いてきた。だから、慣れている。何かが麻痺してるんだと自身は知らず、慣れたと思い込んでるだけだけれど――慣れている。
 けれど。
 おねえさんの怒鳴る声は、初めてだから。怒ってるから。少年を守らない女性を、どうしてだって本当に怒ってるから。……痛い。だって、女性はそれでまた、叫ぶから。狂乱するから。
 ねえ、おねえさん。
 ボクはいいんです。
 だから、もうやめてあげて。
 ボクは慣れてるんです。
 だから、それ以上傷つけないで。
 ―――――を、それ以上怒らないで……

 赤くぼやけた視界に、腕を振り上げたおねえさんと、それに気づかぬまま叫ぶ女性が映った。



 真っ白になった頭のどこが、そんな命令を下したのだろう。
 振り上げた腕は、そのままだったら間違いなく、女性に平手二発目を見舞わせるはずだった。
 だが、その瞬間は訪れない。
「……っ!?」
「やめ……て、くださ……」
 どこにそんな体力が残っていたのか。起き上がった少年が走り寄り、の腕にしがみついていた。
 真っ赤に染まった乳白色の髪、その隙間から覗く赤燈色の双眸を苦しげに歪めて。
「……」
 急に視界に入ってきた少年を、女性が呆然と見つめた。
 その様子を見て、は腕から力を抜く。――憤りが、完全に消えたわけではないけれど。
「……庇ってるじゃないですか。この子、あなたを」
「……あ」
「血が、なんですか。半分人じゃないからって、なんですか。それでも、この子はあなたの子なんじゃないですか。だから、この子はあなたを庇うんじゃないですか」、
 ―――――なんだから。
 つむごうとしたことばを、けれど遮って。
「……あは」
 女性の口が、つりあがった。
「あ――あは、は、……あははははははははははああぁぁぁぁ――――――!!!」
 このうえもなくおかしなことを、聞かされたのだとでも云うように。
「庇う!? それはそうよ、コレが私を庇うのは当然じゃないの!!」
「え……」
「だってコレは獣よ、その獣を飼ってやっているんだから、主に忠誠を誓うのは獣の本能っていうものじゃない……!!」
「あ――――あんた、は……ッ!!」
「やめ……やめて……!!」
 振り上げようとした反対側の腕も、少年が抑え込んでいた。
 ろくに食事も与えられていないだろう、痩せぎすの身体のどこに、そんな力があるのか。不思議に思わなければならないところだが、はその理由を知っている。
 知っているからこそ――あの少年を知っているからこそ、こんなにも腹立たしいというのに……!
「やめてじゃないでしょ!? なんで怒らないのよ、なんで黙ってるのよ!? このひと、あなたの……!!」
 女性の哄笑が響き渡る。
 使用人は、それまでも見たことがなかったのだろう女性の様相に、腰を抜かしてへたりこんでいた。
 そうして。
 少年が叫んだ。

「だって、おかあさんだから! ボクはおかあさんの子だから、おかあさんを守るんです……!!」

 傷つけないで。
 慣れてるから。
 おかあさんを傷つけないで。
 ボクはもう、慣れてるから。

 少年の叫びに込められた思いは、ひどく純粋で、透明で、だからこそ、痛かった。
「おねがいします……」
 少年は云う。
「おかあさんを怒らないでください。あなたが怒ると、おかあさんが悲しみます。おかあさんを、怒らないでください……ッ」
「……っ、でも……!!」
 それじゃあ、少年の救いがない。
 女性は少年を詰って傷つけて、それで現実から逃避すればいいのかもしれない。だが、そんなものを受け続ける少年の心はどうなるというのだ。与えられる外傷は治っても、心だけはどうしようもない。
 ことばの刃が突き刺さる部分の感覚をいくら殺したところで、そこにひび割れが出来ていくのは防げないと云うのに――!

 パン、

 再び、乾いた音が響いた。
「え」
 は慌てて自らの手を見る。……少年の腕が弛んでいた。だが、両の手のどちらにも、何かを叩いたときの痺れはない。
「おかあさんなんて呼ぶな、このケダモノッ!!」
「うあっ!」
 を抑えていたときの力はどうしたのか。女性に頬を張られて、少年は床に倒れこんでいた。その上に、女性が馬乗りになる。
 さすがに拳で殴るということは思いつかないのだろう、だが、力任せに振るわれる平手は、それでも十分な凶器だ。
 まして今、少年は額に怪我を負っている。血も止まっていないというのに――!
「やめて! やめなさいってば!!」
「おかあさん!? あんたに母親なんていないのよ! 私に子供なんていないのよ!! あんな……あんな恐ろしいバケモノの子なんて要らない、私は要らない!! おかあさんなんて呼ぶな……ッ!!」
 ごめんなさい、と。
 少年のか細い声が聞こえた。
「あやまるんじゃないわよ、獣は何も云わないでいればいいの、話さないで笑わないで姿を見せないで……!! なんであんたは私に似てるのよ……ッ!! なんで眼だけがあのバケモノなのよ……ッ!!」
「やめなさいって……云ってるでしょうッ!!」
 女性は少年以外見えていない。少年は抵抗もせず殴られている。
 今度は、誰の邪魔も入らない。
 の振り上げた手刀は、女性の首筋にきれいに入った。
「あ……?」
 ふらり、と、一度だけ身体を傾がせて。
 女性は、ゆっくりと少年の上に倒れた。
「……おかあさん?」
 急に倒れこんできた女性を、少年が不思議そうに眺める。
 目を閉じ、ぐったりとしたその様子を見て――――
「おかあさんッ!?」
「あ、動かさないほうが……気絶――――……ッ!?」
 させただけ、と、最後までつむぐことは、かなわず。
 無造作に振るわれた腕の一撃で、の身体は遥か後方の壁に背中から叩きつけられ。

「ル、あガあアぁぁァぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁッ!!」

 ――――咆哮が、所狭しと響き渡ったのはその直後のこと。

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