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lll 始まりのうた 4 lll




 月日の流れを数えるなど、無駄だと知っていた。
 生の長さを計ったところで、何の意味もないと判っていた。
 けれど、悪魔は、リィンバウムの季節がひとつ巡るたびに、小さな銀を繋いでいった。

 ――それが、一連なりの環になるほどの長さになった、ある日。

 待つ楽しみというのはこういうものなのかと、とりとめもなく、悪魔が思った日のことだ。





 白い陽炎。
 白い杖。
 あのときとはまた違う姿の彼女が、悪魔としての気配を隠していない彼に、恐れ気もなく近づいてきた。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 彼女は悪魔の隣に座る。
「普通、警戒しませんか?」
 呆れた声で問いかけるけれど、彼女は平然としたものだ。
「不意打ちは、一度だけで充分です」
「――なるほど」
 二度はないという言外のそれに、悪魔は感心する。「それで」、と切り出した彼女の声で、すぐに意識は立ち戻ったが。
「わたしを喰らう方法。思いつきましたか?」
 問われた悪魔は肩をすくめた。
「いくらか考えてはみましたがね、どうも実現が難しそうで悩んでいるところです」
「それじゃあ、ためしにまた、血で奪えるかどうかやってみます?」
「遠慮しますよ」
 今の私では、不意打ち以外の手段で、貴女を楽に倒せるとは思いませんし。
「第一私は今、力を蓄えている最中です。無駄な労力は使いたくないのですよ」
「あら」悪戯を思いついた子供のような笑顔。「それじゃあ禍根を断つために、今のうちに殺しておきましょうか」
「おやめなさい。この肉体が滅びるだけです」
 すぐに、別のどこかの誰かに、自分が移り住むだけだと。
 告げると、彼女は眉を寄せて問いかけた。
「要するにあなたは欠片なんですね……本体はどこにあるんです?」
「あそこに」

 指し示した先には禁忌の森がある。
 もう、今では何者も出入りすること叶わない、閉ざされた空間。

 その指の先を追って視線をめぐらせた彼女は、拗ねたように、ぽりぽりと頬をかいた。
「じゃあ殺しにいけないじゃないですか」
「私も貴女を殺せないのですから、お互い様でしょう」

 しばし沈黙。
 重苦しくはないそれを、彼女はややあって払いのけた。

「……ここまで成長する間に、考えてみたんですけど」
 本人に確認するのが、やっぱり一番手っ取り早いので訊きますね。

「どうぞ。私に答えられることでしたら」
「あなたのお名前はなんですか?」

「……」
 鳩が豆鉄砲をくらった、と表現するに相応しい表情だろう。どこか他人事のように悪魔は考え、そして問い返す。

「考えて答えが出ることですか?」
「いえ、喉元まで出てるんですけど」

 どうしても出てこなくて、もう何十年なんですよね。
 花香る少女の姿でそんなことを云われても、悪魔だって困る。いや霊界でなら別に珍しい光景ではないのだが、リィンバウムのニンゲンどもというのは基本的に、そのン十年で朽ちるからだ。
 ……ここにいる例外を除いて。

「メルなんとかですよね、たしか、あなた」
「……名前など……」いやな覚え方をされているなあ、と、悪魔が考えたかどうかは、本人のみぞ知る。「そんなもの、このような欠片にとっては、意味などありませんよ」

 否定も肯定もせずに返すことばはだが、彼女にとっての明確な肯定。
 無言で促されるその先に、悪魔は小さく苦笑した。
「そのとおり。かつてこの世界を狙い、愚かにも大詰めで封じられた悪魔の欠片です」
 守護者たる貴女の監視をやりすごしたまでは、良かったのですけれどね。
「やっぱりね。一部を切離して自由に行動するなんて離れ業、普通あんまり見ないもの」
 ふふん、と、勝ち誇ったような笑顔。
 で。
「名前は?」
「……どうして知りたがるんですか」
「それは勿論、思い出せないと気持ち悪いからです。前にも話したことがあって、そのときからずっと引っかかってるんですよね」
 それはまた。先ほども思ったが、つくづく気の長い話である。
 話したという相手のことが気になるが、そんなことはおくびにも出さず、悪魔はほとほと呆れ果てたという表情をつくってため息をつく。
 そして、答えた。

「メルギトス、と申します」

「うわ怖い名前」
「即行それですか」
「だって。メルなんとかのほうが、まだ可愛げがありましたよ?」
「ケンカ売ってるんですか貴女は」

 何故か買う気は起きないままにそう云うと、彼女はくすくす笑ってそれをやり過ごす。
「うーん、でも。うん。わたしだったら、そんな怖い名前呼びたくありませんねー」
「でしたら呼ばなくてもいいでしょう」
 むしろ好きに呼べばいい、と、悪魔は付け加えた。
「どうせ欠片なのですから、真の名に拘る必要などそう感じていませんし」
「え、でもホラ。あなたが姿を変えるたびに、いちいち仮名を覚えなおすのって面倒ですし」

 ……

「ちょっとお待ちなさい。貴女は私に付きまとう気ですか!?」
「当然です」
 何をいまさら、とばかりに云いきる彼女。
「欠片のあなたを殺しても意味がないのなら、いつかあなたが本体に帰るのを待って戦いを挑みます」
 そのときまでは、しっかりがっちり監視させていただきます。

 堂々と。
 胸を張って。
 そりゃもうご立派な意見を放つ彼女を、悪魔はまじまじと、穴が開くほど凝視して――

「は……」
「は?」

「はは――あはははははははッ!」

 ――笑い出した。大爆笑だった。


 彼女が驚いて後ずさり、さらに距離をとり、それからしばらくの間見守って、最後におずおずと戻ってきても、まだ悪魔は笑っていた。
 太陽の角度がかなり変わるまで、ただひたすら笑っていた。
 それほどにおかしかった――意表をつかれた。

 だけど――とても、心地好かったのだ。



 笑いつかれた悪魔を、彼女は呆れ返って見下ろしている。
 悪魔はしまいにゃ仰向けになってしまったから、隣に座るとどうしても見下ろさざるを得ないのだ。
 そんな視線など何のその、やっと笑いの発作がおさまった悪魔は、「では」と彼女に微笑みかけた。
「あなたなら、なんという名前を私にくださいますか?」
「え? わたしがつけていいんですか?」
 そうね、わたしだったら――
 ただの戯れのつもりだった一言だが、彼女は真面目に考え込む。

 穏やかな沈黙が流れ、涼しい風がふたりの間を吹き抜けていった。

 そうして、風に巻き上げられた彼女の髪が、一房、また一房と地面に落ちるころ。
 ぽん、と手を打ち鳴らすが響いた。

「レイム! うん、レイムってどうかなっ!」

 よほどその名前が気に入ったのか、少し頬を紅潮させて、彼女は悪魔を覗き込んでくる。
「レイム……レイムですか」
 単語を、口のなかで転がして。
 悪魔は、そうですね、と微笑んだ。

「――素敵な名前をありがとうございます」

 そして、「これから」と付け加える。
「私は、そう名乗ります。――貴女がつけた名でもって、応じましょう」
 幾度姿が変わっても、貴女が私を見つけきれるならば、私はその名をいだきます。

 ほころぶ表情。
「よかった」
 と。
 案が受け入れられたことに安堵する彼女と目線を合わせるために、レイムは起き上がる。
「ですからね」
「はい?」
 無防備な視線。
 相手が自分を殺すことはないと――殺せないと判っているからこその、それだとしても。ああなんて、無邪気に無敵。
 ついぞお目にかかったこともなかった対応。それは、それが、彼女だからだろうか。ひどく――悪魔たる身には馴染みのない感情だけれど、それはたしかに存在していて――、心地よくて。

 ああ、そうですね。悪魔は思う。
 いつか必ず殺しあうのだから、そのときに改めて相手を探すのも愚かなこと。
 そしてきっと、彼女もそう思っていたのだろう。

「共にいましょうか」
「そうしましょうか」

 だから。提案は、あっさり受け入れられた。

 そうしてレイムは彼女と出逢い、彼女はレイムと出逢ったのである。


 そしてこれが、歌のはじまりのことば。

「ああ、そういえば訊き忘れていました」
「あら。何かありましたっけ?」
「ええ」


 ――貴女の名前は、なんですか?

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