目が眩み、意識さえ飛ばされて。
次にヤードが気づいたときには、そこは、先ほど自分がいたトコロとはまた違う路地裏の一角だった。
「気がつきました?」
「……あ……」
目の前にはひとりの少女。
何故か衣服の裾が所々破けている。
そうして、彼女の衣服と同じ色のそれが、ヤードの身体のそこかしこに巻きつけられている。
彼の視線を辿り、少女は照れくさそうに笑みをつくった。
「すみません。包帯の持ち合わせがなかったので、一応止血です」
ことばどおり、盛大ににじんでいた血は殆ど止まっている。
だが、普通に止血しただけで、こうなるはずはない。
物問いたげな視線を送ってみるが、少女は答える素振りさえみせずに微笑んでいる。
「企業秘密、です」
それでも、意図は察してそう云うあたり――かなり良い神経の持ち主なのだろう。
「さて」、
最後の一巻きを終えると、少女は立ち上がった。
壁に背を預けて座り込むヤードを見下ろし、
「適当に何か調達してきます。薬とか食料とか。それまで、じっとしていてくださいね」
「……すみません」
そんなボロボロの服で行けば、好奇の視線にさらされることは否めまい。
年頃(だろうと思われる)少女に、そんなことをさせるのは、ヤードとしてはとても不本意ではあったけれど。
だけど、自分が動けない以上は、その厚意に甘えることしか出来ず――
謝罪のために頭を下げたヤードを見て、少女が少し慌てたように瞠目する。
「あ、いえ、そんな、頭上げてください。あたし、一応あなたに喚ばれたわけですから」、
割り込みだけど。
「召喚主の命を護るのは、召喚獣の基本だそうですし。だから、中船に乗ったつもりで」
――それを云うなら大船だろう。
笑おうとして、塞がりきっていない傷口が、悲鳴をあげた。
「・・・ぅ」
「うわ! ああもう行ってきます! じっとしててくださいね!!」
傷を押さえてうめいたヤードを見、少女は今度こそ踵を返して走り出そうとする。
けれど、それは再び途中停止。
少女が走り出そうとした路地の向こう――ヤードの位置感覚が間違っていなければ、港に通じる出口側に。
逆光で顔は見えないが、人がひとり、立っていたから。
じり、と、少女の足が位置を変えた。
ヤードを背に庇うように、移動する。
その彼女に、人影が声をかけた。
「――なあんか騒がしいと思ったら……逢引なら、もうちょっと場所と時間を選んだ方がよくないかしら?」
「……えっと……」
「あら、ワケあり? アタシは別に、アナタたちに危害を加える気はないわよ?」
警戒心の混じった少女のことばに、人影は軽やかにそう返す。
言葉遣いは女性のものだが、その声は――ちょっと、女性というには難のあるもの。
そのギャップにか、それとも人影のことばを信じてか、少女は構えを解いた。
それを見て、人影が手を口元に持っていく動作をした。
「ああよかった。いくらアタシでも、アナタみたいな相手に一人で勝てる自信なんてないもの」
『紅き手袋』の連中相手に渡り合えるような、そーいうすごい子には、ね。
ころころと。
笑う人影。
そして少女が、ぴきっと音高く固まった。
ヤードも同じく身を固くしたが、少女のそれは、少し事情が違うらしい。
「み……見たんですか?」
「ま、ある程度はね」
肩をすくめるその仕草は、少し道化じみていて。
「最後の閃光で、仕上げは見れなかったけどね。あれ、閃光弾か何かかしら? どっちにしても特製の品っぽいとは思ったけど」
「・・・せんこーだん・・・」
「違うの?」
「いえそうです!」
からかうようなことばに、少女は慌ててそう答える。
あからさまに違うと云っているようなものだが、下手に追及かけて薮蛇になってはたまったものではないのだろう。
それから、ふと首をかしげて。
「……紅き手袋?」
「暗殺者の集団ですよ」
少女の問いに答えたのは、人影ではなかった。
座り込んだまま、ふたりのやりとりを見守っていたヤードである。
ヤードはそのまま顔をもたげ、なんとか人影を見通そうと目をこらし、
「だが、その名は一般人の知るところではない。……あなたはいったい、何者――」
ですか、まで、ヤードは云い切ることが出来なかった。
「ちょっと……その声とバカ丁寧な話し方……、もしかしてヤード!?」
驚きを前面に押し出した人影が、あろうことか、彼の名を呼んだからだ。
次いで、少女の横をすり抜けて、ヤードの前に膝をつく。
まじまじと覗き込むその顔を見て――ヤードも、目を見開いた。
遠い昔。
まだ、何も知らずに暮らしていた頃。
面立ちに幼さなど残っていないけれど、かろうじて浮かぶその面影。
「……スカーレル!?」
「うそ! やっぱりヤードなわけ!? 何してるのよアンタ!!」
いや、ていうか、そっちこそいつの間に女ことばでしゃべるようになったんですかと。
云いたくても、云えなかった。
がくがく肩を揺さぶるスカーレルのおかげで、今度こそ、ヤードは意識を手放してしまったからである。
……最後に目に映ったのは、驚愕を浮かべたスカーレルの向こう、ぽかんとふたりを見守っていた、赤い髪の少女だった。
結局あの後どうなったのかというと、スカーレルと少女が、ふたりがかりでヤードを抱えてここに転がり込んだらしい。
ここ――というのは、船。しかも海賊船。
スカーレルが身をおいているというこの船は、ちょうど、あの街の港に停泊中だったのだ。
この偶然に感謝しなさい、とは、目の前のスカーレルのことば。それから彼は、ヤードとともに船に押し込まれることになった少女について、補足説明。
「あの子、さっさと行こうとしたんだけどね。アタシの友人を助けたんなら、オレたちにも恩人だ、ってカイルが引き止めちゃったのよ」
与えられた船室で、横になったままのヤードに事情説明をするスカーレルを見て、彼は、小さく笑った。
少女が困惑したろう様子が目に見えたからでもあり、また、それが微笑ましかったからでもあり――それから、幼馴染みであるスカーレルが、屈託なく笑うことに安堵したからでもあった。
幼いあの頃、今はもうない故郷での記憶を唯一共有している相手。
身を置いていた暗殺者集団――紅き手袋を抜け、今ではこの海賊一家のご意見番をしているのだと、彼は明るく笑った。
「そうですか……」
「とりあえず、聖王国まで行きたいらしいのよ。だから、近場の港町まで乗せることにしたわ」
「近場というと……?」
首を傾げるヤードに、スカーレルは、ひとつの港街の名を告げる。
「ほら、あそこなら、ちょっと潜れば旧王国行きの船さえ見つかる、ここいらの海上交通のメッカだし」
「なるほど」
それならば、安心して良さそうだ。
ため息をついて、ヤードは枕に背を預けた。
何を間違ったか知らないが、彼女はおそらく、四界のいずれにも関係のない、ただの人間だ。
おそらく、自分が集中を欠いて用いた召喚術が、彼女を喚んでしまったのだろう。
通常の送還では帰すことが出来ないだろうと思っていたが、彼女が自ら行くべき地を告げてくれたことには、少しだけ安心できた。
「――さて、それはそれとして、よ」
つと、スカーレルが表情を改めた。
「アンタ、いったい、何をやらかしてあんなことになってたわけ?」
「……」
ヤードのそれは黙秘権を行使するためではなく、話の段取りをまとめるための沈黙だった。