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lll 物語の始まる前 3 lll



 戦後処理に関る書類の山が、ようやくひと段落ついた直後だった。
 足音も高く部屋に飛び込んできた彼の養い子が、間の机も乗り越えて(書類はほとんど横にまとめておいたのが幸いした)飛びついてきたのは。
「……?」
 ぎゅぅとしがみつき、ルヴァイドの肩に頭を押し付けたきり微動だにしない彼女を抱き、声をかけてみる。
 そんなことではないかと思っていたが、かすかに震えている身体と、必死にこらえているらしい嗚咽が聞こえて、ルヴァイドは息をついた。
「あの捕虜のところに行ったのか?」
 ――こくり。
 小さく上下する頭に手を置いて、髪を梳く。
 一度ではなく、二度、三度。
 先のことばのあとは何も云わずにしばらくそうしていると、少しずつ、震えの方はおさまってきた。
 まだしがみついたままではあるが、なんとなく、甘えるようにすりよってくる。
 はぁ、と、大きく肩が上下する。
 呼吸を整えることに成功したらしく、が、この部屋にきてから初めて口を開いた。
「……助けたの、ダメだったのかな」
「何か云われたか」
 こくり。
 が頭を動かすたびに、彼女の髪が頬をくすぐる。
 ちょうどよい軽さの重みとすりよってくる体温は、まるで小動物に懐かれているような感覚さえ覚えさせた。
 普段なら微笑ましく受け止めるそれも、今日ばかりはそうもいかない――彼曰くの小動物は、傷ついているのだから。
 ただじっと、頭をなでてやりながら、彼女が話し出すのを待つ。
「……お礼云いたかっただけなの――なんです。召喚術に巻き込まれかけたのを助けてくれたから、だから」
「うむ」
「だから生きててほしかったのってあるかもしれないけど、でも、敵のあたしを助けたからバカにしようなんて思ってなかったです」
「うむ」
「……助けてくれたとき、血がいっぱい出て、あの人の身体だんだん冷えていって、このままじゃ死ぬって思ったとき怖くて」
 ことばは途切れ途切れで、要領を得ない。
 それでもルヴァイドは辛抱強く、を促した。
「敵とか味方じゃないの。生きててほしいって思ったんです。……それだけだったんだけど……」
 迷惑だったのかなあ……
 それまで以上に頭を押し付けてきたの身体が、また震え始める。
 感情をことばにしたことでタガが緩んだのか、嗚咽が先程よりも大きくなった。

 ――ふと。
 がデグレアにきたときから彼女を怪しい目で見ている顧問召喚師が遠征していることに感謝しつつ(こんな彼女を見られたら、その胸で慰めるとか云ってくること必至なうえに、これも記念とかほざいてカメラを取り出しかねないからだ)、ルヴァイドは、養い子の頭を数度、軽く叩いた。
「その男もまだ、混乱しているのかもしれんな」
「……え?」
「属していた軍隊を失い、あまつさえ自分ひとりが生き延びた罪悪感と、敵地にひとりでいる孤独と焦燥、不安――まだ少年というから、それも判らんではない」
「???」
 ルヴァイドの云ったことばの、果たして半分も理解できているのだろうか。
 けれど疑問符を頭の上に躍らせてこちらを見るの瞳から、それ以上新しい涙が溢れることはなくなっていた。疑問は、涙に勝ったようだ。
 それに安堵し、どんな話をしたのかと問えば、次に彼女が浮かべたのは、怒りの感情。
「……すっごいヤなコト云われたんです」
「なんと?」
「『愚かにも敵を助けて死にかけた僕を救ってくださってありがとうございます』だって!」
「――」
 律儀に声色まで真似たつもりらしいの証言は真に迫っていて、なんともはや。ルヴァイドはもはや、絶句するしかすべがなかった。
 ……いくらなんでも、大人気なさすぎる。
 たかだか10歳やそこらのこどもが、そこまでのことを考えて敵兵の命を助けるわけがない。
 ただ、敵も味方もなかった。
 目の前で散ろうとしている命を、助かってほしいと願った。
 きっと、それだけのことだったのだろう。――そのくらい、助けたというその相手も判っているだろうに。
 むぅ、と、頬を膨らませて、がルヴァイドの胸を叩いた。
 衝撃が過ぎてしまえばの立ち直りは早い。喉もと過ぎればなんとやら、というわけでもないのだろうが。
「誰がそんなむずかしいこと考えて、人を助けるんだろーって思いません?」
 まだ、かすかに声はにじんでいる。けれど沈み込む重さはない。
「たしかにな」
 口の端が軽く持ち上がるのを自覚しつつ頷くと、も大きく頭を上下させた。
 そのまま視線を合わせてきて、
「でしょでしょでしょっ!?」
 我が意を得たとばかりに勢いづいた養い子の仕草に、とうとうルヴァイドの表情もほころんだ。
「それで、おまえはどうするのだ?」
 このまま見捨てて終わりにするか?
 その問いにはけっして彼女が頷かないことを判っていて問うのだから、ルヴァイドも相当人が悪い。
 予想どおり、の頭は左右に振られる。
「明日、また逢いに行きます! 云われっぱなしじゃくやしいもん!!」
 そう云って真っ直ぐにこちらを見るの目を見て、ルヴァイドは満足そうに頷いた。


 憂さ晴らしに身体動かしてきます! と元気良く訓練場へ駆け出した少女を見送って、扉を閉める。
 かけていた机の前まで戻り、山積みになっている書類から一枚を抜き取った。
 ――標題は、捕虜の処遇について。
 生憎と現在、デグレアの民が帝国に捕えられているわけではないから、捕虜交換はありえない。
 しかも、それなりの地位にあるのならともかく、今牢につながれているのは、まだ階級もない一般兵。
 一応帝国へ打診してみたものの、当然というか相手からの回答はなかった。
 以上を踏まえて元老院議会の出した結論は――とうてい、に聞かせられるものではない。

 無言で、書類を眺めることしばし。ややあって、ルヴァイドも執務室を後にした。



 最初に気配を感じた瞬間は、あの娘が戻ってきたのかと思った。
 けれど、すぐに違うと判った。
 軽く走るあの少女と違って、一歩一歩が重い。これは成人した男性のものだ。
 そうして足音が自分の牢の前で止まったときには、目を見張らずにいられなかった。
「――貴様は――」
 伝え聞いた特徴に当てはまる、その風貌。
 赤紫の髪、鋭い目。まだ年若いながらも、部隊ひとつ軍ひとつの指揮を任されるほどの腕を誇るという。
 黒騎士ルヴァイド。
 そのお偉方が、何をしにこんなところまで足を運んだのか。
 疑問が顔に浮かんだのだろうか、いや、ただタイミングが合っただけだろう。ルヴァイドは無言で、手にした書類を鉄柵越しにイオスへ渡す。
 読め、と云うことだろうか。
 頼りない明りのなか、視線を書類に走らせ――

 最初に浮かんだのは、やはり、と、そういう嘲笑。自分への。

 元通りに書類を丸め、牢の床に放り投げた。
「――いつだ?」
「何がだ?」
 主語のないイオスの問いに、いぶかしげに問い返すルヴァイド。
 苛立ちを覚えながらも、補足を試みた。
「僕の処刑だ」
「……まだ決まってはおらんな」
「早くしないと、何をするか判らないぞ」
「脱獄でもするか? 止めはせんが、そうしておまえは何処へ行く?」
「――黙れ!!」
 書類に書かれた一文が、ざあ、と。浮かんで消えた。

 捕虜の処遇を帝国に打診した結果、無反応であったと――つまり、自分は見捨てられたのだ。
 それで当然だ。一介の兵など駒も同然。いくらでも補充のきくそれのために、わざわざ交渉に出る莫迦はいない。
 そうして捕えられ、見放されたはずの兵が戻れば、まずどうやって逃げられたかが論争になるだろう。
 辿り着く結論も容易に想像がついた。
 相手方に寝返り何かの情報を流す見返りとして釈放された、と、そう審判がくだるのはほぼ確実。
 ――つまり。

 行き場はもはや、祖国にはない。

 声を荒げたイオスを、ルヴァイドは無言で見下ろしつづけている。
 身体が弱りきっているところに急に大声を出したイオスが、それだけで切れた息を整えるのを見計らっていたのだろうか。
 しばしの間を置いて、再び、ルヴァイドの声が降ってきた。
「俺が憎いか?」
「は」、
 目が丸くなる。
 何を云っているのだこの男は。
「当たり前だ!!」
 この男の軍に。この男の指揮のもと。
 自分たちの軍は壊滅させられた。
 自分以外はすべて殺されたのだ。
 だから、間髪入れずにイオスは叫ぶ。
「間を遮るものがなければ、僕は貴様に向かって行くぞ……!」
 ガシャン、と、鉄柵を拳で叩いてそう吼えた。
 ああ。いっそ視線で人が殺せるものなら、何度でも目の前の男を殺してみせるというのに。

「惜しいな」

 それなのに、相手はどこまでも平然と、そんなことを云ってのけた。
「……何がだ」
「おまえの気概、このまま朽ちさせるのは惜しい」
 しかも。
 世迷言だとしか思えないことまで、付け加えた。

「俺の部下になる気はないか」

 ことばはたしかに耳から脳に届いたのだけれど、それを理解するまでに――いや、理解してそれが現実だと納得するまでに随分と時間を要した。
 何を。云った?
 今、目の前の敵は、何をほざいた?
「……部下……だと……?」
 からからに渇いた喉を引き絞り、なんとかそれだけが声になった。
「そうだ」
 こちらの動揺ぐらい判っているだろうに、いや、判っていて黙殺しているのか。応じるルヴァイドの口調は、どこまでも淡々としていた。
 それがなおさら、彼が本気なのだとイオスに思い知らせる。
「……無条件でとは云わん」
「……」
「おまえは俺を仇と憎んでいるのだろう。復讐を求めるならば、俺の背中に隙を見つけたときに、いつでもその槍で貫くがいい」
 それが条件だ。

 今度こそ、空いた口がふさがらなかった。
 いったい何を考えて、この男は、敵方の兵である自分をここまで生き延びさせようとしているのか。
 信頼など生まれないと判っていてなお、何がこの男をこのような愚挙としか思えない行動に走らせるのか。
「……何故……」
 問いは無数に浮かんだものの、かろうじてことばに出来たのはそれだけだった。
 だが、ルヴァイドはそれだけで、イオスに生じた疑問のあらかたを把握したらしい。

「せっかく拾った命だ。――無駄に捨てることもあるまい」

 そうして告げられたそのことばから、思い出すことになったのは。つい数刻前、自分が泣かせた娘のことだった。
 ただ生きていてほしかっただけだと云ったあの少女と、目の前の男。
 ――、どうしてだろう。
 姿も雰囲気もまったく違うのに、その瞳に宿りイオスに向けられる感情の色が、とても似通っているような。もはや同一にさえ近いような。
 錯覚? ……いや、事実。

 くだらないことを、と、切り捨ててしまえばよかったのだろう。
 実際、そうしようと思ったのだ。
 なのに。結局イオスの口から出たことばは、自分でも、信じられないものだった。

「……考えさせてくれ」

 告げてから、自分で自分に驚いた。
「……」
 もはや目の前の男を見る気力もなく、イオスは床に視線を落とす。
 それでも、ルヴァイドが身をひるがえした気配まではなんとか察することが出来た。
 そのまま立ち去るかと思いきや、まだ云うことがあったらしい。
「俺が口を出すことではないかもしれんが――」
 そう前置きして。
「あれぐらいの子供にああいった発言をするのは、今後謹んでおくことを勧めるぞ」
「……!?」
 考えてみればこの男は部隊の総指揮官だ。
 当然、あの少女を軍に起用したのもこのルヴァイドになるわけで。
 だがいったいどういう経緯を辿れば、身分もないような偵察兵(しかもお子様)と自分のやりとりが一軍の長に届くというのか。
 声にならないイオスの疑問に、けれどルヴァイドは律儀に答えを返す。

「あれは俺の養い子でな。俺は、人並み以上にあれに甘い自覚はある」


 いつか、遠いあの日。落ちてきた、迷子。
 行くあてもなく、頼りにするものもなく。
 ただ不安に怯えていた小さな子は、今も、鮮明に脳裏に焼きついている。


「……」
 ――親馬鹿か貴様。

 そう突っ込む代わりに、イオスの口から出たのは次のようなことだった。
「ならば、戦場で逢ったあの娘を僕がもし手にかけていたら、こんな温情はなかったというわけか?」
 それは、半ばやけくそめいた挑発だった。見え透いているにも程があるが、それでも衝動に負けて口走った。
 目の前の男なら、この程度の安っぽい挑発などあっさり受け流すとばかり思って――

 だが。
「―――――」
 ――ぞっ、とした。

 瞬時にして、牢の前に巨大な殺気が出現する。
 一気に背中が泡立ち、鳥肌が立つのを感じた。
 目を上げられない。
 背中を向けているはずの男を視界に入れることを、全身の感覚が拒否した。

「そうだな」

 告げられるその一言一句が、鋭さをもって切り込んでくる。

「せめて楽に死なせてやるくらいの情が残っていれば、というところか」

「……」

 会話はそこで打ち切られた。
 ルヴァイドはイオスのことばも待たず、今度こそ歩き去って行く。
「……っ」
 完全に気配が消えるまで、イオスは微動だに出来ずにいた。
 頭を占めるのは、たった今交わした会話。
 部下となる代わりに、隙さえあればいつでも殺しにこいと。
 条件自体は、ひどくイオスに有利だった。
 だが、最後に感じた殺気が、それは生半可なことではないと警告する。
 まだ未熟な自分の腕では、今向かっていったところで、かすり傷ひとつ負わせられるかどうかさえ怪しいものだった。

 ――そこまで考えて。
 いつの間にかその提案を呑むことを前提に、思考を巡らせていたことに気づき、イオスの口の端が持ち上がる。

 ――いいだろう。
 力が足りないのなら補えばいい。補うためには修練を積めばいい。
 修練を積むにも、そしてあの男を討ち取るにも、まずは生きてここを出なければならない。

 いいだろう。
 ――生き延びて、必ず仲間の仇をとらせてもらう。
 この道を提示したことを、あの男に後悔させてみせよう。

 いいだろう――生き延びてみせよう。

 祖国を裏切ることになろうと、敵地で針のむしろに座りつづけることになろうと、自分が生きていく目的はそれだけだ。

 たとえそれが歪んだものだと自覚していても、目的がある――出来たのだ、それを叶えずにはいられない。


 希望になりえぬ願いだが、それでもそれは、己を動かす力になるのだ。


 そうして、今さらながら、食事を拒否しつづけたことを悔やんだ。
 同時に、そこまで自分の考えを変えられたことが、またおかしくなった。
 そうして視線を動かせば、数刻前に泣かせた娘が置いていった食事が目に入る。
「――」
 すっかり冷え切ったそれを手元に引き寄せて、消化の軽そうなものを一口運ぶ。
 何度もじっくり咀嚼し、それから飲み込む。
 弱った胃に、急に食べ物を流し込んではそれこそ命取りだからだ。
 口に入れる。咀嚼する。飲み込む。
 そうさせるのは、もちろん、生きるという自身の意志。
 生きてここを出たらまず、あの男に改めて宣告しなければならない。
 あちらから一方的に決められた条件だが、自分の意志を強固にするためにも、それは必要なことに思えた。

 そう、
 生きてここを出たら――

  ――生きててほしかっただけだもん――

 ……あの娘に謝ろう。

 ルヴァイドはいくら恨んでも恨み足りないが、あの娘までその対象にする気にはなれなかった。さっきの出来事も、してはならないことだった。
 ――何しろ自分の命の恩人だ。
 まだ素直に受け止めるだけの余裕がなかった先刻と違って、とても真っ直ぐにそう思えたことで、また苦笑。
 本当に、人間というものは目標がひとつあるだけで生きる意志は出るし考えは変わるものだと改めて実感する。
 許されなくてもいい。
 もともと敵同士なのだ、そんなことは望んでいない。
 ただ、さすがにあれは云いすぎたと――後悔するのは、少々でなく遅かったけれど、せめてそれくらいは伝えたいと思う。
「……それにしても……」
 ややあって。思い出すのは先刻の、ルヴァイドの殺気。
 記憶を呼び起こすたびに震えが走るのは止まらなかったけれど、同時に思うことがもうひとつ。

 子供のために、前言撤回する勢いで本気になってどうする。

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