少年が迫る。
さきほどまでの弱々しい様子は消え、見開かれた双眸は何も見ず、ただ敵とさだめた相手を狙って肉迫する。
だが、とて黙って接近を許すつもりはない。
少年の間合いまであと一歩というところで、たたきつけられた際の衝撃を無理矢理振り切って横に飛ぶ。
がづっ、という鈍い音。
振り返ったの目に、丸く抉られた壁が映った。
……あんなんに殴られたら、死ねる。
急に消えた標的を探して、少年が視線をめぐらせる。
薄明かりのなかでも、赤い髪は目立って見つけやすい。翻るそれを目にした瞬間、少年はまたも咆哮とともに床を蹴った。
はまたしてもぎりぎりまで引き付けてから、壁を犠牲にし、回避する。
「ガグ、アぁ、ルァあぁアぁぁぁ!!」
悔しがっているのか、壁を殴る力がだんだんと強まっていく。
だが哀しいかな、いくら怪力を発揮しても、戦闘経験皆無で突進しか出来ぬ少年では体裁きにおいて、に勝ちを譲るしかない。
結果として、その部屋のなかには、無数の穴が生まれていった。
そうしてとて、ただ避けつづけるばかりではない。
どうするか。
どうするべきか。
力ずくで少年を抑えるのは、の膂力ではほぼ不可能。となれば体力切れを待つしかないが、それもいつまでかかるやら。
――いや、それ以前に。
何か、とても大事なことを忘れている気がする。
光の差し込まぬ、この室内。
申し訳程度の薄明かり。
……部屋の向こう側、さきほど女性たちが行こうとしてた開けっ放しの扉の向こうに見える、上に続く石造りの階段。
「ああガあぁぁぁあアぁぁぁぁああアアアあァァ!!」
「―――――!!」
何度目か判らぬ、少年の拳を凌いだとき。
天啓のように、脳裏に答えが閃いた。
「地下室だ、ここ……!!」
そうして、まるでそれを待ってでもいたかのように。
少年の空けた無数の穴の向こうから、ぴしりぱきりと、何かの軋む音がした。
――考えるまでもない。
常ならないほどの攻撃を受けて脆くなったこの部屋の壁は、周囲の土の圧力を支えきれなくなっているのだ――――!
「ああァアァルがああアァァ!!」
「うどやっかましい! 生き埋めになりたいのかあんたは!!」
わーにんぐ、わーにんぐ!
迅速に対応せねば、この場の全員地中に生き埋めです!
ふざけた警報が脳裏に響くのと同時、は少年を一喝した。
それまで黙って逃げ回っていた獲物からの怒声に、さしもの少年も、ビクリとほんの一瞬固まる。
が、それで十分。
その間に、は進もうとしていた方向を変え、今だ床に倒れ伏す女性を背に負った。
「ガ……ッ!?」
追撃をかけようとした少年が、今度こそ硬直する。全部が全部を暴走させたわけじゃないらしい。その事実に感謝しながら、は腰を抜かした使用人を引きずり起こす。
そうこうしているうちにも、周囲からのみしりみしりという音は、次第に大きくなっていた。
「おいで!!」
「……ッ!?」
扉に駆け寄って、振り返りざま叫んだ瞬間。
たしかに。
理性の光が、再び赤燈色の双眸に戻ったのを、は見た。
だから叫んだ。
このときばかりは、何もかもかなぐり捨てて。
遥か遠い時間の先への懸念も、及ぼすかもしれない影響も、忘れて。
「――――おいで! カノン!!」