慣れている。
この程度の傷も、鬼の子だと詰られることも。
慣れている。
この冷たい床も、ぎちぎちと軋む心臓も。
慣れている……から。
どうして、おねえさんがそんなに怒るのか、判らなかった。
視界は赤くぼやけている。
身体中の力が抜けている。
背中には、ひんやりとした壁の感触があった。
女性と、使用人と、今どこからか出てきたおねえさんが、怒鳴りあってるのは聞こえていた。
痛い。
女性の叫びがではない、おねえさんの怒鳴り声が、痛い。
慣れている。
女性が叫ぶ内容は、もう、繰り返し繰り返し聞いてきた。だから、慣れている。何かが麻痺してるんだと自身は知らず、慣れたと思い込んでるだけだけれど――慣れている。
けれど。
おねえさんの怒鳴る声は、初めてだから。怒ってるから。少年を守らない女性を、どうしてだって本当に怒ってるから。……痛い。だって、女性はそれでまた、叫ぶから。狂乱するから。
ねえ、おねえさん。
ボクはいいんです。
だから、もうやめてあげて。
ボクは慣れてるんです。
だから、それ以上傷つけないで。
―――――を、それ以上怒らないで……
赤くぼやけた視界に、腕を振り上げたおねえさんと、それに気づかぬまま叫ぶ女性が映った。
真っ白になった頭のどこが、そんな命令を下したのだろう。
振り上げた腕は、そのままだったら間違いなく、女性に平手二発目を見舞わせるはずだった。
だが、その瞬間は訪れない。
「……っ!?」
「やめ……て、くださ……」
どこにそんな体力が残っていたのか。起き上がった少年が走り寄り、の腕にしがみついていた。
真っ赤に染まった乳白色の髪、その隙間から覗く赤燈色の双眸を苦しげに歪めて。
「……」
急に視界に入ってきた少年を、女性が呆然と見つめた。
その様子を見て、は腕から力を抜く。――憤りが、完全に消えたわけではないけれど。
「……庇ってるじゃないですか。この子、あなたを」
「……あ」
「血が、なんですか。半分人じゃないからって、なんですか。それでも、この子はあなたの子なんじゃないですか。だから、この子はあなたを庇うんじゃないですか」、
―――――なんだから。
つむごうとしたことばを、けれど遮って。
「……あは」
女性の口が、つりあがった。
「あ――あは、は、……あははははははははははああぁぁぁぁ――――――!!!」
このうえもなくおかしなことを、聞かされたのだとでも云うように。
「庇う!? それはそうよ、コレが私を庇うのは当然じゃないの!!」
「え……」
「だってコレは獣よ、その獣を飼ってやっているんだから、主に忠誠を誓うのは獣の本能っていうものじゃない……!!」
「あ――――あんた、は……ッ!!」
「やめ……やめて……!!」
振り上げようとした反対側の腕も、少年が抑え込んでいた。
ろくに食事も与えられていないだろう、痩せぎすの身体のどこに、そんな力があるのか。不思議に思わなければならないところだが、はその理由を知っている。
知っているからこそ――あの少年を知っているからこそ、こんなにも腹立たしいというのに……!
「やめてじゃないでしょ!? なんで怒らないのよ、なんで黙ってるのよ!? このひと、あなたの……!!」
女性の哄笑が響き渡る。
使用人は、それまでも見たことがなかったのだろう女性の様相に、腰を抜かしてへたりこんでいた。
そうして。
少年が叫んだ。
「だって、おかあさんだから! ボクはおかあさんの子だから、おかあさんを守るんです……!!」
傷つけないで。
慣れてるから。
おかあさんを傷つけないで。
ボクはもう、慣れてるから。
少年の叫びに込められた思いは、ひどく純粋で、透明で、だからこそ、痛かった。
「おねがいします……」
少年は云う。
「おかあさんを怒らないでください。あなたが怒ると、おかあさんが悲しみます。おかあさんを、怒らないでください……ッ」
「……っ、でも……!!」
それじゃあ、少年の救いがない。
女性は少年を詰って傷つけて、それで現実から逃避すればいいのかもしれない。だが、そんなものを受け続ける少年の心はどうなるというのだ。与えられる外傷は治っても、心だけはどうしようもない。
ことばの刃が突き刺さる部分の感覚をいくら殺したところで、そこにひび割れが出来ていくのは防げないと云うのに――!
パン、
再び、乾いた音が響いた。
「え」
は慌てて自らの手を見る。……少年の腕が弛んでいた。だが、両の手のどちらにも、何かを叩いたときの痺れはない。
「おかあさんなんて呼ぶな、このケダモノッ!!」
「うあっ!」
を抑えていたときの力はどうしたのか。女性に頬を張られて、少年は床に倒れこんでいた。その上に、女性が馬乗りになる。
さすがに拳で殴るということは思いつかないのだろう、だが、力任せに振るわれる平手は、それでも十分な凶器だ。
まして今、少年は額に怪我を負っている。血も止まっていないというのに――!
「やめて! やめなさいってば!!」
「おかあさん!? あんたに母親なんていないのよ! 私に子供なんていないのよ!! あんな……あんな恐ろしいバケモノの子なんて要らない、私は要らない!! おかあさんなんて呼ぶな……ッ!!」
ごめんなさい、と。
少年のか細い声が聞こえた。
「あやまるんじゃないわよ、獣は何も云わないでいればいいの、話さないで笑わないで姿を見せないで……!! なんであんたは私に似てるのよ……ッ!! なんで眼だけがあのバケモノなのよ……ッ!!」
「やめなさいって……云ってるでしょうッ!!」
女性は少年以外見えていない。少年は抵抗もせず殴られている。
今度は、誰の邪魔も入らない。
の振り上げた手刀は、女性の首筋にきれいに入った。
「あ……?」
ふらり、と、一度だけ身体を傾がせて。
女性は、ゆっくりと少年の上に倒れた。
「……おかあさん?」
急に倒れこんできた女性を、少年が不思議そうに眺める。
目を閉じ、ぐったりとしたその様子を見て――――
「おかあさんッ!?」
「あ、動かさないほうが……気絶――――……ッ!?」
させただけ、と、最後までつむぐことは、かなわず。
無造作に振るわれた腕の一撃で、の身体は遥か後方の壁に背中から叩きつけられ。
「ル、あガあアぁぁァぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁッ!!」
――――咆哮が、所狭しと響き渡ったのはその直後のこと。