姿形は人間に近かった。そのことに、まず安堵する。
それからすぐに、違和感に気づいた。
気配は悪魔のそれのくせに、近いどころか完全に人間としかいえないその姿への違和感だ。
バルレルでさえ、一目見て悪魔と判る特徴を備えている。
ある程度高位の悪魔の一部は比較的人間に近い姿を有しているというけれど、ここまで酷似しているものなど見たこともない。
そしてその力。
強大なはずなのに微少で、か細くて。
そしてそのいでたち。貌。――顔を。彼女は知っていた。
故にこそ、すぐに正体を悟る。
「……趣味が悪いですよ、悪魔」
最初の自分が育った場所で、よく見た顔だった。
云ってしまえば、それは、途絶えたはずの、かつては自分も属していた一族。
――あのとき滅びたはずの調律者のなかのひとりだった。
攻撃の意志を乗せた杖を突きつける。
だが、悪魔は欠片ほどの動揺すら、見せなかった。一定の歩調で、さくさくと彼女に向けて歩みを進める。
そして。
嗤う。
「ちょうどよかった」
口の端を吊り上げ――壮絶な。笑みを浮かべた。
「私は今、餓えているんです――」
「!?」
増幅。
現出。
強襲。
欠片も感じなかった魔力が、明確な攻撃の意志を持って彼女に襲いかかる。
「――ッ!!」
一撃を弾き、どうして攻撃の意志を感じ取ることが出来なかったか、彼女は悟る。
これは調律者の魔力。
いちばん最初の自分が持っていた、今もいちばん馴染みのある力。
おそらくあの肉体に残っていた――いや、それだけではない。
守護者たる彼女を一瞬とはいえ押し切ろうとした、そんな力を持つ個人が生まれたのなら、真っ先に次代の守護者の話が出ていたはずだ。
つまり。これは。
「喰ったのね……!?」
この地で果てたは、かつての同胞。
その顔を。姿を奪い。力を喰い。おそらく周囲に残った残滓さえ、取り込んだ。
「ええ」
こともなげに、悪魔は答えた。
知ってはいた。それが悪魔というものだと。
知ってはいても――そのあまりに平坦な返答に、彼女は動揺する。
なにしろ、近頃逢う悪魔といったら、バルレルばかり。悪魔らしくない彼。
そんな日々に少し慣れはじめていたところだったから、認識が追いつかなかった。
それが、隙になる。
「――ッ……!」
最後の一撃を飛んで交わし、着地したところに悪魔が迫る。
真っ直ぐに伸ばされる腕。
その指に生えた、鋭い爪はただ一点、彼女の心臓だけを狙っていた。
半身だけでいい。
避けられれば、致命傷はまぬがれた。
けれど、そうするだけの時間を、その腕は与えてくれず――
響いたのは、肉を貫く鈍い音。
貫かれた部位を中心に、熱が生まれる。
えぐれたそこを修復しようと、身体中の熱がそこに集まりはじめていた。
だけどそれは叶わず、熱は留めるものもなく、穿たれた穴から零れ落ちる。
「っ……!」
崩れ落ちる身体を、悪魔が受け止めた。仰向けにそらされる。
つぅ、と。
悪魔は身をかがめ、赤い滝が流れ出すその場所に唇をつける。
――ごくり。
喉が動いて、音が響いて。悪魔が血を嚥下していることを、彼女に教えた。
一滴も逃すまいというのか、休みなく這う舌の感触がおぞましかった。
それでも、それを逃れて流れ落ちる血が、地面に泉をつくっていく光景が、なんとなしに滑稽だった。
だけどなによりおかしかったのは――
やがて。
悪魔が顔をあげる。
まだ流れる血を一瞥して、あと数分もすれば生体としての機能を止めるだろう彼女を見た。
「……おかしいですね」
(なにが?)
もう声も出ない。
唇だけを動かしたそれに悪魔は気づき、怪訝な表情を隠そうともせずに答える。
「貴女の血には、何もない」
貴女の力を感じたからこそ、私は、まどろみから覚めた。
その力を、血識を欲して、貴女を殺した。
「なのに、何もない。――力の欠片も、この血には流れていない」
それは、当然のこと。
理解していない悪魔の声と、初めて見る動揺がおかしくて――知らず、顔が笑みをつくっていたらしい。
「何がおかしいッ!?」
激昂と同時。
どさり。地面に投げ出される。
「まあいい。クズのような血識に用はありません。さっさと輪廻にお戻りなさい」
次に生まれるときには、ぜひとも甘露を提供していただきたいものですね。
冷淡に告げ、背を向けようとした悪魔へ、
(無理よ)
彼女は、そう語りかけた。
声は出ず、ただ唇が動いただけ。
それでも悪魔は振り返った。
もはや濃霧のなかを見ている気分で視線を合わせた彼女は、告げる。
(――わたしの力はわたしの魂そのものだから)
魂喰いでない限り、これを奪うことは出来ないでしょう。
それを聞いた悪魔の目は、凝然と見開かれた。
「……バカな」
それでは輪廻の意味がない。と、悪魔はつぶやく。
霊界サプレス。他の三界、そしてリィンバウムを取り巻く輪廻のめぐりは、これらの世界で暮らす者なら、誰にも深く刻まれた揺るがぬ事実。――人間でも、悪魔でも。
この此処に、生きて在るのなら。
「力は」悪魔は云う。「――力は、今生だけのもの。だからこそ、ニンゲンは醜く努力するのでしょう」
第一、魂に力が刻まれていても、転生すればその使い方を知らぬまま生きることになる。
そのような無駄、本来ありえない。
ありえない――だがその体現がここにいる。
「それとも……貴様、天使か?」
殺気が膨れ上がる。
だけど、彼女はそれをさらりと受け流す。
受け流して、
(いいえ)
――微笑んだ。
(わたしは人間です……その身に血識が流れているのなら、判りませんか?)
そのことばに、悪魔はしばし目を伏せた。
記憶を引き出しているのか、血識を探っているのか――
やがて。
「……守護者!?」
バカな、姿が違う――! 動揺もあらわに、悪魔は叫んだ。
「何故、生きている……私が封じられてから、人の一生が数回めぐる以上の時は過ぎたはずだ!!」
(――ああ)
それで判った。
(貴方は……)
この悪魔はおそらく、この森へ攻め込んだ悪魔達の軍の者なのだ。
力や、憑依の巧みさから見るに、疑いようなく上位の存在。
アルミネの暴走で、一帯にいた悪魔はすべて滅びたと思っていたのに、――よりによって御大が、生きていたとは。
それとも、まだまだ生き延びた悪魔達は他にもいて、この結界の向こうに閉じ込められているのだろうか?
――ぞっとしない。
だから、それを振り払うように。彼女は悪魔に語る。
(あのときのわたしは死にました)
あの悲劇のあとの戦いで。
(でも、このわたしは、わたしです)
最初の自分の記憶も抱いて、次の自分の記憶も抱いて。
培った経験も、力も、すべて魂に刻み込んで。
「……エルゴがそのようなことを認めるというのか……!?」
(認めざるを得ないんですよ)
たとえ悪魔でも――やはり彼もまた、この世界たちの命なのだと、埒もなく思う。
(……守護者をつとめられるくらい強い存在が、もういないから)
あなたたちとの戦いで、当時最強と謳われた、わたしを生んだかの一族は滅びてしまったのだから――
細々と生き延びているという極一部の一族の者たちには、もう、魔力の欠片さえ残っていないと教えてくれたのは、メイメイだった。
事実上、それは滅びたと同義。
「……」
悪魔は黙って彼女を見下ろす。
それは果たして今の話を信じたのか、はたまた世迷言をと蔑んでいるのか。
判別するには、少し時間が足りないようだと彼女は思う。
(信じられないならそれでもいいです)
……どうせまた、わたしはあなたと逢うでしょうから。
「何故です?」
(あなたはリィンバウムを狙う悪魔でしょう? わたしはリィンバウムを守る人間です)
「――――」
フ、と、悪魔は笑った。
「おもしろい。では次の貴女になったら、すぐに私に逢いにきなさい」
力を蓄えるまでの長い時間のほんのひととき、何かを待つのも悪くない。
それは、たぶん、ほんの小さな気まぐれ。
奪うはずのものだのに奪えず、自分の手から滑り落ちてゆく力。その持ち主を敬した、小さな感情。
「そのときまでに、貴女の力を食らう方法を、どうにか考えてみるとしましょうか」
(……出来るものなら、ね)
悪魔の見守るその前で、彼女の身体は光に包まれ――消えた。