月日の流れを数えるなど、無駄だと知っていた。
生の長さを計ったところで、何の意味もないと判っていた。
けれど、悪魔は、リィンバウムの季節がひとつ巡るたびに、小さな銀を繋いでいった。
――それが、一連なりの環になるほどの長さになった、ある日。
待つ楽しみというのはこういうものなのかと、とりとめもなく、悪魔が思った日のことだ。
白い陽炎。
白い杖。
あのときとはまた違う姿の彼女が、悪魔としての気配を隠していない彼に、恐れ気もなく近づいてきた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
彼女は悪魔の隣に座る。
「普通、警戒しませんか?」
呆れた声で問いかけるけれど、彼女は平然としたものだ。
「不意打ちは、一度だけで充分です」
「――なるほど」
二度はないという言外のそれに、悪魔は感心する。「それで」、と切り出した彼女の声で、すぐに意識は立ち戻ったが。
「わたしを喰らう方法。思いつきましたか?」
問われた悪魔は肩をすくめた。
「いくらか考えてはみましたがね、どうも実現が難しそうで悩んでいるところです」
「それじゃあ、ためしにまた、血で奪えるかどうかやってみます?」
「遠慮しますよ」
今の私では、不意打ち以外の手段で、貴女を楽に倒せるとは思いませんし。
「第一私は今、力を蓄えている最中です。無駄な労力は使いたくないのですよ」
「あら」悪戯を思いついた子供のような笑顔。「それじゃあ禍根を断つために、今のうちに殺しておきましょうか」
「おやめなさい。この肉体が滅びるだけです」
すぐに、別のどこかの誰かに、自分が移り住むだけだと。
告げると、彼女は眉を寄せて問いかけた。
「要するにあなたは欠片なんですね……本体はどこにあるんです?」
「あそこに」
指し示した先には禁忌の森がある。
もう、今では何者も出入りすること叶わない、閉ざされた空間。
その指の先を追って視線をめぐらせた彼女は、拗ねたように、ぽりぽりと頬をかいた。
「じゃあ殺しにいけないじゃないですか」
「私も貴女を殺せないのですから、お互い様でしょう」
しばし沈黙。
重苦しくはないそれを、彼女はややあって払いのけた。
「……ここまで成長する間に、考えてみたんですけど」
本人に確認するのが、やっぱり一番手っ取り早いので訊きますね。
「どうぞ。私に答えられることでしたら」
「あなたのお名前はなんですか?」
「……」
鳩が豆鉄砲をくらった、と表現するに相応しい表情だろう。どこか他人事のように悪魔は考え、そして問い返す。
「考えて答えが出ることですか?」
「いえ、喉元まで出てるんですけど」
どうしても出てこなくて、もう何十年なんですよね。
花香る少女の姿でそんなことを云われても、悪魔だって困る。いや霊界でなら別に珍しい光景ではないのだが、リィンバウムのニンゲンどもというのは基本的に、そのン十年で朽ちるからだ。
……ここにいる例外を除いて。
「メルなんとかですよね、たしか、あなた」
「……名前など……」いやな覚え方をされているなあ、と、悪魔が考えたかどうかは、本人のみぞ知る。「そんなもの、このような欠片にとっては、意味などありませんよ」
否定も肯定もせずに返すことばはだが、彼女にとっての明確な肯定。
無言で促されるその先に、悪魔は小さく苦笑した。
「そのとおり。かつてこの世界を狙い、愚かにも大詰めで封じられた悪魔の欠片です」
守護者たる貴女の監視をやりすごしたまでは、良かったのですけれどね。
「やっぱりね。一部を切離して自由に行動するなんて離れ業、普通あんまり見ないもの」
ふふん、と、勝ち誇ったような笑顔。
で。
「名前は?」
「……どうして知りたがるんですか」
「それは勿論、思い出せないと気持ち悪いからです。前にも話したことがあって、そのときからずっと引っかかってるんですよね」
それはまた。先ほども思ったが、つくづく気の長い話である。
話したという相手のことが気になるが、そんなことはおくびにも出さず、悪魔はほとほと呆れ果てたという表情をつくってため息をつく。
そして、答えた。
「メルギトス、と申します」
「うわ怖い名前」
「即行それですか」
「だって。メルなんとかのほうが、まだ可愛げがありましたよ?」
「ケンカ売ってるんですか貴女は」
何故か買う気は起きないままにそう云うと、彼女はくすくす笑ってそれをやり過ごす。
「うーん、でも。うん。わたしだったら、そんな怖い名前呼びたくありませんねー」
「でしたら呼ばなくてもいいでしょう」
むしろ好きに呼べばいい、と、悪魔は付け加えた。
「どうせ欠片なのですから、真の名に拘る必要などそう感じていませんし」
「え、でもホラ。あなたが姿を変えるたびに、いちいち仮名を覚えなおすのって面倒ですし」
……
「ちょっとお待ちなさい。貴女は私に付きまとう気ですか!?」
「当然です」
何をいまさら、とばかりに云いきる彼女。
「欠片のあなたを殺しても意味がないのなら、いつかあなたが本体に帰るのを待って戦いを挑みます」
そのときまでは、しっかりがっちり監視させていただきます。
堂々と。
胸を張って。
そりゃもうご立派な意見を放つ彼女を、悪魔はまじまじと、穴が開くほど凝視して――
「は……」
「は?」
「はは――あはははははははッ!」
――笑い出した。大爆笑だった。
彼女が驚いて後ずさり、さらに距離をとり、それからしばらくの間見守って、最後におずおずと戻ってきても、まだ悪魔は笑っていた。
太陽の角度がかなり変わるまで、ただひたすら笑っていた。
それほどにおかしかった――意表をつかれた。
だけど――とても、心地好かったのだ。
笑いつかれた悪魔を、彼女は呆れ返って見下ろしている。
悪魔はしまいにゃ仰向けになってしまったから、隣に座るとどうしても見下ろさざるを得ないのだ。
そんな視線など何のその、やっと笑いの発作がおさまった悪魔は、「では」と彼女に微笑みかけた。
「あなたなら、なんという名前を私にくださいますか?」
「え? わたしがつけていいんですか?」
そうね、わたしだったら――
ただの戯れのつもりだった一言だが、彼女は真面目に考え込む。
穏やかな沈黙が流れ、涼しい風がふたりの間を吹き抜けていった。
そうして、風に巻き上げられた彼女の髪が、一房、また一房と地面に落ちるころ。
ぽん、と手を打ち鳴らすが響いた。
「レイム! うん、レイムってどうかなっ!」
よほどその名前が気に入ったのか、少し頬を紅潮させて、彼女は悪魔を覗き込んでくる。
「レイム……レイムですか」
単語を、口のなかで転がして。
悪魔は、そうですね、と微笑んだ。
「――素敵な名前をありがとうございます」
そして、「これから」と付け加える。
「私は、そう名乗ります。――貴女がつけた名でもって、応じましょう」
幾度姿が変わっても、貴女が私を見つけきれるならば、私はその名をいだきます。
ほころぶ表情。
「よかった」
と。
案が受け入れられたことに安堵する彼女と目線を合わせるために、レイムは起き上がる。
「ですからね」
「はい?」
無防備な視線。
相手が自分を殺すことはないと――殺せないと判っているからこその、それだとしても。ああなんて、無邪気に無敵。
ついぞお目にかかったこともなかった対応。それは、それが、彼女だからだろうか。ひどく――悪魔たる身には馴染みのない感情だけれど、それはたしかに存在していて――、心地よくて。
ああ、そうですね。悪魔は思う。
いつか必ず殺しあうのだから、そのときに改めて相手を探すのも愚かなこと。
そしてきっと、彼女もそう思っていたのだろう。
「共にいましょうか」
「そうしましょうか」
だから。提案は、あっさり受け入れられた。
そうしてレイムは彼女と出逢い、彼女はレイムと出逢ったのである。
そしてこれが、歌のはじまりのことば。
「ああ、そういえば訊き忘れていました」
「あら。何かありましたっけ?」
「ええ」
――貴女の名前は、なんですか?